下手の横好き | 丑三つ時の月下美人

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あてもなく呟いていきます。

音楽は僕にとって、大二外国語のような感覚に近い。

小さい頃から歌うことは好きではあったが所謂『音楽』を純粋に嗜んだことなどなく、家にあるピアノで猫ふんじゃったを猛スピードで弾けてからは興味などこれっぽっちも持っていなかった。無意識に刷り込まれた、『自分とは関係のない世界の娯楽』としての認識は中学・高校の中盤になっても全く普遍的な法則で、大学に入った途端にのめりこむだなんて夢にも思っていなかった。

 

中途半端な受験勉強の憂さ晴らしに、中途半端な受験勉強で培った勉強の仕方で音楽へと取り組んだところから物語は始まり、今までの「音楽=育つことのない先天的才能」の図式がガラガラと崩れていくことに引っくり返るような感動を覚える。勉強ってこういうものか、学び考えるとはこのことか、とズンズンのめり込んでいた。

 

ある程度走ったところで強く感じた『壁』は、効率や妥当性の先にある「遊び」や「冗長性」、「感情」などのおおよそ僕がそれまで否定してきた音楽の要素だった。当たり前だ。音楽とはどこまでも『やらなくてもいいもの』であって、そこに冗長性や非生産性や理論的な矛盾が生まれるのは至極当然のこと。しかしひたすら前を(あるいは上を)向いて野心的に評価をほしがった自分には、ソレは致命的なまでに欠如していた。

 

それから少しばかり音楽を離れて現実世界と向き合うようになる。しかし、音楽という『形のないあいまいな世界』に没頭することで溜まった現実世界でのツケは想像以上に大きく、甚大で、深刻で、ハンデを背負うことを余儀なくされた。社会的に致命的なハンデにはならずとも、僕の心は今までの人生で数えられるほど大きく揺れた。

 

そして今、二つの世界の両立をしようとフラフラ行ったり来たりを繰り返している。無才を自認するほど何もできないとは思っちゃいないが天才なんて言葉が似合わないことは百も承知。誰かの真似をすればそこそこにこなせる気ではいるが所詮そこそこの領域を出ないのも痛いほど実感している。それでも音楽をやめようと思えないのはきっと、まだ知らないことや消化不良の気持ちが背中の後ろで山のようにつみあがっているように感じるからだろうか。それらを全部解決してから「あぁ、俺の実力はここまでか」と諦めれば良いかな、なんて思っているからなのだろうか。