先日参加した「居場所勉強会」での学びについて、いくつかシリーズを書いていきたいと思います。


 

第一弾として、そもそも「居場所とは何か」について、ここでは考えてみたいと思います。


 

みなさんは「居場所」という言葉を聞くと、どのようなものを思い浮かべるでしょうか?

あるいは、みなさんにとっての「居場所」はどこかと問われたら、どこを思い浮かべるでしょうか?


 

家や学校、職場など「(通い)慣れている場所」を

「居場所」として思い浮かべる方もおられるかと思いますし、

図書館の一角とか、近くの喫茶店とか、どこどこの美術館とか、

「少し日常から離れた場所」を「居場所」として思い浮かべる方もおられるかと思います。


 

もしかしたら、

支援団体によって作られた「居場所」が「居場所」として浮かぶという方もおられるかもしれませんし、

「居場所」なんてないという方もおられるかもしれません。


 

ちなみに私は「居場所」という言葉を聞くと、小さな部屋に丸テーブルがあって、

テーブルのまわりに座布団が敷いてあって、ぼーっとのんびりしていられるところ、みたいなのが浮かびます。

世の中に漂う「居場所」というものの観念をキャッチした感じですね笑


 

一方で、「居場所」はどこかと問われたら、

安全であればどこにいても「ここ」と答えるような気がしています。


 

さて、このように「居場所」というものは、

人によって様々なイメージや場所を連想させる多様なものであると言え、同時に、

それらに共通しているのは、本人が「安心安全」を感じられる「空間」であるということのように思われます。

 

この「空間」という部分についてもう少し見ていこうと思うのですが、

今回参加した勉強会では「居場所」のことを「場所」ではなく、

「機会」として捉えるというお話があり、「空間」と近いニュアンスを感じましたので、

私なりに(独断と偏見になってるかもですが悪しからず)説明したいと思います。


 

冒頭で書いたように、「居場所」という言葉を聞くと、

家や学校など「物理的な場所」のことを思い浮かべる人が多いかと思います。


 

しかし、それはただの「物理的な場所」ではなく、

たとえば「家族がいて、ホッと休むことのできるフカフカなベッドのある私の部屋」としての「家」であったり、

「○○さんと会え、楽しく勉強や部活ができる」ところとしての「学校」であったりするわけですね。


 

「物理的な場所」ももちろん大切なのですが、「物理的な場所」がただあればいいのではなくて、

その「空間」から居心地のよさを感じられるとか「安心安全」を得られるとか、

そういうものがあって「物理的な場所」が「居場所」となりうるのだろうと思います。


 

そう考えると、仮に特定の「物理的な場所」がなくても、

その人にとって「居心地のよさ」や「安全安心」を感じるコミュニケーションや話題があれば、

そこが「居場所」という「空間」になっていると捉えることもできるのではないでしょうか。


 

その「空間」とはつまり、

その人が「居心地のよさ」や「安全安心」を感じることのできる「機会」のことを指しているとも言え、

私が描くような「小さな部屋で~」という「場所」が「居場所」なのではなく、

多様な「機会」こそが「居場所」ではないだろうか、と私は思うのです。


 

このように「居場所」が「場所」として認識されるものではなく、

「機会」として認識されるようになると、どんなことが起こるでしょうか。


 

私は「居場所」の認識が「機会」のように変わると、

「居場所というのは特別なものではなく、日常にあふれている」はずのものだ

という認識が広がるのではないかと考えます。


 

そのことについて説明するために、ここで今回参加した勉強会で、

講師先生が言われていた言葉を引用したいと思います。


 

「居場所をやろう!とすると、居場所に行くことが特別感のあることになり、

居場所がいらない人からするとその人が特別な人に見える」


 

「(居場所を)ハコにすると、来ない人をどう呼ぶか、どう人を集めるかばかりにこだわるようになり、

それが会社として経営を回すことに必死になってしまい、ずれていく」


 

私はこれまでの体験から、この考えや現象について深く理解することができ(てしまい)ます。

全く同意見であり、「居場所」に携わる多くの人が、

この問題(問題ではないはずの問題)に直面しているだろうなと想像がされます。


 

このような問題に陥る原因は様々ありますが、

そのひとつに「居場所」を「場所」として捉えているということがあるのではないかと私は考えます。


 

「場所」を作る側は「居場所」を「場所」として捉えることで、「物理的な場所」を作り、

それによって、その「場所」に来てもらう、利用してもらうということを優先するようになります。


 

世間も「居場所」を「場所」として捉えているので、

その「場所」に行く人は「わざわざ作られた居場所」という「特別なところ」に行く人に見え、

それはその人がその「場所」から離れても付きまとう可能性があります。

つまり「特別な人」と見られるかもしれない、ということですね。


 

そう見られてしまう可能性があることがなんとなくわかっているから、

その「場所」に人は行かず、「場所」を作った側は人が来ないから、来てもらうことに必死になり…

という負のスパイラルが生まれるのだろうと思います。


 

決して「場所」を作ることを否定しているわけではないのですが、

このとても残念な現象は、多くのところで起こっているというのが現実であり、

とてももったいないと私なんかは感じています。


 

もうひとつ、講師先生の言葉を引用します。


 

「自殺に関する匿名相談の経験から見えるのは、その背景に差別や偏見、暴力や社会的孤立などがあり、

地域に居場所があれば解消されるものも多い」


 

この言葉は経験からの貴重な言葉であり、その通りだろうなと思わされます。


 

しかし、この言葉を聴くとどうでしょう。

きっと多くの人が「居場所を作らないと!」と思うのではないでしょうか。


 

講師先生は「物理的な居場所を作って!」と伝えたくて、

この話をしたわけではないと思いますが、この状況に対する有効策として、

「物理的な居場所」を作ることが挙げられそうです。


 

冒頭で書いた通り、「居場所」というのは多様であるがゆえに、

「居場所」の必要性と、「居場所」がどういうものであるかの認識とにずれが生じ、

もったいないことが起こっていく、その結果、また「物理的な居場所」が足りないとなっていくのかな…と

そんな風に私は考えています。


 

では、こうした負のスパイラルに陥らないようにするためにはどうしたらいいのでしょうか。


 

ここで私が大切だと思うのは、先ほどから書いているように「居場所」を「機会」として捉えることであり、

その結果、「居場所とは日常にあふれているはずのもの」という考え方が広がることだと考えます。


 

「居場所」が「機会」であると認識されるならば、「物理的な場所」をどうにかすることではなく、

どんな「機会」がこの地域にはあるか、あるいは、どんな「機会」が必要か

ということに注目するようになると思います。


 

そして、「機会」というものは、ひとりひとりの「日常」をたどることで気が付くものであり、

日常の延長線上にある「居場所」に気が付くことになります。

それは「足もとを見つめること」と言い換えることもできるかもしれません。


 

すると、本人が「居場所」として自覚していなかっただけで、

たとえば、美容院に行って○○さんに髪型の相談をする場面が「居場所」であると気づくかもしれませんし、

畑で雑草を抜いているときに通りかかる人とあいさつをすることが「居場所」であると気が付くかもしれません。


 

学校から帰ってくる子どもたちに「おかえり」と言うことが「居場所」であると気が付くかもしれませんし、

いつも行くスーパーで店員さんに、

にこっと「いらっしゃいませ」と言われることが「居場所」であると気が付くかもしれません。


 

「物理的な居場所」がなくてあたふたするのではなく、

ひとりひとりにとって違うけどきっと確かにある「居場所」と出会うことができ、

「居場所」を構成しているメンバーとしての自覚も生まれる可能性があります。


 

美容師がお客さんに似合う髪型を一緒に考えるということや、

店員さんの笑顔の声かけが実は「居場所」であり、

それを自覚し誇りに感じることができれば、それだけで誰かの「居場所」は増えますし、

質の良いものとなります。


 

商売では利害関係が生まれるため、難しい部分や気を付けなければならない部分も確かにあるのですが、

すでにあるものが「居場所」として機能しうるものだということを多くの人が自覚することで、

「居場所」を「不足」している「物理的な場所」ということで「増やす」発想ではなく、

「すでにある」「機会」として「見つめなおす」発想になり、

その結果、いますぐに始められることが増え、結果、誰かにとっての「居場所」が増えるのではないでしょうか。


 

こうして、それぞれが本来(以上かも)の「居場所」としての機能を取り戻したときに、

それでも足りない「居場所」が見えてくるだろうと思われます。


 

そのときに地域が創り上げ育む「居場所」は、

さほど特別な場所ではなく地域が必要とした居場所として機能するのではないだろうかと私は考えます。


 

他にも「居場所」を「機会」と捉えることで「居場所」が機能する例とすると、

オンラインが挙げられるように思います。


 

コロナ禍でオンラインが一気に導入されるようになり、オンラインによってつながることができ、

それが「居場所」となっているケースがあるということは多くの人が経験していることと思います。


 

コロナの前から、オンラインならつながりたい・つながれるという人たちがいることを踏まえて、

オンラインを以前から導入していて、コロナ禍で力を発揮できたという話も聞きます。


 

これは「居場所」を「物理的な場所」として捉えていたらできないことであり、

「居場所」を「機会」として捉えるひとつのかたちでもあるように思います。


 

グローバルで多様な社会に生きている私たちは、

「居場所」という概念をもう少し広く捉えて、進めていく必要があるのかもしれません。


 

それによって「居場所」を必要とする人が、少しでも「居場所」を感じられることができますように、

また、すぐそばにある多様な「居場所」をみんなが創造していくことができますようにと思います。