A大学経営学部の指定校推薦を受けるB君の志望理由書を指導している。自己表現偏重型の文章だったので、上林憲雄他著『経験から学ぶ経営学入門』(有斐閣 2007.5)を読ませている。メモをとらせて毎日もって来させ、話を聞いているが、内容は着実に深化している。このことからも、先日の「志望理由書が数日で深まるとは思われない」という進路の発言が妄言でしかないことが知られるのである。
教師にも当然知らないことがある。わからないこともある。これは仕方がない。しかし、それを認めず、知らないことやわからないことを自分の〝物差し〟で勝手に測って、生徒に話すようなことが許されるであろうか。〝仕方がない〟で済まされることではないだろう。一部の生徒たちはすぐに僕の所へ飛んで来てそれが根拠の無い〝妄言〟であることを確認できるけれども、多くの生徒たちにはそれができない。僕の所に来た生徒たちが事実を口コミで広めれば問題はないだろうと思われるかもしれないが、教員の世界でこれをやったら「あいつは生徒を使って悪口を広めている」と言われて、大変なことになる。批判や意見を〝悪口〟と同一視し、全く聞く耳を持たない進歩や発展とは無縁の世界だからである。
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だから、生徒たちは塾や予備校に逃げる。しかし、またこれが信用できない。誤解を避けるために言っておくが、僕は塾や予備校自体を信じられないと言っているのではない。塾や予備校関係者の方のブログから多くのことを学ばせてもらっている。生徒たちにも薦めている。吉永賢一さんや豊文さん、斎籐先生のブログなどは生徒たちも好んで覗いているようである。賢一さんの所にメールを送り、懇切丁寧な返信をいただいて、その言葉を心の支えにしている生徒もいる。僕がこれから取り上げるのは、あくまで地元限定の話である。
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まずは数年前の話。Aさんは茨城にあるT大学を志望し、T予備校に通って勉強していたが、その指導法に疑問を持ち、「やめたい」と教室責任者に伝えたところ、「君はT大を目指しているけど、君の力では無理だからね」と言われたという。その後、Aさんは見事推薦入試でT大に合格。すると、「戻って来てほしい」という電話。もちろん、Aさんは拒否。数ヶ月後のTの「難関大合格者一覧」には、名前の部分を空白にして「T大学 (××高校)」とあった。もちろん、Aさんのことであるのは間違いない。
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これも数年前の話。BさんはC大学のAO入試を受験し、見事合格した。志望理由・自己推薦書はもちろん、小論文指導や面接対策もみんな僕がやった。ところが、Tのチラシには彼女の顔写真とともに次のような文章が載っていた。「私の合格はTの先生のおかげです。志望理由書と自己推薦書は何回も添削を受けて書き上げました。小論文も丁寧に指導してもらったので書けるようになりました。……」。これには驚いた。卒業式後に挨拶にやって来たBさんに尋ねたら、彼女は次のように言った。
「5000円くれるって言うし、文章はこっちで考えるからって言うものですから……。すみません」
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次は昨年の話。高3生のAさんが「小論文を書いたので添削してほしい」と言ってやって来た。原稿用紙には「T予備校」と印刷されている。
「Tの先生には見てもらえないの?」
「もって行ったら、『こんなものは高校の先生に見てもらってくれ』と言われました」
「Tと印刷した原稿用紙まで用意しているのに?」
「はい……。見てもらえませんか?」
「いいけど、Tに添削料請求しようかなあ(笑)」
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これは先日の話。AさんがTで面談を受けた。(電話で呼び出された)
「Aさん、最近来ないけど、あなた、いったいどうしてるの?」
「はい。自己推薦入試を受けますので、そのための勉強が忙しくて……。すみません」
(露骨に不機嫌な顔をして)「そう。で、落ちたらどうするの?」
「落ちた時に考えます」
「そんないい加減な。……あ、電話だから、ちょっと待ってて」
そう言って席を立ち、電話に出る女性職員。Aさんが電話が終わるのを待っていると、女性職員は受話器に向かって次のように叫んだという。
「わかりました。でも、AO入試や推薦入試で受かった例はほとんどありません。ほとんど落ちますから!」
Aさんが慄然としたことは言うまでもない。
僕の所にやって来て、「面談なんか行かなきゃよかったですよ」と悄気るAさん。
すると、B君が思い出したように言った。
「おかしいなあ。少し前にAO・推薦対策の案内をもらったけど、『続々合格!』って書いて、大学名も挙がっていたけど、どういうことかなあ」
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学校も塾もいい加減で、生徒たちは本当に可哀相である。彼らに信じられるものは、もうアメブロしかない(笑)