森友学園に関する財務省の決裁文書の改ざん問題で、

近畿財務局職員が自死されるという悲劇が起こってしまいましたね。


 

政府に関することは、ちょっと残念なことが多すぎるので

Twitterではよくつぶやいてますが)

ブログではあまり書かないようにしようかと思っていましたが、

この件はさすがに頭にきたので、書こうと思います。


 

また、私の場合はこれまで、

震災などに関連して、大切な人を亡くされた方々とお会いしてきて、

死について勉強してきましたので、

自死という部分を丁寧に見つめさせてもらいながら、

書かせていただこうと思います。


 

職員の自死(手記)が報道された翌日だったでしょうか。


 

麻生大臣が記者会見で

「遺書はまだ読んでいないからわかりません」と発言し、

政府は「再調査しない」という方針でおり、

23日の今日も「再調査は考えていない」と発言されました。


 

配偶者の方がこのように手記を残されていますね。

画像を毎日新聞さんの2020/3/23 17:42よりお借りします。

 

「自死 赤木さん 手記 画像」の画像検索結果


 

一部略で文字でも書くと、

「安倍首相は改ざんが始まる原因を作りました。

麻生大臣は墓参りにきてほしいと伝えたのに、

国会で私の言葉捻じ曲げました。

この2人は調査される側で、

再調査しないと発言する立場ではないと思います。」

とあります。


 

すべてに対して言及したいと思いますし、

特に、後半の「再調査しないと発言する立場ではない」というのは

本当にその通りだと心から思います。

権力関係のない第三者による再調査はされるべきです。


 

ここで、“立場”という視点に注目したいと思います。


 

まず、麻生大臣の“立場”は、自死された方に対する上司と言えます。

「自分の部下が自死してしまった」状態と言えると思います。


 

自分の部下が自死してしまったら、みなさんだったらどうしますか。


 

私であれば、ご遺族に殴られることを覚悟で、

許されることはないと自覚しながら、謝罪しに行きます。

 

そして、事実を明らかにすることを誓い、実行し、

ご遺族の意向になるべく沿うように行動し、

今後、同様のことが起こらないように全力を尽くすだろうと思います。

 

みなさんもそのようなところではないでしょうか。


 

それが亡くなった方へのせめてもの償いであり、

ご遺族やその方の親しい方々へできる、

謝罪のひとつのかたちだと私は思うのです。


 

そのように想像すると、

「遺書を読んでいない」とか、

「再調査を考えていない」とか、

そういう発言は上司としてあり得ないわけで、

立場”も、その悲劇の重大さも自覚していないことになります。

 

政府の役人が、自分の”立場”を自覚していないということは大問題だと思います。


 

続いて、ご遺族の方の“立場”ですが、

自死の要因となった(と思われる)方々のことを憎み、恨み、怒り…と、

負のエネルギーで支配されていてもおかしくないですよね。。


 

関係者の「顔も見たくない」かもしれませんし、

「許せない」かもしれませんし、一歩間違えれば復讐だってあり得ます。

そのくらい深い傷つきが想像できます。


 

そう想像したとき、

本来は、上司はお墓参りに「行かせてもらう」立場であり、

ご遺族に謝罪をしに「行かせてほしい」と

もはや懇願する、願い出る立場であるのではないでしょうか。


 

こういう発想が微塵も感じられない対応に対して、私はひどく怒りを覚えます。


 

ご遺族の“立場”について、もう少し深めていきます。


 

よく調べると、改ざん問題により自死をされた方は「心を病んでいた」とありました。

「55歳の誕生日の3週間前に亡くなられた」ともありました。


 

よく想像してみてください。


 

大切な人が心を病んだとしたら、みなさんはどう思いますか。

どうされますか。


 

きっと、「なんとか治したい、治ってほしい」と思いますよね。

そのための行動もとりますよね。


 

病院に必死に連れていくかもしれない。

いい病院を探したり、周りに相談したり、

本やネットで勉強したりするでしょう。


 

今どうしてるかな。

どう言葉をかけたらいいかな。

何が好きだったかな、何を食べたら気が楽になるかな、

誕生日にはあそこのケーキを買ってあげよう、そうすれば…

そういうことを必死に考えるのではないかと思います。


 

そう想像すると、自死はただの死別ではなく、

「こんなにやったのに、防げなかった」とか、

「助けてあげられなかった」などと感じる死別だと言えます。


 

なんで気づいてあげられなかったのだろう…。

あの日、私が朝こうしていたら自死しなかったのかな…。

昨日あんなこと言ったから自死してしまったのかな…。


 

そういう自責の念や答えのわからない問いが、

ぐるぐると頭の中を回るかもしれません。


 

さらに、自死はどこか「恥ずかしいこと」とか、

「弱い人間がすること」とか、

そういう誤った社会通念的なものが付いて回ります。


 

周りから「なんで一緒にいて助けられなかったのかね」というような

冷たい視線を浴びせられるというようなことを経験される場合もあります。


 

そういうこともあって、自死遺族の中には

「自死と言えない」という人も多くおられます。

私も実際にお会いしてきました。


 

それらは社会が生み出す『二次被害』と呼ばれるものです。

 

人は社会的な生き物なので、

自死の場合には、それに至るうえで他者や社会の存在が必ずあり、

それら他者や社会の誠実な姿勢、

ご遺族の思いや声に寄り添う姿勢が『二次被害』を軽減させるために必要です。


 

今回の政府の対応は、どう考えてもそれに当たらず、

むしろ、二次被害を深めているとしか思えません…。。


 

自死を公表することだけでも、勇気のいることだったと思います。

 

公表することは大切な人の死を認める行為であり、

自死に対する偏見に向き合う決意の現れです。

 

まして、問う相手が政府なのだから、

そのご決断・エネルギーは相当なものだと思います。


 

それをあしらうかのような発言や姿勢には憤りしかありません。


 

ご遺族は、その後の生活を送る中で、

自身の深い喪失感を抱えて過ごすだけでなく、

たとえば、もしお子さんがいたとしたら、

いつ、どのように説明したらいいかと悩むかもしれません。

 

もしいわゆるお嫁さん的な立場であれば、

姑(亡くなられた方のご家族)にどのように報告し、

接していったらよいか、

苗字をどうしたらいいか、

仕事や住まいをどうしたらいいか(気を使われていづらいとかもある)…

 

そういうこととずっと付き合って生きていくことになるのです。


 

そういうことも想像したうえで、

自死をされた方に関わる立場の人たちが誠実な態度を示すということは最低限のことです。

 

この件についてはこれからも注視し、ご遺族の方を応援していきたいと、そう思います。