なぜ本を読みたいのか?
最近、本を読みたいという欲望が今までよりも殊更強くなってきている。
なんでだろう?と考えながら書いてみる。
自分が小学生・中学生・高校生だった時にこんな欲望があったのか?と考えた。
なかった。
中学生の時は多分1年に一冊くらいしか読んでなかった。
高校になってから読書の楽しみをちょっと理解できたけど、環境の閉塞性と自分の偏狭性のせいで理解を深めようという思考に至らなかった。 「環境の閉塞性」は、もちろん受験勉強によるものを意味している。 同じ環境でも閉塞感から脱出できる素晴らしい人もたくさんいると思うけど、僕はそうできていなかったと今感じる。
受験が終わって3月から、よくわからない義務感に苛まれ読書を本格的に始める事になった。
自分は根気がいい人間ではないと分かっていたので、モチベーションを維持するための何かが必要だった。 そんな時に、父が読書録をつけているという事を思い出した。
父の読書録は、本の読み始め・終わりの日付と書名、著者が書いてあるだけの簡素なものだった。 ノートはたった一冊で、しかも1970年からずっと使われている。読んだ本の数は確か1500冊くらいだったような気がする。
記憶はあやふやだ。
僕は父の読書録の素朴な重みに感動して、自分も読書録をつけることにした。
使い始めるまえに、読書録のタイトルをつけなければいけないと思った。 父の読書録にはタイトルが付いていたから。(「思考形成の過程」みたいな名前だったと記憶)
僕も、父のみたいにカッコよさげな名前をつけたかった。
そして、雰囲気で「視点の拡張」という名前にした。
最初はとりあえずこのノートを埋めたくてたまらなかった。 だから簡単な本をなりふり構わず読んだ。
いま読書録を読み返すと、血迷った様が見て取れる。
血迷い続けながら、たまに正気を取り戻しながら、とりあえずはこの一年で100冊以上の本を読んできた。
ここで、気がついたことがある。
100冊読んできた本のなかには、それ自体としては価値のない本がいくつかあった。(あえて断定する) しかしそんな本も、100冊という本の流れの中では間違いなく大切な役割を果たしているという事だ。
純粋に自分を感動させてくれた、「罪と罰」や「ノルウェイの森」などの作品は間違いなく自分の思想(には程遠い代物だけど)の肥やし、一部になったと思っているし、自分の中に意味を残さずに消費されていった本も、「本読み」としての自分を確立していくベースになっている。
面白い本は次なる優れた本との出会いに繋がっているし、つまらない本は次なる本の発見への布石になっている。
読書というものは、ほぼ確実に、経験と次なる経験を有機的に結びつけるものである。
だから、やめられないということなのかな。 と思った。
1日1冊本を読んで、それを今から60年間一日も欠かさず継続したとして
も、2万さつあまりしか読むことができない。
国立国会図書館の蔵書総数は3662万。
いくら読んでも読みすぎる事はないのだと思うと、焦るし、楽しくなる今日このごろ。
もっと言いたいことはいっぱいあるし、まとまりのある文章に直したい気持ちはあるが、何しろ眠たいので、校正もせずにこの辺でやめる。
まだまだ、わからない。
