笠岡市でのお試し暮らし体験記⑮は、⑭で書いた岡山空襲の続きで「その二」を書きたいと思います。


 

⑭では岡山空襲の被害の大きさや私自身が初めて知ったこと、

そして、戦争とは「計画」など何もあてにならない残虐な行為であることについて主に書きました。

ここでは、戦時下の生活や日常生活に欠かせない「風景」に関することに触れたいと思います。


 

展示室で入手できる『岡山空襲の記録』によると、

戦時下の市民生活は以下のような生活であったという記載があります(一部省略等しています)。


 

1935年頃から岡山でも空襲に備えて防空演習などが行われていましたが、

19441945年頃になると、市民は頻繁に出される警戒警報や空襲警報の中、

外出時には防空頭巾を持ち、

防空演習や建物疎開(防火帯を作るために住宅密集地の建物を取り壊すこと)などにかり出されました。また防空壕、防火水槽やバケツ、消火用の砂、

火たたき(焼夷弾を消すための道具)などがあちことに設置されていました。

岡山空襲直前には、家財道具などを郊外へ預ける「荷物疎開」を

多くの市民が自主的に行おうとしましたが、統制下で自動車は使えず、

馬車やリヤカーも順番待ちというありさまでした。


 

防空演習や疎開をはじめ、戦争がなければ必要のない行動が

人々の日常生活の一部となっていったことがこの記述からよくわかるように思います。

「空襲に備える」だけでも生活が変わりますが、

実際に戦争がはじまれば命の危機に脅えながら警報に振り回され、

被害に対応しながら暮らすことになり、より大きく生活が変っていき、翻弄されていくことが想像できます。

「荷物疎開」といったことは私は初めて聞いたのですが、

その都度その都度の必要性に迫られ、人々は生活を変えていくことになるのだろうと感じさせられました。

コロナ禍で直面しているように、私たちは災害によっても生活を変えざるを得なくなりますが、

人為的なものによるその理不尽な要請はより大きな遺恨を残すだろうと思われます。


 

私はこれまで主に東日本大震災の被災地において、地域の高齢者の方のお話を伺う機会を得てきました。

その多くが震災だけではなく戦争の話をしてくださるのですが、この記述を読み、

戦争によって当時の学校生活がただの労働の場所・訓練の場所となってしまっていた

という話をしてくれた方のお話が思い出されました。

その方はマラソンが得意だったようですが、大会など、

そういう機会もなくなってしまったようで(出場する余裕がなくなることなどを含め)

悔しい思いをされたということが語られました。

その方の場合は、大人になってー何十年の歳月を経てーマラソンの大会に出場することができ、

いい結果を残すことができたようで、ある種「報われた」といった話もされたのですが、

そういう人ばかりではない、むしろそういう人の方が圧倒的に少ないだろうことを思うと、

戦争を始める人達に改めて強い憤りを覚えます。

そうした理不尽な変化の要請は人々の生活をぎすぎすしたものに変えうるだろうと思いますし、

同時に人々の生活風景すら変えてしまうだろうとも思います。

戦争に備えるための建物や道具、それに伴って変わる人々の動線や話し声・服装などは

日常の風景を変えていくことでしょう。

当然、戦争による被害が発生すれば風景は一変し、

その後の復旧・復興においても風景は残念ながら「元の町の姿」に戻ることはなく、変化し続けていきます。

もちろん、変化しない風景などないのですが、

そのことと「生きてきた証」となる風景が理不尽に破壊されていくという話は当然別の話です。


 

展示室では空襲後に生き続けている「戦災樹木」を保存する活動があることを知ることができました。

その活動の資料にはこうあります。

 

街の風景は、私たちにとって、とても大切なものです。

それは、街の歴史や文化、経済のあり方を示すものであり、

また、私たちに、日々の生活の安心を与えてくれるものでもあります。

岡山空襲では、多くの方が犠牲になりましたが、岡山市街地も大きな被害を受けました。

建物、道路、橋が壊され、樹木も焼かれました。

空襲によって、岡山の大切な街の風景が破壊されたのです。

見慣れた風景が、一夜のうちに無くなったことに、

当時の人びとは、どれほど大きな衝撃を受けたことでしょう。

(略)

空襲の際、樹木は、火や飛来物から、人の命や建物を守る役割を果たしたと言われています。

これらの樹木のなかには、人や建物を守ったものがあったかもしれません。

 

風景は普段の「当たり前」の中に溶け込んでいるものなので、

それがどれだけ大切なものかについてははなかなか気づくことができません。

それは風景を失ったときの喪失感の大きさが想像を上回るものであるということも意味しています。

また、その「当たり前」の風景(樹木など)が私たちの日々の生活を守っていること、

豊かな生活(何をもって豊かかはここでは触れませんが何気ない豊かさというニュアンスです)のために

実は欠かせないものであることにも、私たちはなかなか気づくことができません。

この記述にあるように、災害から守るということももちろんあります。

その逆に働いてしまっている・働いてしまうこともあり得るわけですが、

それは風景に力があることを示していると言うこともできるでしょう。

風景は人間が簡単に破壊していいものなどでは決してないのだと私は思います。

しかし、現状はどうでしょうか。

すべての開発が該当していると言うつもりはありませんが、

開発という名の風景(環境)の破壊は続き、

気候危機も深刻さを増しているというのが現実ではないかと思います。

それは誰を豊かにし、誰の日常生活を支えているのか。真剣に考えないといけないと私は思います。

 

岡山市では、1985年に「平和都市宣言」を、1989年に「岡山市平和の日宣言」をしています。

それぞれにこうあります。

 

真の恒久平和を実現することは、戦災で多くの尊い人命を失い、

街を焦土と化した岡山市民のみならず、人類共通の念願である。

しかるに、核軍備の拡張は、依然として行われ、

世界の平和と安全、人類の生存に深刻な脅威をもたらしている。

我が国は、世界唯一の核被爆国として、核兵器の廃絶を世界の人々に強く訴え、

この地球上に広島、長崎の惨禍を再び繰り返させてはならない。

岡山市民は、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、

すべての国のあらゆる核兵器が完全に廃絶されることを願い、

平和で幸せな岡山市を築くため、不断の努力を続けることを誓い、ここに岡山市は平和都市を宣言する。

昭和60625日 岡山市


 

平和都市宣言の趣旨を体して、市民一人ひとりが、平和について考え、

平和の尊さの思いを新たにする日とするため、

岡山大空襲で多くの市民が被災した629日を岡山市平和の日とすることを宣言する。

平成元年624日 岡山市

 

人々の生活が脅かされず、戦争のような理不尽な出来事が起こらず、それに翻弄されないでいられることを、

いのちの尊厳が守られ、地域の尊厳が守られることを私も願っていたいと思います。

もちろん、願うだけでなく、行動につなげていたいです。