生活が落ち着いてきたので、

今年(ももう終わろうとしていますが)5月以来の『ミステリと言う勿れ』シリーズを書きたいと思います。

今回は第十五弾として、「闘病」について考えてみたいと思います。
漫画の中に出てくる場面で、大事な指摘・提言ではないかと私が勝手に感じたところについて、

思ったこと・考えたことを勝手に書いていく感じのシリーズです。

ネタバレになるのでお気をつけてください。

 

⑮で扱う場面は主人公の整くんが入院しているとき、

隣にいた入院患者(というテイになりますね)と闘病生活についての話になる場面@4巻です。

 

 

入院患者の方から「長い闘病生活の末、病気にも負ける」という話がされ、

それに対して整くんはこのように返します。

どうして闘病って言うんだろう。闘うと言うから、勝ち負けがつく。

(略)「病には勝てず」「病気に負けて」「闘病の末力尽きて」。

どうして亡くなった人を鞭打つ言葉を無神経に使うんだろう。負けたから死ぬんですか。

勝とうと思えば勝てたのに、努力が足りず負けたから死ぬんですか。そんなことない。

僕ならそう言われたくない。

(略)患者本人が、あなたが負けるんじゃない。(略)闘いじゃない。治療なんですから。

それに対し、入院患者の方は

病と闘うぞと思う気持ちも大事なんだよ。

と返すも、整くんは

それでも人は病に負けたから死ぬんじゃないです。

と言いにこっとされる、といった場面がありました。


 

今回この場面を取り上げてみたのは、

私自身も「闘病」という言葉に少し違和感というか、

なんだか孤独に追い込むような表現である気がしており、一度考えてみたいと思っていたためでした。


 

私が学生の時、ある講義だったか誰かとの会話でだったか定かではないのですが、

「人の死は医療の敗北」というような言葉を聞いたことがありました。

人には寿命があるし科学には限界があると私は思っているので、

その時はあまりしっくりこなかったのですが、

確かに医療の世界では「治せない病気」を克服しようと日々奮闘していると思うので、

そう考えると、患者の病気を治せなかったときは「敗北」となるのかもしれません。

漫画の中でも「負けるとしたら医療」という一言があったかと思います。

しかし、ここでも言われているように、

通常では入院する患者の生活を「闘病生活を送る」と表現し、

亡くなったときは「病には勝てず」という表現を使っているように、「医療の敗北」という捉え方はされません。

「医療の敗北」というと医療を信じられなくなる恐れがあるとも思うので、

その意味でその言葉が公に共有されることがないのかもしれませんが、

「患者が敗北した」というニュアンスが伝わる表現もまたどうなのだろうと私は思っています。

西洋医学の概念っぽいような気がするのでこのあたり調べてみるとおもしろそうですが、

ここではこうした「闘病」と表現することについて、

負の側面があるのではないかなと思うことを書きたいと思います。


 

日本ではよく「病は気から」と言います。

それはプラシーボ効果となりうる一方で、病を治す営みを「気合いでなんとかする」もの、

つまり「闘病」とフィットする言葉であるように感じるのは私だけでしょうか。

入院患者が言っていたように病気になったとき、

「なんとか治してやる!」と思う気持ちも時には力になるだろうと思います。

そうやって応援してくれる人がいると勇気づけられるといったこともあるでしょう。

しかし、病気というのはがんばってきた結果(長く生きること自体がんばっていることと私は認識しています)

生じるものと言うこともできるのではないだろうかと私は思うので、

そうだとすると、「闘病」というのは

どこまでも(まさに)鞭でお尻を叩くような言葉になってしまうのではないか…と思うのです。

入院生活を私はしたことないのでわかりませんが、

入院生活というのはおそらく孤独だったり不安だったりするだろうと思います。

もちろん素敵な医療スタッフに恵まれ、

日常よりも病院内の方が自分の存在を受け入れてもらえたと感じられることもあると思いますが、

自由を制限され、こちら側から会いたい人に会いに行けないなどといった点においては、

孤独に陥りやすい生活スタイルであり、先が見えなくて不安になりやすいだろうと思います。

(行ったり来たりになってしまいますが)「闘う」ということが、

そうした孤独や不安を和らげることもあるかもと思いつつ、

そのような状況でも「がんばらないといけない」とされてしまうのは、少し酷なことではないでしょうか。


 

以前、うつについていくつかの記事を書きました。

その記事を書くにあたって考えを整理する過程で、

うつは目に見えないがゆえに多くの偏見を持たれてしまうことを改めて強く思いました。

「怠けているのでは?」

「甘えているだけだろ」

「メンタルが弱い人がなるものだ、がんばれ」などなど、、

こうした偏見にどれだけ傷つけられるだろうかと思わされます。

同時に、こうした言葉を善意から当事者にかけるのは

「病は気から」と信じて止まない人なのではないか、ということ、

また「病気になることは負けたこと(悪いこと)」と「闘病」という概念を強く信じていると

こうした言葉をかけやすくなるのではないかということも思い、

今回この場面とリンクするなと思って今書いています。

もし「病は気だけでは治らない」「がんばってきた結果生じる可能性があるもの」という考え方があれば、

「怠け」や「甘え」ではなく、「労い」や「讃え」のような認識の仕方になるのではないか。

もし「病と共に暮らす道もいい」という視点があれば、

「弱い人」や「がんばれ」ではなく、

「リスペクト」や「共存」「多様性」という視点で考えられるのではないだろうか。

夢を見すぎかもしれませんが、そうなったら当事者も言葉をかける側も

今よりももっと豊かになれるのではないかと思うのです。

 

病気は確かに苦痛を伴い、辛いものなので、

その状態よりも少しでも健康になれた方が確かにいいだろうとは思います。

ですが、生きていれば病気になることなんて当たり前にあると考えれば、

病気になっても豊かな人生を送れることや、

病気の末に亡くなるとしても大切にされることが保障されている方が

よっぽど豊かな人生を送れるのではないかと考えたりします。

個人の思いやりでそうしましょうなどという話をしたいのではなく、

せめて社会にある(もうさすがに死語でしょうか)「勝ち組」か「負け組」かのような考え方を

病気の世界にまで持ってこない社会であってほしいと思うのです。

「人は病に負けたから死ぬんじゃない」んだと私も思うし、

人の尊厳は病よりも死よりも偉大なものだと私は思います。

きれいごとかもしれませんが、私はそんなことを思いながら生きていたいです。