山猫(イタリア語・完全復元版) |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー

ずいぶん前に描いたタヒチの女性の胸元。
なんだか『山猫』のアンジェリカに似てる。
百花の女王のような彼女も数年後には
間違いなくドラム缶体形になるであろう、
イタリア女ってバキュームカーみたいに食うもん。


3時間の動く名画、
どこを切り取ってもルネッサンス芸術という豪華さ。
人物の配置や衣装の選び方、
色味が重ならないよう配慮した画面構成などなど、
これらの美意識は教わって獲得できる感覚ではなく、
名門に生まれ育った貴族の血がさせるもの。
前半では鉄砲戦の場面、後半では圧巻の舞踏会の場面、
よくぞ名画を復元してくださったと感謝。
ただ‥‥。

ヴィスコンティ監督も、キム・ギドク監督と同様に、
映画を観ているとき「絵心のある人だ」と感じた。
といっても、ヴィスコンティのそれは
あくまでも「貴族のたしなみ」という風で、
絵心に精魂かたむけ、切磋琢磨した結果ではない。‥‥と、
これはまったくの想像だけど。
ようするに庶民には到底かなわない
センスの固まりのような高貴な作風。
ただ、それが‥‥。

‥‥と言葉を濁してしまうのには、わけがある。
それは、キム監督の『春夏秋冬~』を
この『山猫』を観た後に観て、しっかりと確認したのだ、
『山猫』は 今のあたしには かなり退屈な作品だと。
3時間は、正直いってキツかった。せめて2時間にしてくれ。
途中の1時間は眠ってしまおうかと思ったぐらいだったが、
それでもスクリーンを正視していたのは、
やはり美しかった、それほど圧倒的な美の饗宴。
つまり、キム監督の映像美と、
ヴィスコンティ監督の映像美、
どちらも美を表現するという意味では同質のものだが、
ふたつは仏教のそれと、キリスト教のそれ、距離感がある。
ヴィスコンティ監督の美は、これでもかというほどの、
足し算がベースの華美な油絵世界、一方キム監督の美も、
同様に油絵であって、しかも厚塗りなのに、
「あってもなくても、どちらでもいいものは無くす」という引き算、
カラー作品なのに墨絵世界だった。

おそらく今のあたしが、西洋の美しさではなく、
東洋のもの、ひいては和の境地に立ち入っているため、
目がくらむような絢爛さには疲れてしまうのだ。
なかでもクライマックスの舞踏会の場面でのこと、
主人公のサリ-ナ公爵と
アラン・ドロンが演じるタンクレディーが、
あまりの人の多さにフロアが蒸せ返し、
額に汗を滲ませていたところでは、観ている あたしも息苦しく、
疲れたのか脂汗をかいていた。映画に同調してしまうなんて‥‥、
舞踏会に紛れ込んだような錯角、この映画が本物である証拠だ。
それだけではない、サリーナ公爵が舞踏会の途中で、
ひっそりと ひとりで涙を流す場面では、
驚いたことに、あたしの目尻から ほぼ同時に、
涙が一筋頬を つたった。こわっ、こんなにもシンクロするなんて。
きっと没落していく貴族の落日を ただ見守るしかなく、
悲哀にくれたサリーナ公爵の心境と、
あたしが背を向けた濃い表現から得る感覚は一致するのだ、
ラストシーンで よろめいた公爵の弱々しい姿が、
この映画を観たあたしの実感であり結果だ。
『春夏秋冬~』という最も共感できる同志を得て、
さらに強くそう思う。

そういえば、あたしが十八歳頃のことだった、
『山猫』をTV放送していたことがあって、
当時付き合っていた彼氏とふたりでコタツで観た。
が、彼氏の方が始まって しばらくして大アクビ。
気が付いたらイビキをかいて寝てやがった。
アホな男と付き合ったもんだと、
彼氏の間抜けな寝顔を見て泣きそうになったが、その直後に、
あたしも退屈のあまり眠ってしまった。
似たもの同士だったのだ…。

数年を経て、あたしは
やっぱりアホなままには変わりはないが、
アホなりに変化はあったようだと、
大きなスクリーンで『山猫』を観て感心してしまった。
というより映画がすごいというべき、
苦手な映画ではあるが、観てよかった!
★★★★★☆☆ 7点満点で5点
アランドロンよりもサリーナ公爵を演じた
バート・ランカスターの方が 断然カッコイイ。
耽美な映像美が苦手な方には絶対にお薦めしません。

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でこよ、『カンフーハッスル』を観ようかどうしようかと
迷ってるうちに『~~ランデブー』が気になってきた~!
たぶん、この調子で迷い続け、
初映画は『オーシャンズ12』になりそうや。
明日は否定的な感想が多かった『A.I.』をTVで観るぞー。

●相方・でこのブログ