お試し暮らし体験記㉑では⑳と同じく東温市の自然の豊かさについて書こうと思っていましたが、
これまた⑳と同じく、『花菖蒲園』に訪れたときに正岡子規(と夏目漱石)の石碑があった流れで、
正岡子規のことをざっくり書いておきたいと思います。
というのも、昨日のNPBオールスターは愛媛県松山市の『坊ちゃんスタジアム』で開催されましたが、
正岡子規は松山市で生まれ、松山市には子規記念博物館があるため、
先に書いておきたいなという気分になりました(博物館には東温市在住中に訪れました)。
もし東温市にこのままいたら『坊ちゃんスタジアム』も目と鼻の先だったんだな…と思ったり、
そして、今回の一番の注目である佐々木投手は私がいた東北「被災地」にいた人で、
その人が松山で活躍してたんだな…と思ったりと、
今年のオールスターはなんとも不思議な感覚で見ていました…。
さて、まず子規記念博物館について簡単に書くと、
子規記念博物館は昭和56年に松山市内に建てられ、館内には松山市・愛媛県の成り立ち・昔の姿や子規の人生、
子規の育った明治時代や文学者としての子規などに関する展示がされている施設となっています。
外観からわかるように、この博物館は割と大きな建物で、
中の展示品には当時実際に使用されていた物・作品もあれば、
当時の写真や絵巻など充実したものが揃っていました。
子規記念博物館は観光地で有名な道後温泉(また別で書こうと思います)の近くにあるため、
観光客にとってもアクセスのいい立地と言えるように思います。
展示や資料に沿って子規のことを簡単に書いていくと、子規の本名は正岡常規(つねのり)といい、
幼少期はおとなしい子で、友達にからかわれたりしていたといいます。
父・母・妹・祖父とともに暮らしていたようですが、5歳のときに父を失くし、
その後は母親に育ててもらったようです。
塾に通って漢詩の勉強をしたり、本を読んだり絵を描いたりするなどして過ごしていたようで、
おとなしいイメージのお子さんだったといいます。
その後、今の松山東高校にあたる松山中学校に進学した子規は、
友達と漢詩を作る会をつくるなどして、引き続き勉強に励んでいたそうです。
また、その頃の日本は自由民権運動が広まった頃であり、
子規はこの運動や演説・政治に関心を持つようになったといいます。
その影響を受け「東京に出て政治家になりたい」と思うようになった子規は、
東京にいるおじになんとか許しを得て、船と汽車とを使いーなんと5日間かけて!ー東京に向かいます。
東京では今の東大にあたる帝国大学文化大学などで勉強をする道を子規は選びました。
学生時代には『筆まかせ』という文章を書くなどしたようで、
結果的には政治家というよりも文学者の方へ着実に歩みを進めていたと
(後から見れば)言うこともできそうです。
20代前半には夏目漱石(坊ちゃんスタジアムの名前の通り漱石は松山と深い縁があります)と出会い、
子規と漱石はお互いに文章を書く人として尊敬し合う関係となります。
『白猪の滝』を漱石が見に行ったのは、子規の影響があり、
ふたりが手紙のやり取りなどをしていたことなども滝の石碑には書かれてありました。
また、子規と言えば俳句や短歌ですがーここで冒頭の野球の流れにもつながるのですがー
実はスポーツも好きな人でした。
さらに実は、この頃はベースボールが日本に伝わったばかりの頃で、
子規はベースボールに夢中になっていたといいます。
昨日のNPBでもちらっと子規の写真が写りましたが、
子規とベースボールには深い関係があることは知る人ぞ知ることと思います。
おもしろいのは子規はたくさんのペンネームをつけていたのですが、
その中に「野球」というペンネームもあるのですよね。
読み方はなんと「のぼーる」です、なかなかですよね笑。
子規の作品にはベースボールの試合が描かれているものもあるようで
(私は残念ながら全然この手のことは詳しくないのですが)
子規がベースボールのルールの翻訳をしていたこともここでは展示されています。
ちなみに、これまでずっと「子規」と書いてきましたが、
「子規」も(最も有名な)ペンネームであり、その由来をご存じでしょうか。
実はこのペンネームは子規が21歳の時に喀血をし、肺結核になってしまうことに由来します。
その時に作った漢詩の末尾に「喀血後自号子規」と書いており、
これは「血をはいた後、自分のことを子規と呼ぶことにした」という意味の言葉です。
「子規」は「ホトトギス」とも読める言葉ですが、
口の中が赤いホトトギスと、血を吐いている自分とを重ねてつけたと言われます。
本名「常規」の規を取ったということでもあったようです。
苦しみの中で生まれたペンネームであることは私は全く知りませんでした。
知らないことだらけで驚きの連続でしたが、今回博物館に訪れて特に驚いたのは(私が無知なだけかもですが)、
子規は何度も病気にり患しているということ、
また、有名な横顔の写真は病室でのもので、若くして亡くなったということでした。
子規は18歳ころから俳句の世界に熱中するようになり、
俳句を作るだけでなくものすごい数の俳句の研究をしてきました。
俳句の革新に取り組み普及させ、俳句雑誌の「ホトトギス」は子規が作ったもので、今も続いてるものです。
また、短歌にも取り組み、批判を受けながら、
俳句も短歌もより日常に近いものをと新しいかたちを示し、勉強会にも力を注いできました。
それだけでなく、小説を書いたり、絵を描いたり、旅好きとして旅に出ては紀行文を書いたり、
新聞記者としてジャーナリストとして働いたり、
極めつけは日清戦争の時には周囲の反対を押し切って従軍記者となって現地へ向かったりと、
そのエネルギーはすさまじいものを感じます。
そんな子規がたび重なる病魔に襲われ、生死をさまようこともあったことは人生の不条理を思わせますし、
それでも取り組む子規の原動力は何だったのだろうかと思わされます。
結核が襲ったあとは、その結核菌がもたらす脊椎カリエスという病気に侵され、寝たきりになりますが、
寝たきりになってからも随筆を書き続け、亡くなる2日前まで書き続けたといいます。
館内には最期の三つの句である絶筆三句が展示されています。
糸瓜咲て 痰のつまりし 仏加奈
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
をととひの へちまの水も 取らざりき
子規が最期、どのような景色を見ていたかが想像されます。
闘病中は母と妹が世話をしてくれ、亡くなった後も仲間たちが俳句の会などを続けるなどし、
引き継いでいったといいます。
きれいなことばかりでは当然なかったと思いますが、
子規のエネルギーに魅かれた人たちも多かったのではないかなと個人的に思います。
文学者で俳句の人というのが子規のイメージでしたが
(おとなしい穏やかな人というステレオタイプ的なイメージ)
明治時代という激動の時代であったことも含め、子規の生涯を知り、子規のイメージがガラッと変わりました。
大反省です(情けない…)。
子規の生涯は明確な誰かと闘っていたというわけではなさそうですが、闘いの臭いがしとても刺激を受けました。
話のレベルがすごく下がるのですが、俳句って難しいんですよね。
短い文章で自分の気持ちや伝えたいことをうまく盛り込むというのは、
かなりのエネルギーがいることと思います。
子規は生涯を通じてそのエネルギーを使い、表現を続けてきた。
そのことに敬意と今回受けた刺激、学びを大切に受け止めさせていただこうと思います。