汚染水海洋放出から2週間以上が経ちました。

反対の声を上げ続ける日々ですが、その声もむなしく、海洋放出は止まる兆しを見せません。

ただ、漁業者が東電に訴訟を起こす反対運動も起こっており(無論、私は連帯します)

これに対してどのような対応が取られるのかを注視していきたいと思っています。

 

 

そんな中でこの国はこうした報道よりも、トリチウム検出に関する結果の公表が淡々とされ、

「安全で問題がない」といったニュースと同時に、

中国の「横暴ぶり」に関するニュースばかり連日報道されています。

それらに対して、毎日のようにひどく消耗している私がいます。

「安全」なのはいいことじゃないか、と放出に難儀を示さない人は思うのでしょうが、

それとこれとは別な話であることをどうしたら伝えられるのか

ー安全であるのは大前提であって安全な水であるなら

なぜ海に流すのかなどと言葉にすること自体はできるのですがーこの不寛容な社会に憤りと憂いを覚えています。

つい先日には水産の取引を停止している中国に対して、

「中国に食べて勝とう」などと言いはじめる輩も出てきました。

 

 

戦争の時代に戻っているかのような(時代錯誤と言えば簡単ですが)

「勇ましさ」を誇示し「熱狂」を煽るようなことを堂々と述べる広告。

そして、それに賛同するかのような人たちが一定数(いつものことながら)います。

このことはバカバカしいの極みなのですが、その一言では済ませられない非常に恐ろしい事態であり、

私は強い危機感を抱いています。

戦争体験者である水木しげるさんは「勇ましさ」に気を付けるようにと作品で繰り返し言われてきました。

「勇ましさ」が戦争の空気を作ってきたことをこれまでの著書で語り続けています。

また、東京大空襲を経験し「歴史探偵」と自らを語る半藤一利氏は

「国民的熱狂」が人々と政府の暴走を生み、戦争になることを語っています。

 

 

日本政府はこれらの教訓を無視し、戦争の加害的側面からは目を背け続け、

挙句の果てに被害者面して「勇ましく」「国民的熱狂」に邁進していくばかりです。

私が汚染水海洋放出の反対を言い続けているのは、東北という視点からはもちろんですが、

こうした危険な兆候が目に見えていたためでもあります。

また、当たり前ですが海は日本だけのものではありません。

これはともすれば、「人類は不要だ」的な極論にまで発展しかねないと考えてはいますが、

人間が地球に対してどれほどの責任を負っているのかを考えるべきとも私は思っていて、

それゆえに反対を示してもいます。

人間生活の人間都合主義的な見方で言えば、海は日本だけのものではなく

世界の人と共有しているものなのだから(そもそも人類のものという視点すら疑わしいのであって)、

流す前に世界とも合意形成を図る必要があったのは当たり前なはずです。

13年あった中でそれをどれだけやってきたのか…。

福島という国内のひとつの地域ともそれができていない中で、

なぜ被害者ポジションでいられるのかが心底理解できません。

私はこれまでに怒りのあまり汚染水を放出するなら東京湾に流せばいいと言うことがありました。

これは東京ー福島の関係性を考え直してほしいという意味からであり、

「安全」であるならばそれができるだろうと思っての発言です。

ただこれは海に流すという方法を推奨しているかのような発言であったことを今は反省をしています。

中国の毛寧報道官は

「もし原発汚染水が安全なら海洋放出の必要はなく、安全でないなら尚更放出すべきではない」と言いました。

安全とそうでないとの間には余白があるようにも私は考えるので、完全に同意というわけではないですが、

生命が存続していく、地球が存続していくためにするべきことはなんなのかを考えれば、

海洋放出は選択肢にないのは明らかで、そうした意味から強くこの言葉に同意します。

戦争は突然起こるのではなくて、こうしてひとつひとつ、

その「原因」という「言い訳」ができるものによって起こるのでしょう。

そして、一度起こればその「原因」などもはやどうでもよく、

人を殺めることを正当化し続ける「道具」が次から次へと生まれていくのでしょう。

この国はその「原因」「言い訳」「道具」を増やし続け、被害者面し続け、

「勇ましさ」と「国民的熱狂」とでなんとか乗り切ろうとしている現実にきちんと抵抗を示していたいです。

このブログは地域や旅のこと、日常のことなどを中心に気楽にやっていこうと思っていましたが…

この問題、国の問題ばかりになりつつあり、個人的にとても悲しいです。

でも、人は政治からは切り離せないので、、少しずつ違う記事もまた書きたいと思いますが、

政治のことはずっと書き続けるだろうと思います。人が人を殺す世界にこれ以上ならないことを願って。