ククーシュカ その2 |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー

天使?
strange

~昨日のつづき~


『ククーシュカ』に登場する三人は、
それぞれがバラバラの言語を話しているため、
互いに何を言っているか、てんで分からないが、
なおも分からないまま会話は続行される。
話している方も聞いている方も、
意志が正確に通じてないことは分かっていて、
それでも、彼らは声をかけることを止めない。
よく似たことを、海外で経験したことがある。

フランスで、トルコで、インドネシアで、台湾で、
地元の言語しか話さない人と出会ったときどうするか、
呆れたことに私は日本語と、あと、
たどたどしい和製英語を話すだけ。
二者のコミュニケーションは
身ぶり手ぶりと、互いが発する“熱意”を頼りに、
想像力をフルに発揮して行われることになる。
互いの意志が通い合っている、
そんな手ごたえを感じられるときもあるし、
残念ながら そうでない場合もある。
嬉しいことに、なんとなく、ではあるけれど、
ことば以外のところで
コミュニケーションがとれたときは、やはり
ああ、ことばじゃなくて、人間はハートだ、心だ!
なんて、パ~ッと世界がバラ色に見えてくる。
けど、反対に言語の壁を感じてしまうときなどは、
ああ、だめだ⋯言ってることがわからないと、
何も始まらない、と、あっさりダークサイドへ。
しかたなく、私などは頃合を見計らって、
その場をフェードアウトしようとする。
けれど、現地の人は違って、
通じてないことが分かりきっているのに、
ペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラと、
顔色ひとつ変えずに話し続ける人が多い。
いったい、わが道を行きすぎているのか、
それとも粘り強い人なのか、よくわからない、が、
「あきらめずに主張する」という気構えは、
もともと日本人には乏しいのではないか。

ことばが通じないことを恥だと感じたり、
自分の考えを口に出して言い続けることは
行儀の悪いことだと捉えてしまう。
私とて、そういった古典的な考えが
頭の中で まだ根付いていることを否めない。
どこか、ひ弱で、他人まかせ、
うん、あるな、あるある。そうだそうだ、
いさぎよい のと 諦めが早いでは、ちょっと違う。
想いや思想のやりとりは焦らず、
時間の制限をつけず、じっくり粘り腰がいい。
それは国家も同じではないだろうか。

『ククーシュカ』を観たのは水曜日、今日は金曜日。
観てから ちょっと時間が経っているのに、
「思慮深いものを観た」という
あたたかな余韻が まだ残っていて、ときどき、
いくつかの場面を思いだしては笑ってみたり、
絵にしてみたくなったり。観終わった直後より、
時間が経った 今の方が深みが味わえる。
いや~いい映画だった、『ククーシュカ』。
イメージの底がない なんてすごい、
ひとつ思えば、ふたつ みっつと、想いは広がる。
後から後から想いが沸くという、泉のような映画だ。

きっと、今後の私は なにかしら影響されるだろう、
絵的にも、簡略の案配も、抑揚の調子も。



★★★★★☆☆ 7点満点で6点
今日になって星ひとつ、アップ⋯
⋯んな、いいかげんな⋯あきれるけど、
離れて初めて本意が分かる、そういうことやねん。

邦題のサブについてる『~ラップランドの妖精』は不用。
スパッと『ククーシュカ』でいっときましょ。
この秀作に余計な装飾は見苦しい。
『アメリ』のヒットを期待しているような二番煎じ、
いやらしい誇張は もう止めよう。




●ククーシュカ ラップランドの妖精