笠岡市でのお試し暮らし体験記⑫では、⑩・⑪で書いた東日本大震災(災害)の話に関連して、

西日本豪雨のことについて書いていきたいと思います。


 

愛媛県東温市でお試し暮らしをさせていただいているときにも、

宇和島市と野村町での西日本豪雨の話を書きましたが、

西日本豪雨はその名の通り西日本の広域にわたって大きな被害をもたらした災害であり、

岡山県でも大きな被害が発生しました。

その中でも被害の大きかった(被害の大きさの比較で選んだという意味ではありません)総社市に訪れたので、

その時のことを書きます。

 

岡山県総社市は岡山県の中南部に位置し、人口は7万人ほどの地域です。

西日本豪雨時にもよく名前を聞いていた地名でしたが(所以はこの記事と次の記事をご参照ください)、

岡山県内で人口が最も増えている町としても有名で、これまで私としては気になっていた町でした。

以前少し書いたように総社市には鬼ノ城があり、温羅伝説がある地域であることからは、

歴史的に見てこの地域が重要な地域として位置づけられてきたことが伺えるように思います。

また、そもそも「総社」という名前は、

「国府」というかつての「地方統治の拠点」の近くに祭神が集められた場所のことを指すようで、

そのことからも(地名としてその意味合いでつけられたかは定かではありませんが)

総社市のポテンシャル?のようなものが感じられるようにも思ったりします。

そんな総社市の中で、私が今回訪れたのは西郡(にしごおり)という地区と下原地区というところでした。

西郡は以前「もも」で書いた「岡山桃祭り」の会場があったため立ち寄り、

下原地区は西日本豪雨で大きな被害を受けた地域として見学をさせていただきました。




ここでは下原地区のことを中心に書きたいと思います。


下原地区に訪れてまず最初に目に入ってきたのが、

大きな川(小田川)沿いに町(地区)が並んでいるその立地でした。




その立地から、小田川が氾濫してしまえば町の多くが水害の被害に遭うことがよくわかり、

4年前の西日本豪雨で大きな水害が起こってしまった光景がなんとなくですが見えた気がしたのです。

小田川の川幅は広いですし、堤防は海抜18.5mほどで

(川の堤防となっている道路沿いにある以下の写真を参照しました)

かなり高いので(災害復旧後にこのようにされたのかもです)

その分一度氾濫してしまえばその被害は甚大なものになることが容易に想像がされます。



下原地区にはこのように綴る石碑がありました。

 

平成3074日から降り続いた豪雨により高梁川が増水、支流の新本川が氾濫。

地区内にあるアルミ工場の溶解炉が冠水し、762335分に爆発、地区内の全家屋が被災した。

夜中に小田川および支流の堤防が決壊し、翌7日午前中に浸水。100世帯以上が床上浸水した。



下原地区を歩くと、浸水水位がわかる石碑が建てられていたり、

新しい家や空地などが目に入り、水害の被害を確かに感じます。





また、道路沿いには爆発したアルミ工場と思われる建物の跡が見え、

距離感や工場の大きさなどから爆発の規模とその影響に恐怖を感じざるを得ませんでした。




一方で、上記の石碑にあるように、

この地区はひとりの犠牲者も出さず全員避難することができた地区と言います。

どういうことなのかと思いながら町を歩いていると、

偶然その地区に住むある方とお話をする機会をいただくことができました。

その方もご自宅の1mくらいが浸水するという被害に遭われていましたが、

西日本豪雨でこの地区で犠牲者が出なかったことについて次のようにお話してくださいました。

 

小田川がきれて高梁川をさかのぼる形になった。すぐ近くの伊予部山が(水を)堰き止めた。

(水害が発生する)前日にアルミ工場の爆破が起こって、二次被害があるからと避難してたんだ。

 

高梁川は上流にあり、

小田川がこの地区のすぐ横にある川なのですが(誤りがありましたら申し訳ありません…)、

その川が遡り、遡った先にある山で水がせき止められるということがどうやら起こったようです。

同時に、工場の爆発があったことで「避難しないといけない」となったために、

翌日の水害の前にみなが避難するという状況となったようでした。

この方のこうしたお話の限りでは、偶然が重なって助かったということが言えそうではあります。

災害は人間の都合など関係なく被害をもたらすものですが、

その一方で、このケースのように、奇跡とも言われるようなことも起こります。

東日本大震災等の災害支援の経験から、

私もこれまでそうした話はよく見聞きしてきました(よって油断していいとかいう意味では全くありません)。

ただ、お話をうかがっていくうちに、なんのご縁か、

この方が東日本大震災の被災地(しかも私がよくいた地域)とつながっている方であることがわかり、

東日本大震災の話になったのですがその話の中でその方が言われたのは

 

この地区は東日本大震災が起こってから避難訓練をしてきた

 

ということでした。


この地区は「かつて明治24年と45年に高梁川が氾濫して、全部流れた」という歴史があるようで、

その後はしばらく大きな災害などに遭わなかったようです。

そのためそこまで水害などを想像することもなくいたようですが、

東日本大震災が起こったときに防災意識を高め、訓練を積むようになったとその方は言います。

それが少なくともこの地区の被害を減らすことに寄与したというのは間違いなさそうです。


このお話から(『ほっと岡山』さんに関する記事でも書きましたが)改めて思うのは、

私たちは「教訓」とか「あの日を忘れない」とかいった言葉を簡単に使いますが、

それはこうした行動につながってはじめて意味がなされるものではないかということです。

当然、避難訓練をしていればそれでいいというような簡単な話をしたいわけではありません。

訓練をした気になっていると言わざるを得ないものもあれば、

過去の災害のみに焦点を当て、

それによって未来に起こる被害(想定)を矮小化してしまうということだって残念ながらあります。

そうしうたことの判断は大変難しいものであると理解していますが、

総社市のような例・姿勢を私たちはきちんと学ぶ必要があり、

それをアップデートしていくことが求められているだろうと思います。


偶然、先日見たテレビで、

西日本豪雨で建設された仮設団地が今月をもってすべて撤去されるというニュースを目にしました。

https://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/20220929/4020014234.html


それによると、

西日本豪雨で大きな被害を受けた倉敷市や総社市には、県などによって、

8つの団地あわせて312戸の仮設団地が整備され、4年前のピーク時には、

301世帯719人が入居していました。

(略)

県は10月中旬にも撤去作業を始める予定で、豪雨被害から4年余りを経て、

仮設団地がすべて撤去されることになります。

とありました。

それを見て、ここまでの4年間のご苦労を思うと同時に、「終わった」とされる可能性もあると正直思いました。


同ニュースでは

一方、民間の賃貸住宅を活用した「みなし仮設」には、現在も7世帯17人が暮らしています。

 

ともあったのですが、「最後のひとりまで」というのはもちろん、

災害はハードが終わったら「終わり」などでは決してなく、

「今後」も含めて考えられねばならないことだと考えます。

それは私が東日本大震災から得た「教訓」です。

こうしたことも「教訓」として生かされていってほしいと思いますし、

これからのまちづくり・防災減災において、総社市のこれまでが総括され、

同時に総括では拾えない小さな声に焦点が当てられていって、

より人間を中心として防災・復興が議論されていくといいなと思うのでした。