笠岡市でのお試し暮らし体験記⑱では、⑰で触れた倉敷市水島の公害について書きたいと思います。


 

⑰で書いたように、お恥ずかしいことに私は水島の公害について何も知らずにいました。

そもそも水島という地域があること自体知らなかったのですが…

岡山に滞在する機会をいただき、周辺地域のことを調べるうちに水島という地域のことを知りました。

島ではないのに「島」という漢字が地名になっているのは―笠岡・倉敷同様に―

ここもまた干拓地(もともと海)だったということかな?などと思って関心を持ったのですが、

それ以上積極的に調べることはせず…。

たまに書店で眺める『る〇ぶ』などで、水島の地名が出てくるページを見てみると

「巨大コンビナートの夜景がきれい」という話があるくらいで、私の認識もその程度で留まっていました。

そんな私が水島の公害のことを知ることができたのはシンポジウムのおかげでした。


 

シンポジウムでは、弁護士の石田氏は

公害とは人の経済活動によって環境を破壊し、人的・社会的災害をあたえる害

と説明します。

その定義が示す水島が受けてきた公害被害や被害に対する訴訟運動については、

写真付きで説明がされました。

私の理解や知識が足りていないところが多いかと思いますが(ご了承ください)

石田氏によれば水島は

コンビナートからの大気汚染物質の排出

喘息等の呼吸器疾患の健康被害

があり、その背景には

環境配慮より高度成長優先

があったと言います。
 

倉敷公害患者の会の方からは

ガソリンが海に流れて滝が真っ黒になった。

瀬戸(水島)の夕凪、水島の空は風がやむと黒い空になる。

血痰が10回くらい続いた。

といった話をされる場面もあり、

自分が今(=その時)いる場所でこうしたことが起こっていたという事実

―しかも全く知らないまま偶然その地に訪れているという現実がある―に唖然としました。

経済を優先し環境や景観が破壊されていくというのは、

東日本大震災からの復興を間近で見てきた私としては痛いほど感じ考えさせられてきたことです。

その挙句に健康被害まで起こるということは理不尽極まりなく、強い憤りを覚えます。

訴訟運動が行われた話も、それは言葉では伝えられないような膨大なエネルギーを費やすものであり、

被害がなければ本来しなくてもよかったといった事実を思うと、胸が締め付けられるような感覚になります。

シンポジウムを聴講しただけでも、

そうした経験をしている人が見る地域と

自分が知ることのできる地域とに大きな差があることを思わされるのですが

(後ほど書く予定ですが)このシンポジウムがあった後、

私は直接水島に訪れ、水島地域環境再生財団の林氏(シンポジウム登壇者)に

水島の地域についてご案内していただく機会を得ました。

林氏の説明を伺えなければ、水島でそうした被害があったことを私は全く知らずにいた、

知らずにいられた(特権)ということを思うと、

湧き出てくる恐怖と憤りは、シンポジウムで感じたものとはまた少し違ったものであったように思います。

林氏はシンポジウムの中で、

「コンビナートの黒い煙は終わったのだから、

(公害のことを)言わなくてもいい」と言われることもあった

と話されていました。

当事者の中にはきっと「もう忘れたい」という人もいるでしょうし、

たとえば観光業の人などは(『る〇ぶ』が示唆するように)人に訪れてもらうために、

そうした過去の負の歴史とも言えるようなものは敬遠したがるということもあるだろうと思います

(これもまた東日本大震災で目の当たりにしてきました)。

しかし私はこのシンポジウムで、そして林氏の説明によって、

水島という地域のことを知ることができてよかったと思っていますし、

その歴史を少なくとも「なかったこと」にしてはいけないだろうと(部外者ながら)思っています。

地域の今、そして未来は、歴史の延長線上にあり、それは地続きなものです。

大きな出来事―公害や災害など―はその線を断つかのように見えますが、

それでも連続性の中に地域や人々の人生はあると私は感じています。

たかが数日水島に触れただけではありますが、

水島で学んだこと、教わったことについてこの後もぽつりぽつりと書いてみたいと思います。