『ミステリと言う勿れ』シリーズ。

第十八弾は「謝罪」について考えてみたいと思います。
漫画の中に出てくる場面で、大事な指摘・提言ではないかと私が勝手に感じたところについて、

思ったこと・考えたことを勝手に書いていく感じのシリーズです。ネタバレになるのでお気をつけてください。

 

で扱う場面は主人公の整くんが人にぶつかってしまった場面@5巻です。

 

 

 

病院内ですれ違いざまに人にぶつかってしまった整くんは、

ぶつかったその人に「土下座しろ」と言われます。

それに対して整くんは

「ほんとに土下座でいいんですか?だって土下座ってただの動作だから、

簡単でお金もかからなくて心がこもってなくても別なこと考えててもできることなんですけど」

と返します。

そんなことを言われると思っていなかった相手は、

きょとんとしてその場は(ごちゃごちゃはあったけど)それで終わるのでした。

 

短い場面ですが、今回この場面を取り上げたのは、

「謝罪」とは誰のためにあるもので、なんのためにされる行為なのかについて考えてみたいと思ったためです。

当然、「謝罪」とは罪を認め、

それにより傷ついた(被害を受けた)他者の尊厳(の回復)のために謝る行為だろうと思います。

goo辞書によると「謝罪」とは「罪や過ちをわびること」であり、

「わびる」とは「自分の非を認めて、相手の許しを請う」となっていますが、

こうしてみると「謝罪」の本質的な意味は

「謝罪をする側」が「(罪や非を)認める」ということ(それを示すこと)と、

「謝罪をされる側」が「許し」てもよいと思える(実際に許せるかどうかは別で)ような誠意が見られるか

ということになるかと思われます。

しかし実際よく目にする「謝罪」は形式上のものであったり、

もはやそれは「謝罪」ではないと思われるようなものであったりする方が圧倒的に多いように思いますが

いかがでしょうか。

その代表的なものがこの漫画にもある「土下座」と、「ご不快構文」と言われる謝罪であるように私は考えます。


 

「土下座」はもともと「謝罪」の意味でなされる行為ではなかったようですが(詳しくないです、すみません)

「謝罪」の象徴かのようになっているかと思います。

 

土下座のイラスト

もはや「土下座」なんて廃れているのでは?と個人的には感じていますが、

未だに「土下座」をするという言葉や行為にはどうやら力があるようです。

最近で言うと、元女性自衛官に対するセクハラ・性犯罪事件において、

加害者が「謝罪」をする際に「土下座」がされたことが話題になりました。

このことに対する世間の反応は冷ややかなものであり、

私自身も正直心の底から気持ち悪いと感じたことを覚えています。

どうして気持ち悪いと感じたかというと、

「謝罪」する人たちが「土下座」には「力がある」と思い込んでいるように見えたことと、

そうした「力技」でこの件を解決しよう・この問題を終えようとするかのような

「形式」だけの「謝罪」の在り方を感じたためだと思います。

先ほど書いたように、「謝罪」に必要な「謝罪をする側」の「罪や非を認める」という部分もなければ、

「謝罪をされる側」が「誠意」を感じることもできないものであり、

それが世間の冷ややかな反応として表れていたように思います。

「土下座」以外にもたとえば「断髪する」「丸坊主にする」などが

「謝罪」についてくる概念?のように思いますが、どれも本質を欠いており、

整くんの言う「お金もかからなくて心がこもってなくても別なこと考えててもできること」が

なぜか積極的に推奨されているのが現状のように思います。

それが世間で「形式」だけの「謝罪」が多く見られる要因のひとつでもあるでしょう。

ちなみに、一昔前だと「謝罪」の象徴は「切腹」とかだったのかなとちょっと考えたりもしました。

「切腹」であれば、命を絶つ行為であるため、自身の非を認めているということが

一応伝わると考えられるのかな、とは思います

(そこまでさせる?とか、ここまでしているのに許せないの?とか言われそうで私は嫌ですが…)。


 

さて、「土下座」の他に「謝罪」の本質を欠いた「謝罪」として最近よく見られるのが「ご不快構文」です。

「ご不快構文」とは(明確な定義がある言葉ではないかと思いますが)

「みなさまを不快にさせてしまったとしたら申し訳ない」などという謝罪文のことを指します。

よく政治家や企業などからよく聞かれる言葉で、意識していると至るところにこの構文はあります。

これは「申し訳ない」という言葉自体はあるので

一見「謝っている」ように見えなくもないのですが(一瞬錯覚する)

よく見ると「謝罪をする側」の「罪や非を認める」内容はありません。

それどころか、よく見ると「不快に思った人」が「不快に思わなければ謝る必要がない」と

読める文章構成になっているので、端的に言えば「不快に思った人が悪い」くらいの内容であるとわかります。

「私は悪くないけど、不快に思った人もいるようなので、そう受け取られたなら謝る」という

「受け取り手」側の問題として論点や責任の所在をずらした、非常にずるい言葉であるように思います。


 

当たり前ですが、「不快」に思う人が「不快」に思うには原因があります。

その原因をつくり出した側がすることは、その原因(の理由や何が問題か)を分析し、

それによってどんな責任が生じているかを真摯に考えて行動に移していくことです。

ご不快構文は一見丁寧ですが、それを書くことなんて例文をコピペすれば誰でもできます。土下座もそうです。

私は「謝罪」が軽視される世の中は加害者を野放しにして反省を促さず、

被害者を苦しめ続ける構造を認め加担しているように思うので、大変危険なことだと思っています。

それは「寛容」な世の中ではありません。誰かを「追い詰める」世の中だと思います。

こうしたことを小さなこと、細かいこととせずにきちんと考え、抵抗していたいと思うのです。