久々に『ミステリと言う勿れ』シリーズを書きます。

第十六弾は「親との関係」について考えてみたいと思います。
漫画の中に出てくる場面で、大事な指摘・提言ではないかと私が勝手に感じたところについて、

思ったこと・考えたことを勝手に書いていく感じのシリーズです。ネタバレになるのでお気をつけてください。

 

⑯で扱う場面は主人公の整くんが入院している際に、とある場所で出会った人が、

生前親しくしていたある入院患者の遺品を持ってきてしまったという会話をする場面@4巻です。

 

 

亡くなった入院患者の方は入退院を繰り返していました。

それでもとてもやさしい様子で、娘にその方の持っていたバッグをあげようと思っていました。

しかし、娘さんは一度もお見舞いには来ず、

その方が危篤という連絡をしても「そっちで勝手にやってくれ」とつっぱねてしまいます。

その方と親しくしていた方は、そのことについてこう言います。

「遺体も遺品も引き取らないんで好きにしてくれって、そんなのひどくない?

(略)どんなに仲が悪くても、最期くらい…」

その方はそうした思いとこれまで付き合ってきた経緯もあったため、

亡くなった方の遺品であるバッグを持ってきてしまったそうです。

その話を受けて整くんはこう言います。

「その人の娘さんがひどいかどうかはわからないです。

子供がそういうふうな態度を取る場合、たいてい親の方がひどいことをしてます。

子供がそうなるには理由があります」

すると、バッグを持ってきてしまった方は

「○○さん(亡くなった方)はすっごく優しい人だよ」と言いますが、整くんは

「家族や身内には冷たく厳しくても他人には優しい人っていますから。

そのことが子供を余計追いつめる。どっちがひどいかは僕にはわかりません。」

と言うのでした。

 

今回この場面を取り上げてみたのは、先日、ある方とお話していた際にこんな話を聞いたためでした。

 

「子どもたちにとってホッとする場所っていうのは家族・家でしょ」

 

それを私が聞いたとき、もしかしたら、そう考えている人の方が世の中には多いのかもしれない…と

一瞬クラっとしたので、少しこのあたりについて書いておきたいと思ったのでした。

取り上げた場面に沿いつつ、書いてみたいと思います。

 

子どもが親に会いたくないと思う理由として、

おそらく一番わかりやすい(誰もが納得しやすい)ものは虐待の有無だろうと思います。

単純に有無だけで片付けられる問題では当然ありませんが、警察庁の発表によると、

児童虐待の疑いがあるとして警察が2022年に児童相談所に通告した18歳未満の子どもは

115730人(暫定値)で、前年より71%増え、過去最多を更新した

とされています。

18歳未満の総人口数が1500万人ほどであるとされていることから、

それと対比すると1%に満たないため、少なく見えるという立場も取れるのかもしれませんが、

絶対数として11万人というのはかなりの数であり(当然ひとりひとり命がある存在)

これは通告件数であることや他の人へ及ぼす影響の大きさを考えると、決して軽視できる数字ではありません。

近年はコロナ禍で不況や家の外から出ないことが推奨される状況となってしまったため、

虐待の件数は増加傾向にあることも様々なところで指摘がされています。

こうした事実だけでも、「子どもにとってホッとする場所が家族・家」という認識は

残念ながら淡い期待に過ぎないことが理解できるかと思いますが、

この認識は日本社会が「親孝行」を求める圧がとても強い社会であることを示していると考えられます。

だから「葬儀にも出ないような子ども」といったような視点が向けられるのだろうと思うのです。


 

虐待というのは暴力を受けることです(正確には乱用されることですが省きます)。

これを「家族」という枠を外して見ると、

「暴力を振るってきた人に会いたい」などとふつうは思わないということは理解されるはずです。

思うとしたら、暴力を振った側が心の底からの謝罪をするタイミングか、

被害を受けた側が復讐や見返したりすることができる時くらいでしょうか

それでも会いたくない方が多いように思いますがあえてあげてみました)。

会いたくないどころか、暴力を振ってきた人に孝行するなんて考えられないことでしょう。

なのに、なぜ、家族だと、親だとそこが大事にされないのでしょうか。

確かに、親という存在には“育ててもらった”という視点が向けられるかもしれません。

人は一人では生きていけないので、育ててくれた誰かというものがあったことは間違いないでしょう。

しかし、それもハッキリ言えば、親から育てられることも「呪い」と紙一重であったり、

そもそも子どもからすれば「(その家に)生まれてきたくて生まれてきたわけではない」ですよね。

そうしたことから言えば、自然発生的に“それ”に対する恩が生まれなければ、

何も周りからそのことについてとやかく言われる必要はないはずです。

子どもからしたら、「会いたい」と、「育ててくれてありがとう」と思える親であってほしかった、

という方がもしかしたら正確かもしれません。


 

『クローズアップ現代―親を捨ててもいいですか?虐待・束縛をこえて』の中で、

ゲストととして出演していた公認心理士の信田さよ子先生は、

まさに今回あげた場面を示唆する発言をしていました。

アナウンサーとのやり取りを引用します。


 

アナウンサー:本当に複雑な親子関係における感情と向き合って苦しんでいる方がたくさんいる。

その一端が、かいま見えてきた気がするのですが、ただ一方で、どんな親だとしても、

例えば親が亡くなる時、葬儀の場などに立ち会うことによって、

これまでの経験を整理できたりとか、何か次への一歩を踏み出すきっかけになりえないのか。

そんなことも思ってしまうのですが。

 

信田先生:なってほしいですよね、ドラマみたいに。

でも現実はそんなふうにいかないんです、なかなか。

葬儀に出て、親のひつぎの顔を見ればいいというものでもなくて、むしろ親を大切にすべきとか、

葬儀に出たらこれで仲よくなれるでしょ、許せるでしょ、という常識がとてもその人を苦しめる。

だから出ないという人が多いです。

 

私はいつからか父に会うことを拒否するようになった人間ですが、

父からいわゆる虐待などを受けたことはありません。

しかし、会わないことに決めたのは、父の男尊女卑的な考え方やモラハラなところと

「家族」という常識を外してみた時に、「家族でなかったら会いたいと思うか」と自分に問い、

ハッキリと「絶対に会いたくないし付き合いたくない」人だと認識したためでした。

きっと私は父の葬儀には行かないでしょうし

(手続き的に他の家族に負担をかけるのでなんらかはすると思いますが)

それこそ行って「いいところもあったよね」などといった話がされるのを一切聞きたいと思わないため、

行きたくない(行くのがめんどくさい)と思っているのだろうと現時点では思います。

こう書くと、私は冷酷な人だと思われるかもしれませんが(そう思われても構わないですが)

子どもに必要なのは「親を大切に想えるようになる努力」ではなく、

「親を大切に想えないことも当たり前に許容できる社会」であり、私はその姿勢を変えるつもりはありません。


 

信田先生は『家族と厄災 親を許せという大合唱』という記事でこう書いています。

おとなになることは親を許すこと、成熟した人間は親を許して最後は穏やかに見送るもの、

という人間観を共有しないと親族や知人とは会話できないことになっている。それが「常識」だ。

(略)「だって、親じゃないの」「いいかげんにおとなになりなさいよ」

「どんな親でも親は親」といった言葉にそれは現れる。」

 

「被害を受けた、親を捨てたい、親を許せない、

という言葉を禁じるこの国の常識(マジョリティ)こそ毒であると。戦う相手を間違えてはいけない」

 

「どんな親でも親は親」を成り立たせていては、

加害が野放しにされるだけであり、それを国も看過することになりかねません。

そんな危険で無責任なことはないだろうと私は考えます。

親を許そうと闘うのではなく、暴力をなくすために、暴力された人が守られるために闘うことが必要なのです。


 

今回扱った場面では、「他人には優しい」という人もいることについて描かれていましたが、

「モラハラ」さんなんかは特にそうで、私の父ももれなく外からは「いい人」だと思われるような人でした。

内に暴力を振るっている人は実際「この人が!?」と

思うような(外からの)見た目・雰囲気であったりすることが決して珍しいことではありません。

その認識のままでいることは、内側の人の心を削ることにもなります。

「なんであんないい人なのに…」という周りからの言葉はきっと

内側の人に「やっぱり私がおかしいのかな、私に原因があるのかな」と思わせます。

「話しても信じてもらえない、わかってもらえない」

「こんなことをされているとは恥ずかしくて言えない(思い出すと震えるなどを含め)」

そうした様々な気持ちを抱えながら過ごしている人を

「親(あるいはパートナー)のことを悪く言うなんて…」という「常識」は打ち砕くことでしょう。

信田氏は男女共同参画かわさきフォーラムにて

「外でいいことを言っていても内で何をしているか」という話をしていました。

「親不孝」や「外ではいい人なのだから我慢すればいいのに」などと切り捨てるような社会ではなく、

家族や子育ての常識が誰かを苦しめていないだろうかという視点を持って、

変わることができる社会となる(である)べきだと私は考えます。