8月24日以来、汚染水海洋放出のことばかりが頭を過ぎり、
まるで身体の一部が削ぎ落される、あるいは、侵入されるかのような感覚がこれまでも消えずにあります。
これがいつか消えるのかはわかりませんが、考え続け、声を上げ続けるしか道がないとも考えているので、
その過程でどういった変化を見せていくか、
ある種第三者的に観察しながら過ごすしかないのかなと考えています。
そうした中でなんとか生活をしていることもあってか、日常生活で様々な不具合が生じてしまっていました。
中でも、私が長い時間大切に考えていた構想の頓挫と
プライベートな人間関係の破滅的な終わり方を経験しました。
構想の頓挫は、私の至らなさから共同者とのコミュニケーションのすれ違いというのが大きかったと思いつつ、
様々な限界を覚える機会となりました。
いつか一緒に考えてくれるパートナーが見つかったらいいなと思いながら、
あまりこのことについてはもう考える気力がないという状態にいます
(これは被害者になっているわけではなく、相手側が決めていいと言った案件に対して
私が「終える」という決断をしたため、終わったことについて考える気力はなく、
少し休んでから考えるべきを考えたいという意味です)。
一方の「人間関係の破滅的な終わり方」ですが、これはその言葉の通り、
私からすればあまりに一方的、かつ、偏った認識や立ち位置からモノを申されて、
こちらの意図を伝えることも誤解を解く機会も与えられないまま、
(こちらからすれば)ある種罵られて拒絶されるといった経験をした、ということになります。
まさかこんな人間関係の終わり方を経験するとは思わなかったため、驚きを隠せないと同時に、
こんな終わり方をしてしまうのであれば、
今のうちにこの人間関係は終わってよかったのだろうといった感覚があります。
その終わりは私がこれまでその方のニーズに応え、ライツを考えたいと思ったり、
その方に背中を押されたりして取り組んできた勉強会など、
様々なものも終えざるを得ない(主体の不在ゆえ安心して学べる環境が整わないなど)ものでもあり、
いろいろなものを終える作業、ないし、変更・修正に追われて過ごしています。
影響が及ぶ人には申し訳ないという気持ちもありつつ、それらの日々を過ごしながら
これもまた終わってよかったのだろうと思いますし、整理するタイミングだったのだろうと考えています。
まだそれが腹の底に落ちる前に、そんなことを少し愚痴ったところ、
ある方から「そういうのは“ここまでのご縁”」という言葉(その方の直接の言葉ではなく間接的なかたちで)を
かけてもらう経験をしました。
私はこれまで「縁」で生かされてきた人間だと思っているので、
この言葉をもらって(自分の至らなさや加害性は反省しつつ)その意味が私なりによくわかりますが、
それを第三者から言ってもらえるというのはとてもありがたい経験でした。
それこそ、そういう連絡をくれる「縁」があることに深く感謝したいと思っています。
渦中にいるときはどんな人格者でも視野が狭くなり、
立ち位置がわからなくなり(わからなくなっていることがわからなくなる)、
加害と被害を捉えなおすことができなくなるものだと思います。
私自身、今回の件に限らずこれまで様々な加害をしてきてしまったことを深く反省し、恥じていますが、
今回改めて立ち位置によって見えるものが違っていることをやはり大事にしないといけないと、
相手の見え方を尊重しつつ、素直に思うことを伝えなければいけないと感じさせられたところでした。
そのことを自覚しながら、それでも渦中から少し離れて対話があったなら、
何か違うものもあるのかもしれないとも改めて考えさせられます。
その一方で、先日「プーチンのような人とも対話が可能か」という問いを立てられたことがあり、
私たちがいかに難しい世界に生きているかを痛感させられることもありました。
必ずしもつながったまま仲良しがいいわけではなく、
無理な関係は無理なものとして、攻撃しないでいられるためにはどうしたらいいか
―一方には攻撃でありもう一方にはそうでないと見える世界において―を
これからも反省的に考えていたいと思います。
いろいろ終えながら、いろいろ整理しながら。
そのあとに新しくはじまる「縁」があることを信じながら。