好文舎日乗 -4ページ目

好文舎日乗

本と学び、そして人をこよなく愛する好文舎主人が「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつ」けた徒然日録。

今日のCスポの1面に報道されたから、もう書いてもいいと思うが、教え子のS君が来月結婚する。新婦は大学時代に知りあったN子さん。結婚式には喜んで出席させてもらうつもりであったが、彼の進路妨害をしたバカボンが来賓として出席し祝辞を述べると聞いたので、出たくなくなった。S君に電話してそのことを話した。

「すみません。親父が頼んだみたいなんです」

「U(バカボン)は高校時代に君の進路を妨害した張本人なんだよ! 1月の激励会は我慢したけれど、今度は耐えられないな。申し訳ないけど、僕は出席できない」

「待ってください。先生がいなければ、僕と彼女は出会うことはありませんでした」

「関係ないよ」

「大学4年の6月に彼女と出会いました。僕は先生のおかげで大学に入れたわけですから、先生がいなかったら、僕が彼女と出会うことはなかったんですよ。だから僕も彼女も先生には絶対出席してほしいんです」

「僕はUだけは絶対に許さない。君の大学進学だけじゃなく、君のプロ入りまで邪魔しようとしたんですからね。しかもあいつは君だけじゃなく、君の後輩たちにも進路妨害をして、夢を諦めさせているんですよ。君は僕やTさん、M大学のA先生の尽力で大学へと進学することができたし、プロ野球の世界に入ることができたけれど、他の子たちはみんなMC大学へと押し込まれたんじゃないですか。そして挙句の果てに倒産。ふざけるな、生徒たちの人生を何だと思ってるんだ! 君が幸せになるのは嬉しいけれど、僕は君だけの先生じゃありません。Uのせいで夢を諦めた子たちも僕の可愛い生徒です。その子たちのことを考えると、Uがやって来て心にもない祝辞を述べるのを聞いて、僕が平静でいられるわけがないでしょう。暴れるかもしれないぞ! それでもいいの?」

「先生、すみません。本当に親父は勝手なんです。許してください。お願いします。出席してください」

「お父さんには商売もあるからね。商売仲間のKやOがU学園と関わりを持ちたいんだろ。だからお父さんを唆したんだろう。見え透いている。だけど、Uはもう終わりだよ。名古屋の伯父さんからも早晩見放される。職員たちで彼について行く者はいないだろう。落ち目のUに取り入ったってムダだよ。S君、申し訳ない。今回だけは君の頼みは聞けない」

大人げないことは十分承知しているが、僕にはこのような生き方しかできない。S君、どうか幸せに。君が引退し、鬱陶しい奴らが君の周りから立ち去った時、ゆっくりと会おう。


「誰かが言った一言。それは時として人生を決める大きな力を持つ」と歌人の河野裕子さんは言う(「あの一言」『歌人一家 リレーエッセー お茶にしようか』[『産経新聞』115])。高校・大学時代からの友人である築添純子さんが志村ふくみさんの弟子になったのは、河野さんが、卒業を控えて進路も決まらぬ築添さんに「あなた、染めとか織物に興味ない?」「志村ふくみさんて方がいらっしゃるの。訪ねて行ったら」と勧めたことがきっかけであるという。「当時の志村さんは弟子を採らない方針だ」ったとか。それを許された築添さんは、河野さんの言うように素晴らしい人柄であったのだろうと思うが、河野さんの一言がなければ、また違った人生を歩まれていたに違いない。


そんな河野さんにも「あの一言」がある。14歳の時、書きためた童話や詩や短歌を見せた時の国語の先生の一言である。「裕子は短歌がいい」と言ってくれた先生の一言が無ければ、短歌を作り続けることはなかったと言う。「短歌の同人誌に入り、夫になる永田和宏に出会うこともなかっただろう」と。

自分にも「あの一言」があるだろうかと思い巡らしてみる。

あった。大学1年の秋、友人数名と将来について語り合っていた時、一人の男が言った一言である。

「お前は後藤の爺さんに就いて学問をしろ! お前は本を読んでいるのが一番似合う」

その時、初めて後藤重郎先生を意識した。そして図書館や古本屋で先生の御学問に触れたのである。翌年、国文購読Ⅲを履修し、先生の謦咳に接した。噂通りの博覧強記。しかし、魅せられたのは何よりもその御人柄であった。毎週最前列で受講した。机上には簗瀬一雄博士の注釈3冊を備えながら…。その後迷わず後藤先生のゼミへ入り、御指導を仰ぎながら大学院へと進んだのであった。 

学問の世界から離れて久しいけれども、今も相変わらず本だけは読み続けている。

志望理由書を書かせる前に、対話を重ねながらメモをとらせるとよい。

次に掲げるのは昨年の今頃、S医療科学大学薬学部薬学科に合格したAさんのメモである(前にも書いたけれども、彼女は当初某女性教師の添削指導を受けていたが、「あなたは空っぽよ!」と毎日罵倒され続け、見兼ねた担任の先生に僕の所へ連れてこられたのである)。

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私は将来、薬剤師として医療に携わりたい。

チーム医療が重視される中で、薬剤師の役割も重要視されている。

病院で臨床薬剤師として働くことで、医師や看護士には話せないような事も話してもらえるような身近な存在で、気軽に相談のできる薬剤師になりたい。

病院での経験を生かして、いずれは海外でも活動をしたい。

私はテレビや本などから海外で働く薬剤師の方の活躍を知り、将来自分もこんなふうに人の役に立ちたいと思った。

発展途上国では、今も薬も飲めないような環境にあり、ひどい貧困の中での生活がある。感染症などで多くの人が今も命を落としている。

しかし、そんな生活を強いてしまった背景には日本のような先進国の責任があることを知った。かわいそうだから活動をしたいのではない。今自分の、日本での豊かな生活があるのは発展途上国の人々の犠牲があるからだ。だから少しでも力になりたい。

医師や看護士にはできない薬剤師の役割を知った。

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某女性教師が何を根拠にしてAさんを〝空っぽ〟と評したのかわからない。メモのレベルであるから、当然深みはないが、志望理由へと膨らませることは十分可能である。思うにAさんとの対話不足か、某女性教師の頭が空っぽだったのであろう。その証拠にAさんはS医療科学大学のパンフレットに載っている。面接で志望理由を教授に褒められたことがきっかけになったそうである。

不勉強な教師の物差しほど怖いものはない。物差しが狂っていることに気づかずに指導された生徒こそ最大の被害者である。人生を狂わされかねないからである。

午後7時過ぎにAさんからメールが届いた。

「部屋見て来て決めました!!

合格からまだ2日しか経っていない。Aさんのお父さんの行動力に脱帽。

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今日、東京に某大の推薦入試を受けに行っているB君から電話があった。

「面接1番でした。失敗しました。学科と小論文はいいんですけど、まさかの面接が……」

「何があったの?」

「面接は3対2だったんですけど……」

「1番で緊張して、後の2人と差がついちゃったか?」

「いえ、あとの2人はウンコでしたが、僕の全部が出せなかったんです!」

「贅沢な悩みだねぇ……。しかし、ウンコってのはヒドイなあ……」

「他の2人が下手すぎるんです。何も答えられないんですから……」

「君も最初はそうだったでしょ? いいじゃないか。君が引き立って」

「いえ、僕も危ないかもしれません」

「だったら君もウンコレベルってことだ(笑)」

「エーッ!そんなあ……」

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東京は楽しそうである。こちらは終日小論文指導。ふたりのお土産は何かな(笑)

 明日から3連休。しかし、推薦入試の本番を迎える生徒たちもいる。第一志望から「滑り止め」までいろいろであるが、初めて体験する大学入試。緊張のほどはこれまでにないものであろう。「人事を尽くして天命を待つ」とか「案ずるより産むがやすしなどと言ってみても気休めにもならないに違いない。だから、昨日見事志望校合格を果たしたAさんのことを例に挙げよう。

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 Aさんは11月15日の本番を目指して夏休みから勉強を始めた。僕の指導は厳しい。とにかく勉強させる。大学・大学院と先師・後藤重郎博士に徹底的に鍛えられ、泣きながら勉強した僕であるから、高校生だからと言って容赦はしない。3ヶ月間で50冊以上の本を読ませた。本番は提出した自己推薦書を中心とした面接のみであるから、当然面接指導は厳しいものになる。対話を繰り返しながら対策ノートを2冊作らせ、それを徹底的に読み込ませた。

 本番でのAさんは「喋り過ぎました」と本人が反省するほど、言いたいことが次から次へと出て来た。考えるよりも先に口が動いたのだという。「本を読んでるだけじゃダメ!自分の頭で考えなきゃ」と言われ、不安に押しつぶされそうになって、何度も「大丈夫ですよね?」と僕に確認しに来たAさんであったが、読んで、読んで、読み抜いた50冊以上の本と2冊の面接対策ノートは立派に血肉と化していたのである。

 やって、やって、やり抜いた勉強であれば、必ず身に付いているはずだ! みんな頑張れ!

 

Aさんが無事H大学国際文化学部国際文化学科に合格した。

そこで、彼女の自己推薦書を載せることにする。

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 SA希望先[フランス]

 SA希望先について興味を抱いたきっかけとその後の学習歴(約800字)

獣医師である私の父は、野生動物と人間の軋轢の軽減や森林管理のためのNPO活動を行っている。小学生の頃から父に連れられて森に入っていた私は、いつかは父の役に立ちたいと考えて、森林や動物に関する本を少しずつ読み始めた。明治以降、日本はドイツの森林管理方法を取り入れ、現在もこれを行っているが、お手本であるはずのドイツは20年ほど前からフランス型の森林管理方法を導入していることを知った。そこで私はフランスの森林管理方法について調べようと考えたが、この時、心に引っ掛かったのが、カール・ハーゼル著『森が語るドイツの歴史』(築地館書店 1996.8)の訳者・山縣光晶氏の「(日本はドイツから)もっぱら技術やこれに立脚した諸制度を学ぶことに励むあまり、その基盤となる森と人びととのさまざまなかかわり合い、すなわち文化を知るのをなおざりにしてきたのではないか」という言葉である。私はまずフランスの文化や異文化理解について知る必要があると考えて、関連する本を少しずつ読み始めた。

わかってきたことは、人は文化によって形成され、文化は言語を通して受け継がれるものであることから両者には密接な関係があるということである。このことから、私はフランス語を学び、研究することによってフランスの文化について理解したいと考えるようになった。また、近年、フランスの若者たちが本(特に文学作品)を読まなくなっただけでなく、インターネットや携帯電話、メールの影響からか、フランス語の文章を書けなくなってきており、フラングレ(英語まじりのフランス語)も氾濫していると知った。憲法に国語の重要性を強調するフランスであるが、この点は日本と似ている。フランス文化(異文化)について考えることは自文化を見つめ直すことにも繋がる。

現代世界では、グローバル化に伴い、文化の違いが鮮明化し、文化摩擦や民族対立など様々な問題が起こっている。貴学部の柔軟なカリキュラムを活かしてこれについても理解を深めていきたい。

 SA希望先の言語・文化について、入学後、何を、どのように学びたいか(約600字)
入学後はフランス語の修得に努めることはもちろんであるが、言語ができれ

ば異文化が理解できるというものでもない。私はフランスに憧れて、決して多いとは言えないけれど、フランスに関する本を読んだが、それらは私の中で点、つまり部分としては存在し得ても、なかなか、線、つまり全体としての形を成してはくれない。私はこのことから、異文化を正しく理解するための視点というか、方法を身につける必要性を痛感したのである。まずは『国際文化情報学入門』で、言語と社会や文化との関係、現代世界の文化的諸問題を国際関係的な視野の中で考える態度と方法とを学びたい。

 言語と文化の関係を理解したうえで、フランス文化がその言語にどのような影響を与えているか、またフランス語がその文化にそのような影響を与えているのかを探りたい。加えて、異文化理解にはジェスチャー、顔の表情、服装・髪型、沈黙などといった非言語コミュニケーションも重要な意味を持つ。その意味合いは文化によって異なる(例えば、マクドナルドの「笑顔のサービズ」という接客手法が香港では顧客に不真面目な印象や不快感を与えてしまうといったふうに)し、一文化内にも経済階層、性、教育、職業、宗教などによっても非言語コミュニケーションは異なるという。こういった点も視野に入れて学習したいと考える。

 文化は常に異文化と接触して変化し、純粋な文化は存在しないという。フランス文化の混成の様相を探ることで、その固有性を明らかにしたい。

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Aさん、おめでとう。よく頑張りました。あなたの頑張りに心から敬意を表します。

○志望理由

私が貴学薬学部を志望した理由は、将来病院薬剤師としてチーム医療に携わりたいと考えているからである。貴学薬学部は早くから「薬剤師が医療に携わる重要性」を認め、優れた臨床薬剤師の養成に力を注いできた。臨床実習を重視し、患者や医療スタッフとのコミュニケーションについて基本的な理論や方法を学ぶ科目を設けるなど、その実践的なカリキュラムには大いに魅力を感じ、期待を寄せている。

入学を許されたならば、講義や演習、図書館の活用によって広い薬学知識や高度で正確な技能の習得に努めることはもちろん、患者や医療スタッフとの信頼関係の構築に必要なコミュニケーション能力を磨き、豊かな人間性と倫理観とを育みたい。多くの師友と接し、様々な感情に触れることによって感受性を養うと同時に、多様な価値観を吸収し、より広い視野で物事の本質を捉えられる人間になりたい。

○自己PR

私は3年間バドミントン部に所属し、2年生の5月からキャプテンを務めた。自ら進んで前に出るタイプではないので苦労もあったが、いつも明るく、前向きであることを心掛け、部員たちと毎日話をするようにした。元々他の部が羨むほど部内の雰囲気は良好であったのだが、だからこそ常に意思の疎通を大切にし、礼儀を弁えながらも学年を越えて何でも話し合える集団にしたかったのである。この経験は将来チーム医療に携わった際に必ず生きてくると思う。

○エッセー(印象に残った本)

私が最も強い印象を受けたのは『日本の薬はどこかおかしい!』(青志社刊)である。薬害肝炎訴訟原告の福田衣里子さんとムコ多糖症支援ネットワーク理事の中井まりさんとの対談を自らもガンであると公表し、抗ガン剤治療を続けるジャーナリストの鳥越俊太郎氏が聞き手となってまとめたものである。 

問題は違っても、共に国・厚生労働省の薬事行政の不作為によって運命を狂わされた2女性の対談を薬に一生涯関わることを希望している私は強い興味を持って読んだ。病気を治すための薬が原因で病気になる(薬害)。命を守るためのものである薬が審査・承認に必要な時間という壁に阻まれて、その効力を発揮できない(ドラッグラグ)。信じたくはないが、どちらも本当の話だ。私が驚いたのは、新薬の申請に2㍍くらい積み重なる書類が必要とされる一方で、薬害肝炎の原因となったフィブリノゲンの場合は、紙切れ1枚という杜撰な審査で承認されたことだ。背後に〝患者の命よりも利益優先〟といった一部製薬会社と国・厚生労働省の薬事行政の思惑が透けて見え、薄ら寒い。これは一種の殺人である。

彼女たちは口を揃えて言う、「まだすべてが解決したわけではない」と。その通りだ。これは他人事ではない。私も肝に銘じよう。いつ我が身に降りかかるかもしれない問題であると。そして、薬剤師を目指す私にとっては忘れてはならない問題であると。

志望理由書や自己推薦書を書く前に、まず物語(自分史)をつくってみることである。

Aさんの書いたメモを参考までに掲げると、次の通りである

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・小学生の頃からNPO活動をしている父に連れられ森に入っていた。

・中学生になると、部活(ソフトテニス)が始まって、回数は減ったがOFFの日は父について行き、NPO仲間の方たちと会い、話を聞いたり、手伝ったりしていた。

・高校1年の終わり頃、父の役に立ちたいとの思いから、カール・ハーゼル著/山縣光晶訳『森が語るドイツの歴史』(築地書館)を読み、「訳者あとがき」にあることばから、フランスの文化や異文化を学ぼうと決意し、関連する本を読み始める。

・高2の夏にフランス語やフランス文化について学べる大学を探し始め、H大学国際文化学部国際文化学科を知る。

・オープンキャンパスに行きたいと思うが、クラブの合宿と重なり断念。

(東京遠征のOFF日に顧問の先生、先輩の3人で、先輩の志望校であったR大学のオープンキャンパスに行く)

・高3の夏、念願のオープンキャンパスに参加。H大学国際文化学部国際文化学科で学びたいという気持ちが一層高まり、自己推薦入試の受験を決意する。

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最初はこの程度でよい。徐々に膨らませて行けばよいのである。

これがどのように自己推薦書へと成長したのかはまたのお楽しみである。

先週の進路講話の後、学年主任のA先生が進路主任のB先生からマイクをもらい、次のように言ったという。

「近頃、授業を聞かずに内職に精を出している生徒が目立つ。先生は悲しい。きちんと、授業を聞きなさい。先生たちは君たちに勉強だけを教えて来たつもりはない!」

C君はこれを聞いて、「A先生は勝手だなあ」と思ったそうであるが、。僕もそう思う。昨年の今頃、「数学の課題ばかりやって授業を聞かない連中が多くて困る」という社会科や理科の教員のボヤキを聞いたA先生は、「エライじゃないか!」と小声で呟いたではないか。自分の担当教科の内職は評価するくせに、自分の授業で内職をされたら怒る。まるで子どもである。生徒たちにも言い分はあるようだ。

「A先生の授業、評判悪いんですよ。同じ数学でもD先生の授業では内職してる子は1人もいません」

「D先生は怒ると怖いからじゃないの?」

「A先生も怖いですよ。キレたらD先生より怖いんですから。この間も内職をやっていたEが怒られていました。『お前は体育の時間に数学をやるのか? やらないだろう? だったら俺の授業を聞け!』って、無茶苦茶な論理ですよね」

「ハハハ……」

「『勉強だけを教えて来たつもりはない!』なんてよく言いますよ。数学しか教えて来なかったくせに。ウチの学校なんて勉強しか教えない教師、いや、勉強も満足に教えられない奴らがほとんどじゃないですか」

「そうだね。僕も勉強しか教えてない」

「先生からは勉強以外のこともたくさん教わりましたよ」

「いや、教えてないよ。きっとそれは君が僕から勝手に学んだんだよ」

「そんなことないですよ」

「僕もAさんみたいに言おうか? 『僕は勉強以外のことを教えたつもりはない』『これからも教えるつもりはない』って」

「意味がわかりませんが……」

「そのうちわかるよ」