大塚国際美術館で出会った『怖い絵』のこと。
残り2つの絵について触れようと思っていますが、そのうちのひとつがこちら、ベラスケス・ディエーゴの『ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)』です。
なんとなく全体の雰囲気が暗い感じはするにせよ、どこが「怖い」のかについてはあまりピンとこない作品のように思われますが、結論から言うと、この絵は人間の自由の制限や人を人として扱わない様子(社会)、その「怖さ」が描かれている作品だとされています(以下の引用はすべて『怖い絵 泣く女篇』からとなります)。
イスラエルによるガザのジェノサイドがはじまって、半年以上が経ちました。
正確には、いま私たちが目の当たりにしている光景は、75年間にもわたるイスラエルによるパレスチナの占領があり、パレスチナ人の自由が制限され、人を人として扱わずにきた中でーそして世界がそれに沈黙してきたことでー起こっている暴力のひとつなのだと言えるように思います。
少しずつそのことが伝えられるようになってきた(と言っていいのかは定かではないですが…)にもかかわらず、それでもまだ私たちはこの虐殺を止めることができないでいます。
なんならそれを知ってもなお、なのか、知らないままでいるのかはわかりませんが、アメリカ、そして日本政府をはじめ、ジェノサイドに加担するという動きが未だに見られるといった、恐ろしい社会・世界で私たちは生きています。
こうした恐ろしさは、この絵が訴えかけている社会の「怖さ」と人間の愚かさとなんら変わらないのではないか。
そんなことを思わされるので、まとめたいと思います。
名画中の名画
と評されるこの絵は、『宮廷の侍女たち』あるいは『女官たち』といったタイトルとなっていますが、
このタイトルが通るようになったのは十九世紀以降
になってからということで、それまでは
絵が描かれた十七世紀当時の作品目録には、『家族の肖像』あるいは『王の家族』と記載
されていたと言います。
数人の多様な人たちが集まるこの絵が「家族」の姿なのか、「侍女」「女官」という力関係が働く集団の姿なのかによって見え方は大きく異なってくるように思いますが、
宮廷に住む者たちは画家も侍女も道化も、みな一種の「家族」とー実態はどうあれー考えられていたのだろう
とあるように、一括りに権威あるものとして語られてきたことを思うと、「怖さ」がより浮かび上がってくるような気が私はします。
ちなみに、この絵=王宮内にある「皇太子の間」は
王の信頼あつい宮廷画家ベラスケスのアトリエとして使われていた
ようで、奥にいてこちらを見ている男がベラスケス本人だとされていますが、9人の登場人物はなぜこちらを向いているのか、ベラスケスはそこで何を描いているのか、どういうシーンを描いた作品なのか…などと様々な解釈がされてきた作品のようです。
著者の中野氏はこうした解釈が様々あることについて
何しろ複雑でたくらみに満ちた作品なので、いろいろ想像できるのが楽しい。そこにベラスケスの腕の冴えが加わる。
と、その魅力を書いています。
そんな魅力的な作品を「怖さ」の観点で見る時に浮かぶのが
(スポットライトを浴びた)マルガリータ王女の愛らしさに、(右にいる)矮人マリア・バルボラの一見ふてぶてしい面構えが対比させられている
点だと中野氏は指摘します。
バルボラは軟骨無形成症で、
病気の症状として頭部が目立ち、手足が極端に小さく、顔も前額部が飛び出し鼻の根が凹むという特徴を有している
ようで、それはそれだけのことに過ぎないはずですが、
こうした姿に生まれたがゆえに、こうした道化として生きてゆかねばならないひとりの女性の半生が、ベラスケスの冷静で写実的な描写によって、ありありと立ちのぼってくる
と言うのです。
時代を見てみると、この当時
フェリペ四世が戴冠したころ、宮廷には数百人を数える奴隷がいた。
と言われており、
奴隷制は悪とは考えられておらず、それどころか奴隷労働の基盤あってこそ理想の国家体制が築かれると主張されていた
と言います。
もっぱら重労働を担う一般の奴隷の他に、バルボラのような「慰み者」(この命名も凄い!)と呼ばれる道化たちもいてー矮人、超肥満体、巨人、異形の者、阿呆、おどけ、黒人、混血児などー、その数はベラスケスが宮廷にいた四十年の間だけでも、五十人を超えた。
と言われていて、人として扱われない人がいることは当然のことかのようにされていたというのです。
卒倒しそうになる事実ですが、これが今もまかり通っていることは冒頭に触れたとおりです(しかもそれは現実至るところで行われてもいます…)。
奴隷の中でも、たとえば「慰み者」のバルボラは恵まれた立場にいたと言われているようですが、それでも
「装飾」として、「ステイタス」として、「富の誇示」として養われていた
に過ぎず、当時の
奴隷マーケットにおける不具者の値段は、現代のペット市場における珍種と同じく、非常に高価だった
ということからもそれが明らかだとここではされています。
バルボラに関しては宮廷に就職したのでなく
ドイツから連れてこられた
人物であり、
およそ主人がお情けや気まぐれでくれる自由以外の自由はない
うえ、
彼女は王からマルガリータ王女への、プレゼントの玩具にすぎなかった
とされており、書いているだけで吐きそうになる現実がそこかしこに「当たり前」にあったことが心底「恐ろしい」と私は感じます。
中野氏はこの絵には
生きた人間を何の疑問も持たず愛玩物とした「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い
と言いますが、本当にそのとおりだな…と思うばかりです。
ただ、ベラスケスがこうした絵を描いたのは
きっとベラスケスの中にも、道化の怒りに共鳴する激しい何かがあったからに違いない
という希望だけは感じさせてくれます。しかしその一方で、こういう絵を描くことが許されたのは
実際の脅威とならない限り、上の者からは歯牙にもかけられていなかったためではないか。人間扱いされていなかったからではないか。
とも中野氏は言っており、そこに恐ろしい「時代の空気」、社会・世界の姿が垣間見られるように思います。
人の自由を制限し、人を人として扱わないということ、そういう社会・世界というのがどれほど恐ろしく、どれほど愚かなことかはもはや言うまでもないかもしれませんが、
ヒエラルキーの頂点に立つ者たちもまた幸せでなかったこと
を中野氏は指摘しており、この絵に出てくるマルガリータ王女は王族の厳しい結婚を経験し、若くして病死する生涯を送ったと言い、ベラスケスも必ずしも描きたいものを描けたわけではなかったようで、その意味で幸せとは言えなかっただろうとも書かれています。
人間とはなにか。なんて愚かなのだろうと思うばかりですが、昨日書いた共同親権のことも含め、人間が人間を支配して幸せになる人はいないということを改めて学ばないといけないように思います。
少しでも人権が、命が尊重される社会・世界になってほしい、したい、とつくづく思わされます。