岩手に戻り、一週間ほどが経ちました。
この間、荷物を整理し部屋を掃除し、これまでお世話になった方々への挨拶をし…
そしてまた戻ってきたタイミングで偶然にも仲間たちから複数の連絡が入ったため、
そちらのやり取りもするといった具合に、バタバタとした日々を送っています。
「この半年は現実だったの…?」というふわふわの感覚はそのままに笑、少しずつ落ち着き始めたところです。
さて、そんなやや慌ただしい状況ではありますが、気が付けば今日でブログをはじめて3年が経ちました。
3年間毎月およそ10記事ほどは書いてきたと思うので、単純計算で300記事は書いたことになります。
記事といってもアメブロは日記のような内容なので大したものではないのですが、
それでも3年間書き続けてきたことは、「継続が苦手」な私にしては
まあがんばったのではないかな?と認めてあげたいなという気分です。
一度でもお読みいただいた方々には心より感謝いたします。
正直言って、このブログを書いているから、3年間続けているから何かあったかというと、
残念ながら何もないというのが実際かと思います。
アクセス・PV「数」も少ない「数」であり、質に関しても、
誰かや何かにとってプラスになるようなことは生み出せていないだろうと思います。
その意味ではいわゆる世間で言うところの「ブログを書く意味」は成されていないことでしょう。
それでも「継続が苦手」な私が3年間ブログを続けてくることができたのは、
ブログを書くのが純粋に楽しいからということと、
アウトプット・発信(表現)を通じて生み出されるものの可能性、そのおもしろさを感じているからということ。
そして、私にとってこれが「目的」であるから、と言えるのかなと思っています。
アウトプット・発信(表現)を通じて生み出されるものの可能性、そのおもしろさというのは、
この半年の間、様々な地域で生活をさせていただくことで実感することになりました。
地域にはそれぞれに文化があり、それぞれに人々の営みがあります。
それらは生活をする中でなんとなく体感することができますが、
それらを表現してくれる人たちや場があることによって、その体感の深さが異なることを感じてきました。
たとえば、地域には博物館や資料館といったものがありますよね。
そこには「貴重とされるもの」が展示されているわけですが、
逆説的に言えば、そこに展示されている(アウトプット・表現)ものを見れば、
そこに住む人々が「何に価値を置いているのか」「何を大事にしているか」が
(より)わかると言うことができるように思います。
それを受け取った上で見える地域の景色は受け取る前に見える景色とは異なります。
それをバイアスと言うこともできてしまうかもしれませんが、
そうした表現に触れることによって、地域をより味わうことができるようになることを感じてきました。
異なる風景を見ることで、地域を味わうことで次の表現が生み出されていくということがきっとあり、
私の体験記もまたそのひとつなのだろうと思うのです。
また、ちょっと下世話?な話になりますが、今回岩手に戻る途中、
相方の希望があり某夢の国に寄ってきたのですが、
夢の国で思ったのは機能としてはただの「帽子」や「乗り物」に過ぎないものが、
表現によって人々にとってかけがえなのないものになっていることでした。
11月で少し冷えてきた頃、風の強い夢の国では暖かい格好をする必要があります。
そのために「ニット帽」をかぶる人が多くいましたが、
夢の国のキャラクターの「柄」や「毛皮の色」の「ニット帽」で夢の国は溢れていました。
周辺をただぐるぐる回る「乗り物」も(失礼(笑))夢の国のキャラクターの「器」になっていることで、
人々は何分・何時間もかけてそれに乗ろうとします。
…ただ冷めた目線なだけじゃんとつっこまれそうな気もしますが(笑)、
おそらく違う表現であったらそういうことは起こってないのだろうと思うのです。
夢の国が人々を喜ばす表現をしているからこそ、それらの選択が生まれており、
それが夢の国を夢の国であり続けさせているのだろうと思います。
そうしたことから(人を傷つけるものでない限り)表現というのは
様々な可能性を生み続けるものなのだろうと思い、私はそこにおもしろさを感じています。
もうひとつ、私にとってブログが「目的」であるということですが、
それはそのまま、私にとってアウトプット・発信(表現)というのは
「手段」でありつつ「目的」であるということです。
ブログで何かを発信すること(=手段)によって何かにつながる(=目的)というのが、
先ほど言った世間で言うところの「ブログを書く意味」なのかと思いますが、
私はその側面を有しつつ(誰かや何かにとってプラスになったらいいなと)、私の書きたいことを書くこと自体が喜びであり「意味」となっています。
仮に何かにつながらなくても、「数」や質で評価に値しなくても、
発信したいことを発信する(繰り返しますが人を傷つけるものでない前提)。
それを続けるということが私にとって価値のあることであり、幸福なこと、つまり「目的」になっている。
3年間書いてきたことを振り返ると、いつもそんな風に感じていたような気がします。
だから続けてこられたのかなと、そう思います。
『戦争は女の顔をしていない』のアレクシエービッチは、
ロシアによるウクライナ侵攻を前に「希望は私たちが語り続け行動することにある」と話していました。
これからも拙い内容ばかりですが、私は「語り続け行動する」ひとつとして、ブログを続けていきたいと思っています。
拙い表現でも、それが次の表現を生む可能性、そのおもしろさを知っている私は幸運と思います。
そして語りたいことを語り、書きたいことを書く、それを続けられている私は幸福だと思います。
そんな幸運・幸福に感謝しながら、希望を持って、ブログを書いていきたいと改めて思うのでした。