イスラエルによるガザへのジェノサイドは悪化をたどるばかりであり、国際社会も一向にそれを止められれず、それどころか、アメリカをはじめ加担すらしている世界に激しい憤りと気が気ではない感覚に陥っています。

汚染水海洋放出とともに私の中ではあまりにもショッキングな出来事となりー己の無知と無関心にー本当に小さな力ですが、これらと向き合わずに生きていくことはもうできそうにないと感じています。

パレスチナでいま起こっていることを私はまだ理解することが全然できていないと思いますが、それでも少しでも知って、それを少しでも発信していかないといけないなとも思っているため、

以前別の記事でも少し触れた『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』(以下、同本と表記)をお借りして、私なりに整理しようと思います。

 

 

そして、明日はひとりスタンディングでもしようかと考えています。



まず、今回パレスチナ・ガザで起こっていることについて、私はあまりにも何も知らず、かつ根深い問題がそこにあることを感じざるを得なかったので、どう触れていいか正直わからずにいました。

しかし、岡真理先生による講義を聞き、それはイスラエルの思うつぼであると知ってから私になりにこの問題に積極的に触れていこうと考えるに至りました。

 

 

同本でも

「宗教や民族が関わる紛争だから、日本人には理解できない」。日本でパレスチナとイスラエルについての話は、よくこんなイメージでとらえられています。 でも実際に起きていることは、そうしたイメージとは違っています。

とはじまっており、その続きには

急病にかかって救急車で運ばれたのに、武装した人に道をふさがれて治療を受けられない。家で家族とくつろいでいるときに、突然ブルドーザーが突っ込んで家を壊される。理由も分からず逮捕されて何日も勾留されているのに、家族には何が起きているかはいっさい知らされない......。もしも日本でそんなことが起きたら大事件です。ところがパレスチナでは、このようなことが毎日のように起きています。むしろ、そういったことを経験していないパレスチナ人はほとんどいません。何より大事なのは、そのようなことが起きている原因には、「宗教や民族」は関係ないということです。日本でパレスチナ問題は、「聖地をめぐる宗教戦争」や「憎悪の連鎖が問題」と説明されることがありますが、多くの場合それは誤解に基づいています。

とイスラエルの思うつぼであることを後押しする文言があります。

さらに

また一般的に日本のメディアでは、「パレスチナとイスラエルの紛争」として、パレスチナ側とイスラエル側の主張を半分ずつ紹介するのが「中立」な報道だとする考えがあります。でも、現実に起きていることを踏まえると、そのような伝え方が「公正」と言えるのか疑問です。この紛争は、「パレスチナ対イスラエル」という単純な構図で語れる問題ではないからです。

(略)皆さんがテレビなどでパレスチナのニュースを目にするのは、たいていパレスチナ人の自爆や、イスラエル軍による空爆などで、多くの命が奪われているようなときだからです。パレスチナ問題を理解するためには、そうした衝撃的な事件ばかりではなく、現地の人々の日常に目を向ける必要があります。

(略) 実はこの問題は、世界の片隅で行われている局地紛争ではなく、さまざまな国が関わる「世界の縮図」と言えます。パレスチナ問題は、大きな意味では国際社会がつくりだした問題です。

と書かれてあり、まさに日本のメディアで今起こっていること、私たちが直面している状況が書かれています。

当たり前ですが、この本は今起こっているガザへのジェノサイドが起こる前に出版された本です。

つまりこの構造がずっと続いていた、私たちはそれを野放しにしてきたということだと言えるのだろうと思います。

そういった前提でこの記事は書いていきますが、ここにある「世界の縮図」や「国際社会がつくりだした問題」という文言を目にすると、もしかしたら余計に自分には手に負えず、どう触れていいか戸惑い、触りたくないと感じる人もいるかもしれないなと思います。

実際私も己の無力さしか感じられず、どうしようもない事態を前に立ち尽くすしかできません。

しかし、どこか「遠い」ところで起こっている「パレスチナとイスラエルの問題」ではなく、世界や国際社会が関与しているということをまず知るだけでも重要と私は考えます。

なぜなら、同本はこの問題の最大の問題を

ほとんどのイスラエル市民が占領地で起きていることに無関心であることです。

としているためです。それは触れる機会がないこと、そして恐怖が影響しているためとここでは書かれています。

特にイスラエルの中心的な町であるテルアビブなどにいると、占領地の出来事に触れる機会はほとんどありません。そのため、パレスチナの若者たちが占領地での過酷な現実に絶望し、最後の抵抗手段として自爆という選択をしたという重みが理解されることは、決してないのです。パレスチナ人の状況がわからないまま、イスラエル国内で起きる「テロ」だけを見ていたら、「奴らはとんでもない人殺しだ」とか「もっと徹底的にこらしめろ」という声が高まるのも無理はありません。分離壁を築いて閉じ込める、土地から追放して入植地を増やす、住宅密集地に爆弾を落とす、といった国際法上違反の政策が支持されてしまう理由もここにあります。

(略)「イスラエル人は、恐怖の囚人になっている」。イスラエルの平和活動家の中でよく使われる言葉です。恐怖にとらわれた人々は、相手を悪魔のように思い込み、冷静な判断力を失います。どんなに自分たちが圧倒的に有利な状況でも「自分たちがやられている」と思い込めば、とことん打ちのめさないと安心できなくなってしまいます。

私たちはこの問題を日本のメディアでだけ(おそらく意図的ではない形で)触れており、それを「恐怖」として見ていると思います(すべての人がそうとは言いませんが)。

「恐怖」はそれをより触れ(られ・たく)ないものとし、ますます私たちは遠ざかっていくのだろうと思います。

だからこそまずは知ることが何より重要なのだろうと思うのです。

また、知ることは人のアクションを変える可能性があります。同本では末尾にこんな話が記されていました。

20113月に東日本大震災が発生したとき、世界の誰よりもいち早く安否を気遣うメッセージをぼくにくれたのは、なんとガザにいる友人でした。

ガザはこれまでずっと上記したような(それだけで語れるものではなく、以下に書いていきますが)生活を強いられてきたのに、「遠い」日本で起こった東日本大震災のときに安否の連絡をこの著者にくれたと言います。

こういうのはなんだかお涙頂戴のような感じの美談扱いされてしまいがちなので、私としてはあまり強調したいと思えないのですが、それでも知り合ったことがこうしたつながりを生んだのであり、そうした小さなひとつひとつが(あまりに微力であろうと)重要なのだろうと私は思っています。

「世界の縮図」であり「国際社会」の問題ということは、私たちひとりひとりに関与している問題ということを意味し、それはつまり知ること・考えることを要請される問題なのだろうと、そして知って考えた先に(大きなものではなくても)行動変容も要請されるのだろうと私は考えます。


 

さて、では何を「知る」のかという話になりますが、同本ではパレスチナ・ガザの日常を「知る」ことができるようになっていました。

その内容は実際に手にとって読んでみてもらいたいと思うので、私としてはこの本にある本質的な部分(と私が思うところ)を引用します。

それはたとえば

20161月、国連の潘基文事務総長(当時)は、紛争の本質である占領に触れてこう語っています。 「歴史上、人々が抑圧に抵抗してきたように、占領に反発するのは自然なことです。 それがしばしば憎しみと過激思想を生み出しています。セキュリティ対策だけでは暴力を止めさせることはできません。パレスチナ人の若者たちを駆り立てる深い疎外感や絶望に向き合う必要があります」。

とあるように、パレスチナ側の抵抗がそうせざるを得ない抵抗であること、そして、2014年の段階で以下のような声明文『ナチスのジェノサイドの生還者、および生還者と犠牲者の子孫たちは、ガザにおけるパレスチナ人の集団殺戮を全面的に非難する』が出されていたということです。

ナチスのジェノサイドの生還者として、また生還者および犠牲者の子孫として、 私たちは、ガザにおけるパレスチナ人の集団殺戮と、歴史的パレスチナの継続する占領および植民地化を全面的に非難する。私たちはさらに、合衆国がイスラエルに対し、この攻撃を行う資金を提供していること、そして、西洋諸国がより広範に、イスラエルを非難から守るためその外交手腕を利用していることを非難する。ジェノサイドは、世界が沈黙することによって始まる。

(中略)さらに、イスラエルが総力を挙げてガザを破壊し、何百名もの子供を含む2000人近くものパレスチナ人を殺害しているという、 決して正当化しえないことを正当化しようとしてエリ・ヴィーゼルが、露骨な嘘を広めるべく、これらの紙面で私たちの歴史を悪用していることに対し、私たちは嫌悪と怒りを覚える。国連のシェルターや家や病院や大学を爆撃するのを正当化できるものなど何一つ存在しない。人々から電気や水を奪うことを正当化するものなど何一つない。

私たちは、私たちの集団的声をあげ、 現在進行中のパレスチナ人に対するジェノサイドを含むあらゆる形態のレイシズムを終わらせるために私たちの集団的力を行使しなければならない。私たちは、ガザに対する封鎖を即時、終わらせることを訴える。私たちは、イスラエルに対する全面的な経済的・文化的・アカデミックボイコットを訴える。「二度と繰り返さない」というのは、《誰の上にも二度と繰り返さない》ということを意味するのだ!

これの著者は IJAN(International Jewish Anti-Zionist Network)であり、翻訳を上記の岡真理先生がした声明文です(同本内に記載)。

声明文中に登場するエリ・ヴィーゼルは、ホロコースト生還者でその体験をつづった自伝小説により、ノーベル平和賞を受賞した作家のようで、ガザ攻撃については、ハマスを非難し、イスラエルを擁護する意見広告をイスラエルの新聞などに掲載していたということでした。

ホロコーストという悲劇を経験してもなお、というよりその経験がむしろこうした誤った方向の言葉を出してしまうことになったというのもまた「知られる」必要があるように私は考えます(ただ、ホロコーストの犠牲者とイスラエルを作ったユダヤ人=シオニストとは分けて語られないといけないとも言われているようです)。

同本ではそうした現象をユダヤ系イスラエル人のモラン・ ヘン・スピッツェルの視点から、こう書いています。

モランが心配するのは、紛争を繰り返すイスラエル社会の視野が、どんどん狭くなっていることです。「ユダヤ人は子どもの頃から自分たちだけが犠牲者で、どれだけひどい目にあわされてきたのか、という物語ばかりを聞かされて育っています。だから占領地のパレスチナ人による抵抗についても、自分たちの被害しか見えなくなるのです。視野が狭くなると論理的に考えることができなくなって、感情的に反応するようになります。それは、攻撃を通じて自分たちの支持率を上げようとする政治家にとってはとても都合が良いことなのです。

こうして悲劇が繰り返されていく構造に加担してしまう…。

今まさに私たちはここに立っているのではないかと私は思うので、そういうことが起こりうる・起こってきた・起こっているということもきちんと「知られる」必要があるのだろうと思うのです。

まとまらなくなってきてしまいましたが、とにもかくにも、今起こっていることがどう考えてもガザへのジェノサイドであるということを「知り」、それがそう描かれない(なんなら加担する)構造も「知り」、NOを、やめろという声を上げることが大事なんだろうと思います。

私自身この記事は感情的に一気に書いてしまったところがあり、反省しつつですが、それでもやっぱり声をあげないといけないと考え、書き残しておきたい、今後も書いていきたいと強く思います。