福島~山形旅で訪れた小野川温泉。

こちらとてもいい温泉で、温泉街の雰囲気も楽しめるし足湯も(熱すぎたけど笑)充実しているし、

とても素敵なところでした。


 

で、訪れた時に例のこちらを目にしまして…


 



その時は正直「なんでこんなのあるんだろう」

「こういうのでいわゆるオタクの人を呼ぼうとかスタンプラリー的(御朱印的?)にして、

全国巡ってもらうために何かやってるのかな」と、

《興味がないためあまり気にも留めずに》いました。



(ちなみに1枚目の写真はこの裏に撮りたいと思って猫ちゃんがいるよということで収めてました)


 

ですが、ご存じの方も多いかと思いますが、

この「温泉むすめ」は性差別として(少し前かな)話題になりましたね

話題という括りで終えてはいけない問題ですが…)。

「温泉むすめ」という言葉を聞いて、「何それ、そんなのあるんだ」と思っていたのですが、

ちゃんと見ると、まさか、思い切り自分が見てきたものだったことに気づいてビックリ。

というか、《興味がないためあまり気にも留めずに》いたことを深く反省しました。。


 

この件、いろいろ調べると多くの性差別の表現があるようですね。。

スカートめくり、夜這いなど…これらの設定は確実に「不要」だと思いますし、

調べれば調べるほど、明らかに「女性が搾取される」対象としてキャラクターが作られていると思います。。


 

私はこれはふつうにアウトだと思うのですが、このことに反論する方々も多くいるようで…

ただ、それも(肯定・正当化の意味ではない)なんだかわかるような気がしているというのが正直なところです

(そのことについて後で書きますのでどうか怒らずに最後までお付き合い、

あるいは最後だけを見てもらえますようお願いいたします)。

なので、私はこれを「差別かどうか」問題ではなくて(差別ですが…)、

別の視点でここで起こっている「問題」について考えてみたいと思っています。


 

まず、この「温泉むすめ」が「むすめ(女性)」であるのはどうしてかという点に注目したいと思います。

「温泉おじさん」「温泉政治家」ではなぜダメなのかということです。


 

これに対してはおそらく、

「別にダメではないけど、それじゃ客が集まらないでしょ」という答えが返ってくるのかなと想像します。


 

では、なぜ「温泉おじさん」や「温泉政治家」では客が集まらず、

「むすめ」なら客が集まると考えられるのでしょうか。


 

その答えも様々かとは思いますが、答えの根底にあるのは、女性は弱い立場であり、

弱い立場にある存在は強い立場にある存在に奉仕したり、満足させてあげたりすることによって

あたかもその存在が成立するかのような歪んだ構造なのではないかと思います(胸糞悪いけど)。


少なくとも、強い立場のものが、強さゆえに有しやすい資本(権力やお金)を使って、

弱い立場のものをコントロールすること―それがあたかも権利であるかのような錯覚―が

これまで(今も)あり、その構造は必要不可欠かのように社会で成り立っている。

このことについては多くの人が同意されるかと思います。

そのため、この構造(のもたらしている暴力性)を疑わずに、

「二次元だし本物の女性ではないからいいだろう」という勢いで、

その構造を助長するかのようなシステムー温泉地ということもスカートめくりや夜這いなどの設定も―が

当たり前に公認されていくというおかしなことが起こっているのではないかと考えられます。


 

これはふつうに「性差別」ですが、「差別かどうか」をここでは置くと言ったので

違う視点で何が問題かを書くとすれば、

当然、この歪んだ構造を何の疑念もなく肯定・推奨しているという点と、

男性が資本を握っていることが当然のことでありその資本を得るためには手段を厭わないとなっている点

になるでしょう。


 

「温泉むすめ」という弱そうな立場の存在(繰り返しますが、むすめであり温泉である)を、

安全なところにいる人が見に行く構造。

「温泉むすめ」をおそらく買う(投資する)であろう人らというのは、

異性愛者の男性が大多数であると考えられ、彼らはこの社会で資本を握っていることが多い。

したがって、彼らをターゲットにしようということ自体は資本主義社会では致し方ないのかもしれませんが、

「温泉むすめ」というのは彼らが来るためのある種の「疑似的な犠牲」であり、

これは「本物の女性じゃないからいいだろう」として果たして本当にいいのかと私は思います。


 

そして、この件のもう一つ大きな問題は、

私が先ほど書いた「なんだかわかるような気がしている」にもつながるので、自戒の意も込めてなのですが…

これを誰が作ったかという点と同時に、

この問題に《誰が気づかないでいられるか》という点にあると私は考えています。


 

私は「温泉むすめ」の看板を見て、それこそ多くの中に紛れているイベントポスターをチラ見した程度の

「なにこれ」としか思わず、じっと見ることもしませんでした。

視界には入ってきていましたが(至る所に看板があったことが撮った写真を振り返るとわかるので)、

何も認識していなかった感じです。

このことについて「だったらそれでいいじゃん、騒ぐなよ」と言われる方もいるかもしれませんが、

そうではありません。

このことは私には《そうしていられる「特権」があった》ということであり、

たまたま《興味がない》《気にも留めない》でいられたということに過ぎないのです。


 

話が行ったり来たりして申し訳ありませんが、おそらく、

この「温泉むすめ」というシステム?を作ったのは

「性被害を受けたことのない異性愛者の男性」たちだと思います(違ったら申し訳ありません、またこのようなカテゴリー化は本来避けたいのですが…ここではこのように表現させていただきます)。

少なくとも、性被害を経験した女性、あるいは、

いわゆる、わきまえない女性はこのシステムを作り出す場にいなかっただろうと思います。

いたとしても、意見を言える立場になかったか、

意見を言えるほど彼女らにエネルギーがなかった(抑圧されていたなど様々な事情で)中で

決められていったのではないかと思います。


 

なぜそう思うかというと「性被害を受けたことのない異性愛者の男性」は、

この暴力性や傷の深さに《気がつかない》でいられるからです。


 

性被害・加害も本当は身近な例なのですが、

もっと身近な例で(うまい例が浮かばないことは力不足な私を笑ってください)このことを考えてみるとすると、

たとえば、あなたがつい最近告白をするも失恋をしたとして、深く傷ついているとします。

友人はそのことを知らずに、ふつうに恋愛を楽しんでいるとします。

その友人と食事や遊びに行ったとき、その友人が「最近、ふられてさ」と口にしたとしたら、

あなたはどのような反応をするでしょうか。

(イントネーションとかそういういろいろは置いておいてください笑)おそらく瞬時に

「失恋」の「ふられて」を想起するのではないだろうかと思いますが、いかがでしょうか。

でもその友人の「ふられて」は「(雨に)降られて」の話かもしれませんし、誰かに無茶振りされた話かもしれません。

にも関わらず、その友人の「ふられる」という言葉はあなたを一瞬ドキッとさせるでしょうし、

あなたはその友人に「なんでそんな言い方するの?」と怒りの感情を抱くかもしれません。

そもそも私が全然関係ない文脈で「失恋」の話題を出した時点で、

本当に失恋して傷ついている人の中には「うっ…」と思われた方もおられるのではないでしょうか

(その場合申し訳ありません…)。


 

私の書いている《気づかないでいられる特権》というのはそれと近いものであり、

「温泉むすめ」を見ただけで性差別に《気づく》人はいるのだと思います。

その「気づく」はただ気づくだけではなく、

失恋の例のようにドキッとしたり怒りの感情が湧いてきたりするものであり、

性差別や性被害はそんな生易しい反応ではありません

(なお、失恋の傷を軽視している意味ではないですが、

失恋の場合には他人の失恋話も聞きたいと前のめりになることも多々ありますよね。それとは訳が違うという意味です)。

安心が脅かされるものであり、その時に受けた傷をえぐられる、

かさぶたを剝がされる、その場に戻されるような(その例えが相応しいかも私にはわからないという前提を持ちつつ…)

日常生活に支障をきたし、価値観を暴力的に覆される強烈なものだと考えられます。


 

私は性被害を受けたことが(おそらく)ない異性愛者の男性です。

だから、気づかないでいられる特権をたまたま持っていたに過ぎないのです。

特権というのは気づかないでいられることだからです。

もし私が女性だったら、少し見方が違っていたかもしれません。

「気持ち悪い」とか「なんでいつもこういうのに使われるのは女キャラなんだろう」とか

「自分はこんなにスタイルよくないから、誰も気に留めてくれないんだろうな」とか、

もしかしたらそういったことを思っていたかもしれません。

そして、私が性被害を受けた女性・身近にそういう人がたくさんいるという立場だったら

(スカート捲りやハラスメントなどが横行しているので、

もはやこれに該当しない女性はいないのではというくらいだけど)

ほぼ間違いなく《気づいてしまう》だろうし、こんなのにはもう関わりたくないと思うだろうし、

エネルギーがあれば抵抗するだろうと思います。

でもそれを抹殺でもしようかくらいの勢いで

《気が付かないでいられる人たち》が叩いてくることに滅入ってしまい

深く傷つき、何も語らなくなるかもしれません。。

ここに大きな問題点があるのではないかと私は思います。

 

「寝た子を起こすな」ということで、性教育がきちんと行われていない日本において、

「温泉むすめ」のようなものはどんどん進んでいく。

それがより《気づかないでいられる》人と《気づかざるを得ない》人との分断を悪化させていて、

力を持った前者が物事を進めていき、かつ(構造として)力を持ちにくくされている後者を叩こうとする…

そういうことに大きな問題が私はあると思っています。

自戒の意も込めて、マジョリティ属性にある人たちは一度立ち止まる必要があるのではないでしょうか。


旅で気づくことはよいことばかりではないし、

たくさんのことを見落としている自分に気づいて幻滅したりもしますが、

ひとつひとつ、アップデートさせていかないといけない…と今回の件で改めて思わされるのでした。