先日15日、終戦記念日。

毎年、この日に為政者らが「御国のために」と靖国神社に参拝することについて話題になります。

私はまだ勉強不足であり、靖国参拝について、

あるいは戦争の歴史について詳しく語ることができないのですが

私にとってこの日は、この国はいつになったら「加害」に向き合うのだろうかと思う日となっています。

日本は唯一の被爆国であり、その「被害」がどれほど甚大なものであったかは

知る機会を含めてこれまで都度触れて考えさせられてきました。

その目線で「戦争はしてはいけない」ということを理解してきました。

しかし、戦争というものの中にどれだけの「加害」があったかについても、

私たちはもっと考えなければならないのではないでしょうか。

 

私がこのことを考えるようになったのは、

東日本大震災の「復興」の中にある人災を目の当たりにしてきたことと、祖父の話を聞いたこととがあります。

前者は(諸事情あり最近更新できていないのですが…)theLetterで書いていくので省きますが、

祖父の話についてここでは書きたいと思います。


 

私の(母方の)祖父は私が生まれる数年前に亡くなりました。

写真でしかその姿を見たことはなく、私が祖父のことを知るためには

祖父のことを知っている家族から話を聞くしかないのですが、

祖父の娘にあたる母は祖父のことを「欠落した人」と言います。

祖父はお酒を浴びるようになって飲み、何もしない人だったようです。

それどころか、祖母(祖父から見たら妻)に暴言を吐き、祖母をひどく苦労させた人だったそうです。

その姿を見て育ってきた私の母が、祖父のことを「欠落した人」と認識するのはその通りだと思います。

しかし、母以外の家族から祖父について聞いたときに出てきたのはこういう話でした。

「(祖父は)戦争に行く前は周りから尊敬されるような人だった」

 

祖父が酒を浴びるように飲み、暴言を吐くようになったのは戦争に行って帰ってきてからだったそうです。

今でいうPTSDに祖父はなっており、アルコールに依存しながら

その症状・記憶と闘っていたのだろうと思います(それで暴言などが許されるという意味ではないです)。

今でこそトラウマについての知識は多少広がっていると思いますが、

当然、当時その知識が広がっているはずはなく、

また、祖父と祖母は山奥のいわゆる田舎にいたため、

そういう情報が容易に届くことは間違いなくなかったと考えられます。

祖父を変えたのは、祖父を「欠落した人」と家族から思わせたのは、戦争だったのです。


 

変わり果てた祖父が戦争について語ることはなかったそうですが、

祖父の母(義理の母かどうかは不明?)にだけ一度話したことがあったそうで、

私はその内容を家族から聞きました。

家族の話によると、祖父が話した内容は戦争での戦闘の話ではなく

「上官にボコボコに殴られた」という話だったようです。

詳しくはわからないのですが、祖父は当時、乗馬をする隊?にいたようで、

その訓練中にミスをしてしまったことがあったそうです。

そのことで上官にひどく殴られてしまったそうで、

そこからおかしくなってしまったという話が祖父からされたと聞きます。

 

戦争は人を殺し合う殺戮行為です。

殺戮行為の中で精神を病むのは当たり前ですが、実際の殺戮行為以外のところでも、

戦争中は暴力がまかり通り、甚大な傷を人々に負わせます。

端的に言えば、祖父は日本軍から「加害」を受けたのです。それによって精神が崩壊してしまったのです。


 

こういう話をすると

「戦争中だから仕方ない」

「命がかかってるんだからミスに対して厳しくするに決まってる」みたいな話にされがちですが、

冷静に考えなければなりません。

暴力は仕方ないことではないです。

「厳しくする」=暴力でもありません。

戦争の文脈でなければこのことに気付けるはずなのですが、

戦争はなぜかこの当たり前のことを忘れさせる力を持ってしまっています。

このことは「被害」だけを見ていては気付けないものです(気づきにくいもの)。

戦争の「加害」も見ないと立ち止まれないと私は考えます。

 

そもそも祖父はきっと戦争になんか行きたくなかっただろうと思います(これはあくまで想像ですが)。

当たり前ですが、ミスをしない人間もいません。

行きたくないところに連れて行かれ、慣れない環境でミスをして、それを理由にひどい暴力を振るわれる

…それで精神を壊さないなんて逆に考えられませんよね。

無論、殺戮行為の現場で精神を壊さないわけがないです。

繰り返しますが、これは当たり前のことです。でも戦争はそれを気づかなくします。

立ち止まって考えないといけません。

戦争はすべてを破壊する。

戦争はしてはいけないというところで立ち止まっていないといけないんです。


 

以前、ピースボート主催の

オンライン講演「加害の歴史と向き合う~ドイツに学べるか~」を聴講したことがあります。

そこではこのような指摘がされていました。

日本の加害に関する博物館とかはほとんどない

そして、歴史修正運動をはじめ、

加害に向き合わない日本を作ってきたのには安倍氏の影響が大きいと言われていました。

ここでも安倍氏が作り上げてきた日本社会の問題があります。

統一協会と自民党とのつながりが次から次へと顕わになってきていますが、

そこに安倍氏が大きな影響を持っていたことは間違いなく、

この国はずっと自身の不正から逃げ続けてきていると言えるように思います。

加害を認めず不正を行う政治がもたらすものは悲劇しかないでしょう。

祖父が救われず、家族を苦しめてしまったように、悲劇しかありません。

同時に、残念ながら彼らが自律的に立ち止まることはできないでしょう。

私たちが立ち止まり、この歪んだ社会を止めなければならないのです。

15日はそういうことを共有する日にしていかないといけないのではないかと思っています。

本当に危機にあると思います。連帯して、この社会を少しでも公正にしていきたいです。