バベル |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー


『バベルの街に暮らす』



私は“東京のバベル”の裾野で
ひっそりと暮らしてる。
おそらく、語らずとも察していただけるであろう、
それは都庁なんだけれども、
“東京の”ではなく、あるいは
“日本のバベル”と言ってもいいのかもしれない。

思うに、都庁という巨大な建物を目にしたとき、
これぞ土地に見合った美しきものだと、
いったいどれほどの人が讃えるだろう、きっと、
「バブル期の狂気の跡」
こんなふうに批判する人が多いだろう。
なかには「造形美」だとか、
「安らぎ」なんぞを認める人もいるかもしれない、
が、願わくば、少数であってほしい。
なぜなら私とって都庁は戒め。バベルだから。

バベル。
古代から伝えられているバベルの塔のこと。
昔々、天にも届く塔を建てようとした愚かな人類に、
神は怒りを覚え、思い上がりも甚だしいと
ひとつだった世界をバラバラに砕かれた。
以来、人類は別々の言語を話すようになり、
再び分かち合えなくなったという。

最古ではバビロンとも云われたバベルの塔。
それは人間の最も愚かな「思い上がり」を意味する。
私は そんな「日本の思い上がり」の象徴である都庁を
毎日毎日、仰ぎ見て暮らしている。
しかも、「都庁が都庁らしく」、
その要塞ぶりをクッキリと映す絶好ポイントに居るわけで。

というのも、わが家は坂の下に位置するため、外出時には
都庁を真正面に見上げる急斜面を通らねばならない。
雨の日も風の日も、
歩きの時も、自転車の時も、汗が流れる夏の日も
都庁はいつだって大いばりで私の視界に現れる。
「都庁め! 今日も偉そうにっ!」
 ほんまに胸くそ悪いったらありゃしない。
「そんな悪環境のところ、
 とっとと引っ越せばいいじゃん!」
友人たちは呆れるが、
なんせ、こちとら負けず嫌いの性分、
「都庁め! 今にみておれ!
 あんたなんかに負けへんもんねーっ!」
なんて闘志がわいてきたりして、
都庁もまんざら負の遺産というだけではないようだ。

逆に「圧力に負けそう…」なんて
弱腰の日もある。
そんなときは周辺の緑が元気をくれる。

都庁の周辺は都心のわりに緑が豊かで、
とりわけ毎年5月から夏にかけて、
都庁を覆い尽くすかのごとく木々がぐんぐん生長する。
木々は人工的に植えられたものばかりだが、
自然のエネルギーとは実に
人間の策略を呑み込むほどに強く、たくましい。
冬という眠りの季節を通り過ごしたうえで、
上へ上へと伸びゆくパワー、
私自身もそうありたいと願うのだ。

また、冬の日の都庁展望台からは
王のごとき富士が眺められる。
それは良く晴れて空気が透き通った午前のこと、
ガラス越しに栄える堂々とした富士の姿。思わず手を合わせる。
眼下には、東京の四角い街並が延々と広がり、
一角には私の家も確認できる。不思議、不思議。
「私のいない日常」がそこにある。
平和。
天空の城にも似た都庁の頂から見下ろす風景は
とんでもなく ゆったりと穏やかで平和だ。
神の目線とはこうなのだろうか、
全てを受け入れ、罪すら許せる気持ちになる。
が、神をも追い越そうとする輩を目にしたなら、
やはり怒りの鉄拳をくらわせたくなるのかな?
そう、眼下の風景の1コマ1コマを切り取れば
人の数だけ、いや、生き物の数だけ、命のだけドラマがある。
笑うもの、喜ぶもの、怒るもの、悲しむもの、無心のもの…。

そうして、ときおり、都庁を見上げて暮らす私の脳裏に、
負の記憶が頭をかする。
「9.11」という過去。
よく晴れた朝の風景。映し出された衝撃。
よりどころにしていた大切なものが
ボロボロになって崩れてしまったあの日。
いいえ、思い上がりを砕かれたともいえる一瞬。
「過去」と書いたものの、本当にそうだろうか。
時間的には過去にあたるが、
まだ あの衝撃は「現在のまま」かもしれない。
現に私は「バベルのある街」に暮らし、
人類の希望とも、思い上がりとも取れるモノを
毎日毎日 見て、見る度に心が振れる。
あの都庁。 実はもう、目に見えないだけで、
崩れてるのかもしれない、なんて思う日もあれば、
いつか、この建物が
希望の集会所になるかもしれないと思う日もある。

神の怒りによって砕けたというバベルの塔。
もしかすると人は皆、胸のうちに
昔々に砕けたバベルの塔の破片を持って
生まれてくるのかもしれない。いや、きっとそうだ。
人間ならば思い上がる時期は誰にでもあろうし、
そうあるべき時期もあろう、それは
バベルの破片がそうさせるのだ。

ならば、人は皆、同じ罪を持って生きる。

粉々に砕け散った 何億もの破片を
再び組み立てるなんて仕業をやったら気が狂う。
世界中の人が真に手をつなぐことも途方もない。
「ひとり」と「ひとり」だって なかなか分かち合えない、
分かち合ったと思ったとたんに、崩れてしまう、けれど、
その繰り返しの果てに、信頼が生まれる。
きっと、同じバベルの破片を持つ人間同士、
許し合うことぐらいはできるだろう。
罪を認め、許しを乞う、この心を信じたい。

バベルの破片を持つ人間は愚かだ。
破片を組み立て積み上げるのではなく、
まず隣人に手を差し伸べよと、
私自身のバベルの破片にも言聞かせたい。
先に手を差し伸べ、頭を垂れた方が正義だと。




★★★★★★☆ 7点満点6点
砂の嵐に~隠されたぁ~♪ バビルの塔に住んでいるぅ~♪
超能力少年♪ バビル2世~~♪
この主題歌のヒーローアニメ『バビル2世』は
「バベルの塔」とは何ら関係あるのかしらん?
とか、思いながら『バベル』を観てしまった昭和な私…。
でも映画『バベル』にはヒーローは現れない。
が、確かな希望を観てとれる。

『バベル』、いいタイトルだな。
このタイトルだけでビール何杯も呑めそう♪

たぶん、監督ご自身も
どこへ辿り着くのか分からないまま
この映画を制作されたんじゃないだろか。
「あ、最終的には希望なんだ!」、
これが映画の終着駅だった。
脚本という骨格はあったにせよ、
ヒラメキという泉の中で紡がれた一本。
「織物」という感じの作品かな。

縦糸は「銃」。横糸は「人間世界」。
「人間世界」はモロッコ、メキシコ、日本、アメリカ。
背景となる国は4つ、物語も4話。
4話が別々に、時間をシンクロさせて進行するが、
実は「銃」がひとつの軸になり、繋がっている。
はっきりした結末はなく、作り手の主張も強く発信されない。
映画のキャッチに「それは一発の銃から始まった」とあるが、
私は「それは一丁の銃から始まった」の方が似合っていると思う。

この映画と同じ状況を「バベルの街」に住む私は思う。
私が何の気のなしに捨てた一冊の本があるとして、
それを世界のどこかの人が
ある拍子に手に取ったことで、とんでもない知恵を手に入れ、
その後、幸せに暮らしているかも…とか、
私が不用意に捨てた空き缶を
どこかの誰かが拾って、凶器に変えるかも…とか。
あるいは、悪気なく発した私の言葉に傷付く人もいるだろうし、
不意に出た言葉に喜びを見いだしてくれる人もいるだろう。
言葉も物質も、表裏一体。
喜びをふるまえたのなら、こちらも嬉しさ倍増、でも、
苦痛を与えてしまったのなら、反省して詫びたい。が
その多くの場合、
故意に相手を傷つけてやろうとしたのではない、だから、
「与えた側」は自己の責任の重さに戸惑うのだ。しかし、
謝る以外の最良の手立てを私は知らない。知っているのは
「相手のことを良く知らない」から
「予想外の展開」が起こるということで、
「問題後」に少しでも「相手」に親身になれたらいい。

映画の中でモロッコの少年が
好奇とジレンマから観光バスを撃ってしまう。
これは私が幼い頃に金魚のお腹はどうなってるんだろうと、
ちょこんと切ってしまったのと同じで、幼児の無知。
「その結果、命を奪ってしまう」ことが分からない。
ただこれは、子どもだからというだけではすまされない、
原爆を日本へ投下した人間に
「試してみたい」という好奇心がなかったと言い切れるだろうか。
文明が進んだ現在の、最新兵器の出来具合いを
実戦で試してみたい、こんなジレンマだってあるんじゃないか。
「試したら、大勢の人が死ぬ」
このことが抜け落ちていたとも考えられるんじゃないか。

映画の中で描かれる「東京」がオモシロイ。
母の死をきっかけにストレスを抱えてしまった少女が
聾唖だという設定も理解できる。
ひとりの心を閉ざした少女というだけでなく、
国際舞台で「口を開けない日本」を含めているような?
で、この「東京」は『バベル』の他の物語とは
直接的には関わらず単独に進行し、
一種の違和感をもって映画の中に存在する。
けれど、「バベルの争い」のきっかけを作ったのは、
実は「東京だった」という着眼は
現実の日本を皮肉ってる。
そんな現実があることを日本人の多くは見ようとしない。
これも無知ゆえの罪。

皮肉るという意味では
アメリカ人への皮肉も痛烈。たとえば、
モロッコでダイエットコーラを注文するくだりなど、
「文明の今」を、そのまんま持ち込もうとするのと重なる。

オスカーノミネートで話題になった菊池凛子さんは
とうてい高校生には見えないし、
好きなタイプの女優さんではないけれど、
演技に対する渾身ぶりには共感するし応援したい。
映画の後半には「こんなフケた高校生もいるかも」と思えたし、
実際、あれだけ内向的な高校生だと、フケるのも早いかも。

菊池さんだけでなく、
役所広司さんもブラピもケイトも、ガエル君も、
メキシコ人の女優さんも、モロッコの素人さんたちもいい、
監督の指針に共感している姿勢に感動を覚える。
「言葉」が通じないから通じ合えないのではなく、
「気付かないこと」や「目を背けること」が哀しいのだ…。
中でもちょい役に過ぎないガエル君のエネルギーに
監督への信頼感が感じられた。すごいな、この人。
それと、モロッコのマジナイ師みたいなお婆さんの表情!
「お婆好き」の私にはたまらない。こういう人を描いてみたい。

「目を背けない」についてはエロスもそう。
シモの毛をちらつかせせる日本の少女も、
思春期まっただ中のモロッコの少年少女も、
メキシコのおじさんとおばさんの濃厚キッスも、
押さえられない性を置いていく。
どんなにすました人間だって「スケベ心」はあるんだ、
みんな平等やん。ただ、それを道具にすると哀しさを伴う。

映画で使われる音楽が素晴らしい。だけど、
音楽に頼り過ぎではないかという想いもある。
一番肝心なところを音楽で ぼかしているような…?
たとえば、混沌の後に別の入り口がやってくる。
「東京」のクラブでトランス状態になる女子高生、
あるきっかけから、ハッと我に返る。
その時、彼女はようやく自分の中に「罪」を覚え、
未来へ向かって行動を始める。重要な場面なのに、
「瞑想風の音楽」と「手ぶれ映像」という
「言葉以外の表現」にとどまる。
ストーリーを期待すると、
なんのこっちゃわからん、となってしまうかも。
ただ、私は「好きな音」に異常なほど反応するので、
監督の仕掛けた罠に まんまとハマり込み、感動、号泣。
私って…メロディより楽器が持つ「波動」に共鳴するんだ!
宗教的であればあるほど、鳥肌がたつ。

映画が終わった後、私の前と後のお客さんたちが
「こんな日本の描き方はひどい!」と言って激怒してた。
その気持ちは分からないでもないが、ちょっと哀しい。
なぜなら『バベル』という映画は
「日本とはこんな国」をテーマにしているわけではないし、
当然、モロッコとは、アメリカとは、メキシコとは、でもない。
本当の舞台は「世界のどこか」だろうし、
「人のつながりと平等」をテーマとして私は受け取った。
というか、テーマ以前に私は、
今の日本がそんなに好きではないから、
客観的な日本をスンナリと受け入れられるのかもね。
日本の風土や文化や、日本に住む友人や家族は大好きだ、
でも「日本国」という一国の有り様と展望は、ちょっと…。
なので、『バベル』で描かれる「東京」は
「東京風のもの」として映ったし、
「こんな視点もおもしろい」とも思ってる。
さらには「当たってる」とも思ってる。

そもそもバベルの塔って、古くから伝わる寓話だし、
この映画『バベル』を私が寓話として受け取るのは、
ラストが寓話でお決まりの
「ふたりは結ばれました、めでたしめでたし」
というシーンで終わっているせいだ。
とはいえ、4つの物語の結末は描かれていない。
あの後、あの人たちはどうなったのか、
あくまで観る側の想像に委ねられている。
それはきっと、映画『バベル』が
答えは貴方の中にある、考えてみては? と言っているから。

この映画に希望を得るか、怒りを感じるか。

私は希望を受け取った。
映画を観て怒るというのは、
目を背けてる事実があるからでは?
的を得すぎているからでは? 知らないだけでは?
「あんな日本人はいない」と言い切るなんて、私にはできない。
なぜなら、私だって愚かな人間、
「バベルの破片」を抱えて生きている身。
思い上がったり慢心したり、自分の殻に閉じこもったり、
傷つけたり、傷つけられたり、
謝ったり反省したりした、これまで何度も何度も。
そうして今の私があり、未来の私にワクワクできる。

映画の中の登場人物全員が、
混沌と絶望の中から希望を見出した『バベル』。
曖昧な結末が暗示するもの、それは
人間が今やるべきことは、
「塔を築くように上へ上へ」ではなく、
「根を張るように横へ横へ」ということ。
上へ伸びるのは成長期の生命体に まかせておこう。


~2007.5.2 新宿トーアにて鑑賞~



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※“映画付箋”の当ブログなのに、
付箋としては いささか長い感想になってしまった。
これからタロットカードの『塔』を描く予定なので、
たくさんの考えが錯綜した。想いの整理という意味でよかった。