『怖い絵』について一通り書き終えたので、純粋に体験記を~と思っていましたが、もうひとつ番外編として徳島ー淡路島プチ旅行でもやっとしたことを書いておきたいと思います。

私がもやっとしたのはこちらです。

宿泊したホテルのエレベーターに、このようなチラシが貼られてありました。



みなさんはこれを見てどう思うでしょうか。

注意喚起していてえらい、児童の性犯罪なんて許せないなど、いろいろありそうですが、私は冒頭に書いた通りもやっとしました。

その理由は、なくすべき対象として強調されているのがこどもの「性被害」になっていることと、児童がいたら警察へ連絡となっていて、あたかも児童がその場にいたのが問題・悪いかのような表現で終わっていることに対して疑問を抱いたためです。

もちろん、こどもの性被害はなくすべきであり、被害の対象となるこどもがホテル(というおそらくあまり馴染みのない空間)にいたら周囲の大人が注意するよう促すことは、こどもが犯罪に遭うリスクを下げうるとは思います。その必要性は理解しています。

しかし、なくすようにと強調すべきはこどもに対する「性加害」であり、児童を狙う大人たちが問題であり悪いというメッセージだと私は思うのです。
 

以前、NHKがストーカー被害に関する記事を出し、それをツイッター(現X)に載せた際に冒頭にあった(リード文)のは

https://x.com/nhk_news/status/1720340030332297265

「交際相手をストーカーにしないために」

という文言でした。

記事の内容自体は有益であり、ストーカーが危険であることや自衛する必要性の注意喚起などは大切だと理解しますが、この文言ではあたかもストーカーにした人がいる・そうさせた人が悪いかのように読めてしまいます。

これはどう考えてもおかしいでしょう…。

(実際これに対して「おかしい」という声は多く上がりましたが、私の知る限りではそのほとんどが女性だったのではないかと思います)。
 

当たり前ですが、被害に遭う人たちが加害者を生むわけではありません。

交際相手をストーカーにした人がいるのではなく、ストーカーになった人がいるのです。

※加害者にもなんらかの被害経験があるということは十分にありえますが、それが加害を許す口実にはなりません。

ましてや、こどもたちは明らかに社会的弱者の立場にいるために、強者である大人はこどもたちを犯罪から守らなければなりません。

その方法として、こどもたちに危険なところ・ことを伝えるという役割・責任もありますが、都度出すべきメッセージは「犯罪をする方が悪い」のだということであると私は考えます。

人権教育も足りていない中で、上記の張り紙のようなメッセージが大人から発せられる、警察から発せられるということは酷なことのようにすら私には思えます。

とはいえ、こうした光景は日本に限らず見られるようで…『説教したがる男たち』ではこのような記述がありました。

女ならいやというほど目にしてきたようなことが書かれたものだが、こちらのヴァージョン(「レイプを止める十の方法」)はひねりが効いていた。例えばこんなアドバイスが書いてある。「ホイッスルを持 歩きなさい。『誤って』だれかを襲ってしまいそうになったら、その人が助けを呼べるようにホイッスルを渡すこと」。笑えることは笑えるが、同時におそろしいことを言い当ててもいる。こういう状況に対するガイドラインは通常、被害を受ける側にすべての責任を負わせ、暴力をあらかじめ起こっても仕方のないものとして扱っているのだ。大学は女子学生にレイプ犯からの護身術を教えるひまがあったら、もう半分の学生にレイプ犯にならないよう言って聞かせたほうがいい(というか、そうしないことには百害あって一利なしだ)

 

社会的に優位な立場にいる男性としては、このことはもっとこどもの頃から知り、学ばないといけないのではないかと思わされます。

(ここでちらっと体験記になりますが)お試し暮らし中に『レインボーオアシス』といったイベントにお邪魔してみたことがありました。

 





「吉野川ハイウェイオアシス」という施設が会場で、もともとあるおみやげ屋さんや飲食店に加え、体験ブースや出し物があったり、外では団体の様々なお披露目や屋台が設置されて様々な商品や食べ物が売られていたりして、大変賑わっていて楽しいイベントだったのですが、率直に私が感じてたのは「父親はどこにいるのか…?」ということでした。

親子向けイベントとされていたため、こども連れの姿が多く見られたのですが、、こどもと一緒にいる大人のほとんどが女性(母親)だったのです(出し物などで父親と一緒にいるというパターンが多かったとは思いますが…)。

このことと、張り紙の件・強調されるべき点の話と重なるのはここからで、イベントにはあまりにも多くの人がいたため、こどもが迷子になりかねないシチュエーションがちらほら見られ、実際にある子がふらふらと親から離れていってしまうような場面と私はたまたま遭遇しました。

私はその子の様子を見ていて、ちょっと危険かもと思われた場面でその子の近くに行って、いつでも手を差し出せる状況を作りました。

そして、その子の保護者さんがこちらに気づき、つながれるように動いて、無事に何事もなく合流することができました。

私の動きが正しかったかどうか、私が動いたから何事もなかったかどうかについてはわかりませんが、(考えたくもないですが)もしそこに付け狙う大人がいたとしたら、これは加害を防ぐ行為だったとも言えるかもしれない、と考えます。

それをするべきは誰かといえば、力を持った大人でありーこの社会でそれは男性であることが多いでしょうーその場にそうした存在がそもそも少なかったことにもやっとしていたのです。

このもやっとは、張り紙を見たときと同じようなもやっとであり、こうしたことは確実に日常と非日常(犯罪や災害時)とでつながっているんだよなと書きながら思うのです。

こどもがいる・いないなど関係なしに自分たちとも関係していることなんだよなとも改めて感じています。

こうしたもやっとは実はもうたくさん言語化されているはずだと思いますが、それが聞かれていないのであればもっと声を大きくしていくことが必要なのでしょうか(そのあたり私はもっと勉強しないとなと思います)。

少しでも改善されていくようにできることをしていたいと(自身の加害性を反省しながら)思った経験なのでした。