雑記・売春窟に生まれついて - 5 |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー

羽音


自由、この不確かで尊きもの。

~昨日のつづき~



ドキュメント映画『売春窟に生まれついて』に出てくる、
スラム街の子どもたちが撮った写真を見たとき、
南半球を旅して歩いている友人のことを思い出した。

さる有名企業を退社し、
自由気ままな南の旅人となる“ゆめ”を追った友人。
彼が旅先でカメラにおさめ、時おり見せてくれた写真と、
カルカッタで しなやかに生きる子どもたちの写真は似てる。
理想家で、まがったことが大嫌いの友人は、
純粋ゆえに融通がきかず、どこまでも少年のまま、
そんな彼と あたしは幾度か衝突したことも、
時として泣かされたこともあったけれど、
強く逞しく、地球という星をさまよい、
あるがままを受け入れようとしている姿は、
スラム街に生まれつきながらも、物事をまっすぐに見据え、
自分の人生をを信じようとしている子どもたちの瞳と重なる。

考えてみれば、衝突しながらも
ずっと友人として続いてきた あたしと友人は似た者同士、
誰がなんといおうと信念を曲げず、
駆け引きが苦手なところがソックリだ。
ヤツは今頃、どのへんを歩いてるかなぁ‥‥と、
友人のサイトを見てみたら、
どうやらポリネシアの最果て、イースター島にいるようだ。
いいなぁ、モアイに囲まれてる。
久々に、友人にメールでも書いてみようか。

そういえば、友人が本格的に旅に目覚めたのは、
『ナビィの恋』を観た後に旅した沖縄、そして、
『ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ』の舞台となった
キューバの旅以降だった、と、あたしは記憶している。
そう、映画という表現媒体は、素敵に人の五感に作用し、
多大な影響を与えることがあるのだと、今あらためて思う。
当然、その結果が良い方に出る場合も、
悪い場合もあるのは世の中の常、だ。

ではでは、『売春窟に生まれついて』はどうだろう。
ひょっとしたら‥‥
あたしは あまりに惨い現実を前に尻込みしてしまい、
ただ己が、いかに“甘ちゃん”なのかを
思い知れされるだけかもしれないし、
あるいは現在進行形の生々しさに打ちのめされるのか‥‥
それは分からない、観ないことには分からない
分からないけれど、この一編のドキュメントが、
どのような意図で制作され、
観客に何を訴え、何を求めているのか といった、
作り手である“白人先生”のコンセプトは想像できる。
少なくとも、ヒット狙いではない。
娯楽映画を作って一発当ててやろう、
そのような営利目的ではないはずだ。

もう ひとつ言えること、
それは この映画がドキュメントという括りであることが、
あたしには救いだということ。
というのは、あたしは現在進行形の“事実”をベースにした、
娯楽作品の方が苦手で、観ているのがつらい、
きっと、鉛みたいな行き場のない想いを抱えてしまうから。
たとえば、昨年だったかに観た、
『シティ・オブ・ゴッド』という批評家たちが こぞって
絶賛した映画については、とにかく たまらなく苦手だった。
もちろん、この映画も一発当てようという
売名行為で作られたものではないと想像するし、
確かに作品としてのアート性も 出来栄えも
文句なく素晴らしい。

けれど、現実に起きている“子ども同士の殺し合い”を
あそこまで音楽や映像や子どもを使って
フィルムに刻み込むような表現には背筋が寒くなった。
今でも、あの映画の中で、
演技ではない泣き顔を露にしていた子どもの声が、
何気なくよぎることがあり、
あたしは その時、誰とはなしに問いかける、
「あの映画は何のために作られたのだ、
 観る側に 何が伝えたかったのだろう」

そうして、殺戮の殺し合いが続く未知なる街に対して、
あたしが寄せた想いは‥‥冷たいようだが
「第三者が 口を挟むべき事態ではない。
 放っておくしかない」。
これも、ひとつの現実。

『ホテル・ルワンダ』と
『売春窟に生まれついて』という2本の作品が
商業目線のもと、日本非公開の印が押され、
あたしらは「知る権利」を閉ざされてしまった。
この事実は、今回に限ったことではなく、
これまで何度も繰り返されてきたことだろうが、
映画に話題性がないとか、流行からズレるとか、
デートムービーではないとか、
まったく いちいち商売の利にかなった理由ではあるが、
ここはドン!と 公開した方が間違いなくカッコイイのだ。
金に左右されず、ヒーロー的映画興行をやってのける、
太っ腹なヤツはニッポンには おらんのか!

しかも、『売春窟に生まれついて』については、
確実に入場料の一部が、子どもたちのために使われると、
ポジティブな方向が提示されてるのだからして。

今日も長くなったけれど最後まで書くと、
先述の あたしの友人のように、
誰しもが世界中を歩いて回れるわけではないのだから、
映画やテレビや雑誌やネットや新聞という疑似世界から、
何かを得たり、感性を磨き、
世界の広さを知ることが重要になってくる。
だいいち あたしにはできない、平凡に つつましく
ニッポンという東洋の島国に暮らすあたしには、
イラク戦争やアフリカの各地で起こっている暴動を
今すぐストップさせる力量も、権力もない、
けれど、カルカッタの売春宿の子どもたちを
微力ながらも応援したり、思いやったり、
彼らの身にふりかかる事実を 友と語り合ったり、
映画を観て、自分の人生と照らし合わせることは可能だ。
一方、『売春窟に生まれついて』を公開し、
日本人の共感を得たところで、所詮は大海の悲劇から、
スプーンで子どもたちを救いあげるようなもの、
ある批評家は こんなコメントを寄せたそうだが、
あたしは頭ごなしに それを否定しよう。

変化は個人から始まる。
少数が伝わり、やがて多数になればいい。
時間はかかるが、
子どもたちがやがて伝える側になるだろう、
考えてみるといい、一足飛びに
「世界は仲良し」になる方が そら恐ろしい。

と、カルカッタで暮らす子どもたちの写真は
言語を超えてあたしに希望を語る。

※カルカッタの子どもたちの写真を掲載したサイト
 Kids with cameras お気に入りサイトにも追加しました


思えば、『ベルリン、僕らの革命』は、
ホントにあたしの理想をあぶり出した最高の一本だった。

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行楽中の相方へのツッコミ本日分
あたしが羅生門の前に置いてきた「あんずボー」を
拾いに行ったようだが、どうやら見つからない模様。
コマ犬印の“お包み”が目印なんやが‥‥。

●子どもの演技には ちょっと うるさいでー
コマ犬の相方・でこのブログ