イスラエルによるガザへの攻撃は確実にジェノサイドであり、強く非難され、即時停戦をすべき案件であることはどう考えても否定しようがないと私は思います。

しかし、ハマスの攻撃を非難しないと中立ではない(イスラエル側の自衛権)といったような論理も時折見かけるため、先日読ませていただいた『平和に生きる権利は国境を超える パレスチナとアフガニスタンにかかわって』(以下、「著書」と記載)をお借りして、その点について書いておきたいと思いました。

 

 

 

まず、著者の猫塚医師はハマスとイスラエルの力の非対称性について以下のように述べています。

ハマースとイスラエルの力の非対称性は顕著なものです。例えると、中学生の野球部とメジャーリーガーが試合をするようなものです。力のレベルでは相手になるようなものではありません。それがいま起こっていることです。

 

ハマスの行為は確かに非難されるべき行為であり、それを規模や力の大きさで語られるべきではないといった意見も確かにあるのかとは思います。

(※ただ、もうひとりの著者である清末先生の「正直、武力抵抗に関しては、もどかしさというかジレンマを抱いている自分がいます。 非暴力的な社会の構築をめざしてきた自分にはそういう手段は受け入れがたい、しかし、自分にはそれを一律否定する権利があるのか、被抑圧者には抵抗する権利があるだろうと。」という言葉に深く頷かせられるところが私にはあります)

とはいえ、圧倒的に力を持つ立場が力を持たない立場に向かって一方的な力を行使し続けたらーこのたとえをお借りすれば、中学生の野球部相手にメジャーリーガーがぼこぼこにしたら誰もがそのグロさを見て非難するでしょうーそれはもう完全にフェアではなく、一線を越えているといえるだろうと思います。

しかも今起こっているのは野球ではなく殺戮行為であって、それが起こり続けているのにハマスにも~という論理はあまりにも乱暴だろうと私は思います。

実際の規模は私たちがかつて経験した東京大空襲で見てみると

東京大空襲のおおよそ2.5倍の爆弾が8日間だけで投下されているのです。空爆の対象となったガザの面積は、東京23区の約3分の1です。

だと猫塚医師は述べていて、さらに

多数の負傷者が出ているなかで、どういうことが起きるかというと、負傷者治療が最優先になるということです。そうなると、がんなどで入院している患者は、病院から出て行ってもらうことになるのです。低体重児や妊産婦、透析患者への対応も難しくなります。

死亡者のおおよそ5倍から10倍ぐらいの負傷者が出ます。

と述べており、目で見るだけではわからない、数では計ることのできない恐ろしい規模の被害がイスラエルによって起こされていると考えられます。

これでイスラエルの攻撃をハマスが~という視点で語れるのでしょうか、甚だ疑問です。

 

そもそもイスラエルはパレスチナ・ガザを占領地として占領してきており、日常から人道に反する酷い行為を繰り返してきていることは『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』を引用して以前記載してきた通りです。

 

 

現在、支援物資がイスラエルに支配されていることによってガザに届かないといった恐ろしいことが行われていますが、著書ではそうしたことが「当たり前に」行われてきた現実が如実に推測できる記載があります。

少し長いですが引用します。

(猫塚氏)貧困世帯ではより一層パンを中心とする食生活にならざるを得ません。配給がなければ、生活はとてもじゃないですが成り立ちません。ですから、このような食生活では肥満にならざるを得ないと思います。

 さらには、もう少し後で詳しい話をしますが、2018年には封鎖下の燃料不足により、発電所の稼働が困難になり、下水処理ができなくなったことから生活排水をそのまま海に放出せざるを得なくなりました。ですから、ガザの海は大変汚染されているのです。また、汚染水の 影響は土壌にも及んでいます。そして人々の身体にはそこで栽培された野菜が入っていきますから、健康への影響が心配されます。ガザでは漁業や農業がおこなわれています。漁師たちは海が大変汚染されていることはわかっていますが、食べるためには漁に出ざるを得ないのです。しかも、漁に出ることができる海域も封鎖により制限を受けたりもしてきました。農業についても汚染水問題だけでなく、イスラエルとの境にあるフェンスの近くに農地があると攻撃を受ける可能性がありますので、非常に危ないです。

この文章からは日々の生活で、パレスチナの人々が身体の内側から殺されていっている現実があることがわかります。今起こっている「軍事」による被害といったわかりやすい非人道的な行いとは別次元の残虐な行為が繰り返されてきているのだろうことがわかります。

これについて猫塚医師は

イスラエルにとってみれば、こうした表現が適切かどうかはわかりませんが、「殺さず生かさず」というつもりでいるのではないでしょうか。封鎖下で多くの人々は健康な状態を維持できる生活を送ることは難しく、現地で診察などをすると、なんとか生きることができるぎりぎりのところに置かれていると思わざるを得ません。

と語っています。

これだけでもパレスチナ・ガザがイスラエルに対して抵抗するしかない現実に追い込まれていることがわかり、そのひとつがハマスだったというのも(行為を正当化はできないにしても)理解せざるを得ないのではないだろうか…と私は考えます。

著書では著者のお二人が日本から支援活動を行うにあたり、現地入りすることの大変さが語られており、そこにある占領地であることの現実を思い知らされます。

(清末氏)出入域の際は厳重な荷物チェックをされるので、すごく緊張します。 特に、ガザを出てイスラエルに戻るときの荷物チェックはなかなか経験することはないレベルの厳重さだと思います。奉仕団のメンバーの出入域のときの顔には一様に緊張感が出ています。 出るときにまた厳重に調べられ、カバンから荷物が乱暴に出されて、ぐちゃぐちゃにされますし、食べ物でも錐か何かで穴をあけられたりしますよね。なので、精神的にうんざりするわけです。

人が生きる空間にこのような検閲が当たり前にあること。

もちろん飛行機などを利用する際に荷物チェックなどがあるように、外から内へ入る際になんらかのチェックが必要であること自体は否めないように思いますが、こうしたやり方をする必要が果たしてあるといえるのでしょうか。

これが、ガザが「天井のない牢獄」と呼ばれる所以なのだろうというリアリティを強く感じつつ、清末先生は

それでも、 私が奉仕団のメンバーとしてガザに行こうと考えるのは、イスラエルが「安全保障」や「対テ ロ」の名の下で正当化してきた長年にわたるガザに対する封鎖措置は、ガザの人々全体に対する集団懲罰に相当し、国際法に抵触すると考えているからです。もちろん国際法違反の問題はそれだけではありませんが。 法学研究者としては出入域を厳しく制限し、フェンスや壁で囲んだ狭い空間に約220万人を押し込めてきた行為を認めるわけにはいかないのです。したがって、「世界最大の野外監獄」「世界最大の天井のない牢獄」と呼ばれるガザに行くことは、国際法違反に対する一つの挑戦や抵抗と位置づけています。

として支援に通い続けてきた(きている)ことを述べられています。

こうした取り組みには心から敬意を表したくなりますが、こういう現実を知らないでいられる自身を私はやはり振り返ってしまいます(だからきちんと知って書くしかない、できることをするしかないと思っています)。

ここまで見てきて、イスラエルが国際法に違反する行いをずっと続けてきたという土台があっての今回であり、そこに中立という視点を持ち出すこと自体に無理があるだろうと思います。

猫塚医師は

(猫塚氏)人間には不法に攻撃されたときに、防衛をしたり、抵抗したりする権利はあるはずです。21世紀の「対テロ」戦争の一環であるパレスチナに対する占領の強化の視点から考えると、占領者に殺されてきた側、つまりパレスチナ人からすれば、抵抗にあたるわけです。もう少しいうと、自分たちの土地や命を守り、人権そして尊厳を守るための抵抗だと考えることができるでしょう。

と述べていますが、これは岡真里先生も繰り返し述べていたことと記憶しています。

テレビで見られる「やった・やられた」という点だけで考えていては見えないことがあると思わされます。

それをそのように見せているのは、ここにある「テロ」という概念に根っこがあると著書では述べられており、このことをきちんと考えないために、今起こっている問題の本質がぼやけてしまっていると告げられています。

先程の日常的に行われてきた占領の残虐性とセットで書かれている内容を、こちらも少し長くなりますが引用させていただきます。

(清末氏)とりわけ911以降の世界では、軍事力で圧倒的に勝る側が国際法 違反の侵略行為や無差別の激しい軍事攻撃を行った場合であっても、「対テロ」と主張すれば、 政治的にはより正当化されやすくなったことを問題化するということですね。そうした行為が 法的には正当化されるわけではないとしても、政治的な駆け引きにおいては容易にされてしまうのです。

 「対テロ」という言葉とセットで用いられるのは「自衛」・「防衛」です。それらも「対テロ」 と同様の効果を発してきました。(略)

 パレスチナを占領するイスラエルは、パレスチナ人を総じて自分たちの安全を脅かすテロリ ストと位置づけ、テロリストから国を守るための戦い、つまり自衛・防衛の戦いをしている、と主張します。 ヨルダン川西岸地区でもガザでも、これまでそういう口実でたくさんのリアルな軍事行動が行われ、数えきれないほど多くの死傷者が出ました。そのなかには私の友人たちも含まれます。彼らは、ソーシャルワーカーとして子どものケアをする仕事をしたり、ラジオ のレポーターを務めたりしていた人たちです。また、ナーブルスの旧市街の近くにイスラエル軍の戦車がやってきたときに、たくさんの屋台主が慌てふためいて逃げ出すしかなかったこと、お店の店主も大急ぎでシャッターを閉めたこと、子どもたちが学校からの帰り道に戦車に追いかけられてパニックになり逃げまどったこと、兵士が難民キャンプ内のUNRWAの学校を攻撃し、子どもたちが悲鳴をあげて飛び出してきたこと。これらはすべて、2002年の私 の記憶として頭にしっかり残っています。そして、それらは記憶の一部にすぎません。こういう光景を目にしながら、これのどこが「自衛」や「対テロ」なのか、納得できるよう合理的に説明してほしいと何度思ったことか。

 パレスチナと「対テロ」という文脈において、もう一点指摘しておかなければならないのは、パレスチナ人は21世紀の「対テロ」戦争以前からテロリスト扱いをされ、「対テロ」の名目で命を奪われてきたことをきちんと頭に入れておかなければならない点です。換言すると、 パレスチナ人は常に「テロリスト」として他者化されることで、攻撃されても仕方がない存在 だと思わせる論調がグローバルにあるということなのです。

 「テロリスト」掃討の名でときにして無差別攻撃の対象にし、日常的には強圧的な姿勢で日々の生活を支配し、銃口で脅かしながら家宅捜査をし、支配者の力を見せつける。 怪しいと疑えば逮捕し、拘束先で拷問し、また裁判なしに劣悪な刑務所で長期拘束(行政拘束)をする。 武力抵抗をしている者が暗殺対象になる。武力による抵抗者を出した家族が弾圧対象になったり、場合によっては家族の家が連座的に破壊対象になったりする。こうした日常の人権侵害を看過する状況が長年続いてきたわけですが、それに拍車をかけたのが21世紀の「対テロ」戦争の論理だと思います。

今起こっていることをハマスの攻撃対自衛といったわかりやすい構図・見えやすい構図に落とし込んでしまえば「その通り」となり、人々もこうした理不尽なことをある種正当化して外から「ひどいね」と言っていればいいと安心できるのかもしれない、と自戒を込めて思います。

しかし、清末先生が書かれているように、これはまさに「対テロ」戦争の論理で語られているということだと言え、パレスチナ人が、ガザにいる人々が人間扱いされなくていい存在だとされているに過ぎないと(猛省して)理解しないといけないのだと思います。

同じ世界に生きる私たち人間は、このことを真剣に考えないといけないと私は思います。

今のジェノサイドを止めることはもとより、そもそもの占領をやめさせないといけない。さらにはその地点に立ってから長く長く続く復旧とケアの道がきちんと整備され、全力で支援しないといけないのだろうと思います。

何も知らないでいた私が何を偉そうにという感じですが(自分でもそう思います)知ったからには…知った責任を少しでも果たせるようにできることをしていたいです。