これまでうつ病について書いてきましたが(こちらの記事)、




そこからわかるように、うつ病は単なる「風邪」とは違って

当事者にとってかなりしんどいものであることが考えられます。

回復までに長い時間を要する可能性があったり、

波があって再発を繰り返す可能性もあったりするというところからは、

かなりのエネルギーと時間を費やすことがわかります。

また、うつ病になると「できていたこと」ができなくなったり、

社会から取り残されてしまったかのように感じてしまったりすることからは、

焦りや不安も尽きないことがわかるでしょう。

これは当事者だけではなく、当事者を支える家族や周囲の人も同様で、

家族や周囲の人もかなりのエネルギーと時間を費やしますし、焦りや不安も尽きないだろうと思います。

日々支えながら、大切な家族や友人がしんどい思いをしているのに何もしてあげられないと感じたり、

あの時の自分の対応がこれでよかったのか…といった答えのない問いを抱き続けたり、

時には「なぜ変わってくれないのか」と怒りのようなものを抱いたりすることもあるでしょう。

それが当事者にとって「負担をかけて申し訳ない」という思いを抱かせることもあり、、、

そう思うと、支えることは本当に大変なことだと想像することができます。

確かに、家族や周囲による「偏見」や「無理解」があると、

当事者はますますしんどい思いをしてしまうだろうとは思います。

しかし逆を言えば、家族や周囲の人がうつ病について学び、理解しようとすることは、

それ自体が大きな支えとなりうるとも言えるのではないかと私は考えます。

それは支える家族や周囲の人自身を支えることにももしかしたらなるかもしれません。

一緒に考えてみたいと思います。


 

『家族が「うつ」になって、不安なときにに読む本』では、

うつ病は「○○すれば△△になる」といったセオリーが通用しない

とあります。

 

 

 

『ツレが~』で書きましたが、

「うつ病の人はみな、ずっとつらい顔をして一歩も外に出られない状態」というわけはなく、

(もちろん共通するものはありますが)症状も違えば、

うつにつながった要因と思われるものが何か(どういう風につながったか)も違うのは当然と思います。

 

 

 

だからこそ当人はもちろん家族や周囲は「理解」しにくいし、

「しんどい」思いもするのですが、

まずはこうした「こうであるべき・あるはず論」のような枠に当てはめないということが大切かと思われます。

体調を崩したときに自身の弱い部分に症状が強く出るように(私の場合はストレスが腰にくるかなぁ…)

ひとりひとり症状も表現も、回復のスピードも方法も違うと考えておくことが大切でしょう。

もちろん、専門家に相談しながら進めていくことが大切ですが、

これまで書いたような「うつ病なんだから元気があったらおかしい(治ったのでは?)」とか

「他の人よりも働いていなかったのにうつ病になるのは気持ちが弱いせいだ、甘えてるのでは?」とか。

そういったことはご自身の偏見(ある種の願い)であったり、

社会の(勝手に作られた余計な)価値観に過ぎないということに気づきながら、

向き合っていくということが大切と思います。

 

その流れで言えば、『家族が~』ではうつにはエネルギーの「波」があるといい

(その波は)急に調子が良くなったり、急に調子が悪くなったりと、

あらかじめ予測することもできません。

 周囲からは波の上の部分(元気な部分)が見えやすく

「調子が良いみたいだね」「良くなったね」と声をかけられがちですが、

本人には波の下の部分(落ち込んでいる部分)が感じられ、

そのギャップで苦しくなってしまうことがあります。

と書かれています。

私たちは健康で元気な状態こそが「いいこと」と無意識に思っていますし、

社会もそうした価値観になっているものです。

また、私たちは「時間の経過とともに物事はよくなっていく」とも考えがちなので、

そうしたことを求めてしまうという部分もあります。

そのためそうした方に引っ張られる・引っ張っていこうとしてしまうのですが、

うつは再発しやすいと書いたように、

それが当事者にとってプレッシャーとなってしまう可能性があると理解しておくことも大切と言えそうです。

同著では

うつの中で特に苦しいのが自責感(罪の意識)、無力感(自信の低下)、

不安感・焦り・後悔、疲労感(負担感)

とあります。

「せっかく元気になってきたのに再発」となったとき、

人は自信を失いますし、自分を責めやすいでしょう。

後悔を抱き、不安や焦りはこれまで以上に強く抱くことになるだろうと思います。

とても難しいことではあると思いますが、

「元気になってきた」こと自体は(本人が喜んでいれば)共に喜びつつ、

“またきっと”うつはやってくるかもしれないよね、

くらいに思って構えていられるともしかしたらよいのかもしれません。

同著でも

うつが回復していく過程には、

この「プチ底つき体験」(あきらめ)が少なくとも40回は起こると思っておくと良いでしょう。

この体験により、「自分自身の努力ではどうにもならない」ことを、

本人と一緒に周囲の人々も受け入れることができるようになります。これはとても重要な学習です。

とあります。

家族や周囲の人にとってこのことはできれば認めたくないし、

体験したくないことかもしれませんが、

私も(私はうつ病と診断されたことはありませんが)こうした体験を(実は)してきた身として、

この体験・学習自体は重要なものであったと思っています。

ただし、「安心して底につける」ということがとても重要と思いますので、

どうか専門機関やよき支援者・理解者とつながっていてほしいと思いますし、

自身を責めたり追い詰めたりしないでいてほしいなと思っています。


 

最後に、家族や周囲の人は特にご自身を喜ばす習慣を持っていてほしいと思います。

大切な人がうつ病であったりすると「自分だけ喜んでいていいのか」と、

笑う機会や喜ばす機会から無意識に遠ざかってしまうことがあり得ます。

それは大切な人を想う表れでもあり、自然なことでもありますが、

そうだからこそ(負い目を感じながらでもいいので)取り入れていただきたいなと思います。

コーヒーを飲むのが好きとか、お風呂に入るのが好きとか、

そういったことがあれば積極的に(できる範囲で)行ったり、花を生けたり、好きな動画を5分だけでも見たり。

 

 

そういうのはどうしても気が引けてしまうなら、

「何もなかったこと」を喜んでみたりということからはじめるのも、もしかしたらありなのかもしれません。

誰か推しにいいことがあったりを喜ぶとかでもいいかもしれません。

誰か信頼できる人に任せて(レスパイト休暇と言ったりするように)時にはプチ旅行に出かけたりも、

かえって新しい知見が得られたりすることもあり得るので、

大切な人と共によりよく生きていくために、そういうことをしてみてもいいかもです。

そうしたことを試していく中で、

時に「○○が困っているのにあなたはいいね」というような心無い言葉が飛んでくることも

もしかしたらあるかもしれませんが、

それはうつに関する理解が全くないただの無知(やネガティブな思いからの言動)によるものだ

ということはもうお分かりかと思いますので、

取るに足らないことと思っていていただけたらと思います

(闘ってもいいですがひとりで疲れてしまわないでもらえたら)。

そういったものが少しでもなくなるように、

そして、安心して底につけるような社会にできるように行動していたいなと改めて思います。