音楽的情景のディアリオ -3ページ目

音楽的情景のディアリオ

ボク、一条光一が、音楽にまつわる四方山話をつづるダイヤリー。
一日の終わり、ボクと一緒に今日という日を振り返ってみませんか。

Naokiさんとウイリー君

Youtube 「ウィリー」 by 一条光一

 

コロナのこともあり、ここしばらくお会いしていなかったNaokiさんと半年くらいぶりに電話でお話をしました。彼は、網膜色素変性症の病と闘っている方で、盲導犬ユーザーです。彼と知り合ったのが10年くらい前になりますが、もともと、よし笛奏者であり、ご自身もカラオケで歌を唄うことが大好きということもあり、知り合って早々に、「一緒に音楽、やる?」みたいな話になって、早速オリジナル曲を作りました。曲が出来上がり、やがて、思いつき程度の話が、ちょっとした夢のプロジェクトになりました。作ったCDを販売し、その収益を盲導犬育成に役立ててもらおうと言うことになりました。あまり資金をかけられないので、全てが手作りでした。録音作業もその後の制作作業も。そして、出来上がった曲が、この「ウイリー」です。当時の盲導犬、ウイリー君とNaokiさんの関係を歌にしました。その曲を引っ提げて、あちこちイベントに出向き、歌を披露し、CDの即売会を行いました。皆さんのご協力のお陰で、それなりのまとまった金額を盲導犬育成のためにお役立ていただくことができました。Naokiさんは、東京FMの番組に招かれ、「ウイリー」の歌を披露し、盲導犬を理解していだだくためのトークショーにも参加し、当時、大活躍でした。

 

そのウイリー君、お仕事を終えた晩年は、パピーウォーカーさんの元に戻ることができ、ご家族の愛情に包まれて、2015年1月20日にこの世を去りました。14歳と10カ月の生涯でした。「ウイリーが亡くなって、もう7年、経つんですね~」とNaokiさんと電話口でしみじみしておりましたが、その後やって来たアルフィー君も去年引退し、今は、Naokiさんにとって3頭目に当たる若干3歳のレオ君と共に、あちこちを飛び回っているとのことでした。まだ3歳の子ですから、家では、ペット状態で甘えまくっているとのことですが、外出の時は、シャキッとお仕事を全うしているとのことで、さすがです。また何かお役に立てられれば、との思いで、「ウイリー」を引っ張り出してきました。アップしますので、どうぞお聴きください。作詞:一条光一&Naoki、作曲:一条光一。歌は、一条光一バージョンです。

 

     

小学校の3年生の時から、サッカーに明け暮れてきたボクが、中学2年生の初めに、足の病気にかかってしまって、サッカー部を辞めざるを得なくなった時、それを気にかけていた父が、仕事の帰りに、三宮の地下街にあるレコード屋さんで、BeatlesのLPレコードを買ってきてくれた。「Oldies Beatles」だった。Beatlesビギナーにはこれ以上ない!と思えるナイスなチョイスで、「なんか有名な曲ばかり入った、Beatlesの宝石箱や~」的ベストアルバムを聴き、ボクの中のBeatles熱は一気に高まり、その時からレコード屋さん通いが始まった。当時、音楽専門雑誌があることなども知らなかったので、唯一の情報ソースであるレコード屋さんに行き、LP一枚一枚の写真や裏面に書かれている内容をチェック。こうしてBeatlesに夢中になることで、サッカーができなくなった寂しさを追いやり、心のバランスがなんとか保たれていたのだろうと思う。テレビから流れるキャンディーズなどの歌謡曲は気にも留めず、姉がギターをかき鳴らして歌っていたアリスには、明らかに上から目線だった。このようにして、ボクはBeatlesの音楽にのめり込んで行った。

 

高校受験が終わったら、ボクもギター弾きたいな~なんて思うようになり、とりあえずは目の前に控えた入試の勉強に励んでいた時、友人のN尾が、「エレキを買ったで~」と見せてくれた。フェンダーのストラト。ネックはローズ。ボディは、サンパースト。彼は、新聞配達のバイトをして、お金を貯めていた。ちょっと不良っぽかったのだけど(今思うと、不良と言うより、大人びていた)、ボクにはなぜか優しくしてくれた。ロック好きの兄貴がいて、レコードをたくさん持っていたので、「コーイチ、これエエで~。聴いてみ~」といろいろなLPを貸してくれた。Deep Purpleの「Fireball」や「Machine Head」、Led Zeppelinの「Led ZeppelinⅠ」「Led ZeppelinⅡ」、Mountainの「Flowers of Evil」。いままでボクが聴いたことない音楽ばかりだった。「お前もベース買って、バンドやろうや」。なぜかボクのパートは、すでにベースに決まっていた。そして、同じ街にいつもドンダカ~ドンダカ~パシッパシッ!とBeatlesの曲に合わせてドラムの練習をしている家があった。誰が叩いているのかな?と、家の前をウロウロしていたら、その家から出てきたのが一学年下のY村君。イガグリ頭でずんぐりした、バリバリの柔道部員だったが、きっと音楽好きの兄弟でもいるのだろうと思って、『誰がドラム、叩いてるん?』と尋ねたら、『自分ですけど。リンゴと同じラディックのセット、持ってますねん』。これがきっかけでボク達は友達になった。ボクに初めてBeatlesを共有できる友人ができた。

 

早速、Y村君をN尾に紹介し、“N尾とボクが高校生になったらすぐにでもバンドをやろう”という事になり、ボクがベースを買うまでの間もバンド結成計画はどんどん進んで行った。ボクもY村君もてっきりBeatlesの曲をやるのかな、と思っていたのだが、N尾が持ってくる曲は、B・T・O(バックマン・ターナー・オーバードライブ)の「Roll On Down The Highway」とか、Beck Bogert & Appiceの「Sweet Sweet Surrender」とか、Montroseの「I Got The Fire(灼熱の大彗星)」。しまいにはCamelの「The Snow Goose」も持ってきて、『これやるからな』と。Y村君『なんかフルート、入ってますけど・・・』。N尾『そんなんはな、どうにでもなるんや』。今ならボクには判る。確かに、どうにでもなる。N尾は、ボクらより遥か先を歩いていた。いずれにせよ、Beatlesなどまったくやる気はなかった。実際に高校生になって、Y村君と同級生のボーカリストとギターリストが加入し、5人バンドになったボクらのバンドは、当時流行っていた、世良公則&ツイストやチューリップのコピーをやった。新しく加入した2人が、『それ以外の曲やるなら、辞める』と何もしていないのに、早くも脱退を匂わせたからなのだ。だが、ボクが高校2年生になる前には、そのバンドは自然消滅していた。と言うのは、ボクが高校の軽音学部に入部してしまったため、軽音楽部の活動が忙しくなってきたのだ。

 

高校に入学して間もなく、初めて部室を覗きに行った時の衝撃は凄かった。当時3年生だった先輩のトリオバンドが、Rory Gallagher の「Messin' With The Kid」を演奏していて、それを見た瞬間に、『わ~~~すげ~』と、その場で入部を決めてしまった。その軽音楽部では、なぜかWishbone Ashの曲をみんなで演奏する習わしがあって、少し上の先輩達がWishbone Ashのコピーバンドをやっていたからなのだが、部員は誰でも「The King Will Come」、「Blowin’ Free」、「Warrior」、「Throw Down The Sword」のギターを弾くという慣習があって、それは伝統として先輩から後輩へ引き継がれていたのである。アンディ・パウエルがこれを聞いたら、目に涙を浮かべて、喜ぶことだろう。その後、1年生ベーシストのボクは、2年生のギター、ドラムとトリオバンドを組むことになり、ギターリストのI谷さんの選曲で、Creamの「Cross Road」、「Stormy Monday」、John Mayall &The Bluesbreakersの「All Your Love」、「Hideaway」などをレパートリーに、学内での定期コンサートにも毎回出してもらった。この時の経験は大きかった。ところが、その先輩たちが卒業してしまう頃には、ボクは軽音学部に顔を出さなくなっていた。

 

大学入試に失敗し、予備校に1年通うことになるのだが、ここで中学時代からハードロックをやっていたO沢君と出会うことになる。「今度コンサート出演の話があってな~、メンバー足りひんから、ちょっとギター手伝どうてくれへん?」と誘われて、一回だけの条件でお手伝いすることになった。曲は、UFOの「Doctor Doctor」、Nazarethの「Razamanaz」、Black Sabbathの「Paranoid」。ギターも少々弾いていたので、サイドギターを担当した。カッコかわいい系のDeep Purple完コピバンドの前座だった。会場の市民ホールの楽屋に入ると、メンバーは黒革&鎖の衣装に着替え始めた。当時ウエストコーストロックばかり聴いていたボクは、アロハシャツ&サンダルだった。お客さんも大半が、黒革衣装&鎖だった。ボクだけが、明らかに場違いな感じだった。この“カッコかわいい系のパープル完コピバンド”は、プロデヴューを果たし、曲もヒットし、知られる存在になる。そんな予備校時代だったが、無事大学に入学することができ、軽音楽部と映画研究部とどちらに入部するか迷った末に、映画研究部に入部するのであるが、そこでも音楽好きの先輩や同級生がいた。1年先輩のI 藤 さんに大阪毎日ホールの上田正樹(すでにSouth to Southは解散していた)に連れて行ってもらったり、友人のK田に誘われて大阪フェスティバルホールにStevie Wonderを観に行ったり、ボクの中のSoulが覚醒し、一気にブラックミュージックに傾倒して行くのである。憧れのシャウト系ボーカリストになるため、ウィスキーのストレートとハイライトで声をわざと潰し、Steely Danの「Peg」やThe Bandの「I Shall Be Released」、Eric Claptonの「Cocaine」、Creationの「New York Woman Serenade」を歌った。中学2年生の時、サッカーができなくなり、拠り所を失ったボクが、あんなに好きだったBeatlesは、ボクの中から消えてしまっていた。完全にビートルズ離れをしていた。音楽仲間とBeatlesの話をすること自体、ちょっと恥ずかしくなっていた。まるで、自分の父親の話をする時みたいに。誰にも話したくなかった。秘密にしておきたかった。

 

やがて、やっと自分の音楽的才能の無さに気が付いたころ(笑)、“自分には手の届かない音楽を聴こう”と、Jazzを聴きまくるのだが、その頃にはBeatles のことなど、もう完全に忘れていた。ところが、ふと自分のオリジナルのアルバムを作ってみようと思い立ち、曲作り、アレンジ、楽器演奏、歌を一人でこなし、宅録作業を始めると、いままで自分なりにいろんな音楽を聴いてきたつもりであったにもかかわらず、Beatlesみたいな曲を作りたいと、真剣に思うようになったのである。「Revolver」や「Sgt. Peppers・・・」や「Abby Road」みたいなアルバムを作りたいと思うようになった。自分の帰る場所、本当に居心地のいい音楽が、Beatlesだったことを改めて知ることになるのである。『Beatles 離れすればするほど、後になってその存在の大きさを思い知る』のである。まるで父親のように、あれほど拒否していたのに、今になって、愛おしくなるのである。素直に、Beatles、好きですよと言えるようになるのである。

 

以上、今回もこんな感じで終わりです。ボクみたいな名もない者の音楽遍歴話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。曲は、Beatlooseの「Come Together」です。

 

 


ボクは、ビートルズをリアルタイムでは知らない。ボク自身は、すでにこの世には存在していたらしいが(笑)、ビートルズの音楽に興味を持ち、自分でLPレコードを買いに行き始めた時には、彼らはもう解散していて、すでに何年も経っていた。Beatlesの新譜の販売を心待ちにし、販売当日レコード屋さんに走り、手に入れたLPジャケットを居間に置いてあるバカでっかいステレオの前でしばし眺め、盤に指紋が付かぬようターンテーブルに。そして、そうっと針を落とす。静寂の中、かすかなノイズ。A面の1曲目のイントロが鳴る・・・「おーーっ! スッゲー!」。ボクがこの感動を経験できたのは、ジョンの「Mind Games」やWINGSの「Band on the run」くらいからで、Beatlesのアルバムでこれを経験したことがない。「Revolver」や「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」が発売された時の「ワーッ。なんじゃこりゃ~!」的な、世界が受けた衝撃をリアルタイムで経験していないことがなんとも悔しい。これだけは、タイムトラベルでもして、時間を巻戻す以外に術はなく、如何ともしがたい。いや、ボクは未来の世界ですでにアルバムを聴いてしまっているから、それも体現できないのだ。それはそれで良いとして、もう一つ気になっていたが、“Beatles の最後の瞬間って、いつのことだったのだろ”、ということ。

 

ボクはずっと、ビートルズの最後のアルバムは、「Let It Be」だと思っていて、1969年9月に「Abby Road」発売、その後、「Let It Be」が1970年5月に発売されたから、「Abby Road」→「Let It Be」の順番かと思っていたら、それはあくまでも販売の順番で、録音日からすると、Get Backセッションが1969年1月に行われ、ミキシングなどの諸問題が発生し、音源が放置されている間、3月頃から8月まで「Abby Road」の録音作業が断続的に行われ、次のアルバム「Abby Road」が制作され、発表されたので、「Abby Road」が最後のアルバムなのだよ、と教えてもらったことがあった。『そうか・・・「Abby Road」が最後なのだね』と。ところが事の真相はこうで、Get Backセッションが行われ、100曲以上の曲が録音されたにもかかわらず、おふざけの連続でとても使えるものでなく、メンバー4人は音源を放置したままにしていた。契約上の問題もあって、そうもしてられないので、平謝りでジョージ・マーティンに編集作業をお願いするも、映画の編集も手間取り、結局アルバム「Get Back」(これが「Let it be」の音源)は、棚上げされてしまう。確かこの頃、ジョージは一度退団している(ポールが謝って、すぐ戻ってくる)。様々なゴタゴタに嫌気がさして、ジョージ・マーティンはアップルを辞めてしまうのだが、終焉を予期したメンバー(?)、「最後に一枚、ちゃんとしたの、作るべよ!」と奮起し、ジョージ・マーティンにまた頭を下げ、作り上げたアルバムが、「Abby Road」。こちらが、Get backセッション音源よりも先にリリースされた。その後、ジョンとジョージが推薦したプロデューサー、フィル・スペクターにアルバム「Get Back」の編集を託すのだが、当のスペクターさん、『それじゃ、好きなようにやらせてもらう。ボクならキットバック(・・・・・・)れないよ』と、ディブ・スペクター並みのダジャレを言ったかどうかは定かではないが、1970年3月~4月にかけて、『ここにオーケストラ入れてみよ~っと』、『これとこれ、つなげてみよ~っと』と、なんやかんや録音・編集作業を行っていたので、最後のアルバムは、「Let It Be」という解釈もできる、ということなのです。

 

でもそんなことより、ボクが一番気になるのは、超しょうもないことなのだが、ボク達の職場でよくあるように、誰かが会社を辞めて行くその最後の日、なんとなくみんなが集まってきて、一番偉い人が「お疲れ様~」みたいな挨拶をして、プレゼントと花が手渡され、拍手が鳴り響く中、本人だけが一人、立ち去っていき、みんなでそれを見送る“最後の瞬間”みたいなのがあったのかな、ということ。お勤め先のアップル・コア本社の制作部室か会議室に社員全員集められ、メンバー4人、一人一人に花束が渡されて、『ほんと長い間、お疲れ様でした~。次は決まっているのですか?』『いいえ、まだ何も。しばらく失業手当でももらいながら、のんびりと・・・』みたいな、一般の会社では良くある風景、あったのかな、て。

 

8月20日に「Abby Road」のレコーディングが終了し、4人でのスタジオ入りは、この日が最後となってしまう。翌月の9月20日、ジョンは他のメンバーに脱退を告げたらしく、26日には「Abby Road」が発売されるのですが、ジョンはその後もソロシングル、アルバムを積極的に発表していくし、70年3月にはリンゴも初のソロアルバム「Sentimental Journey」を発表するし、4月にポールも音楽的な意見の相違を理由に脱退を発表して、初のソロアルバム「McCartney」を発表。そして5月、1年半前に収録したGet Backセッションが、アルバム「Let it be」として発売される。ジョージは11月に3枚組アルバム「All things must pass」を発表。ジョンも初のソロアルバム「John Lennon/Plastic Ono Band」(ジョンの魂)を発表。もうこの頃になると、Beatles はBeatles の体をなしていない。もうバラバラ状態。ソロアルバムとしたら、賛否はありますが、「All things must pass」と「John Lennon/Plastic Ono Band」(ジョンの魂)は、個人的には好きです。ポールの「McCartney」には、厳しい批評が向けられたようですが、関西で育ったボク達世代のロック好きには忘れられない曲、FM大阪の「ビートオンプラザ」のテーマ曲だった「Momma Miss America」や「Maybe I’m amazed」が収められていて、ボクは好きです。リンゴの「Sentimental Journey」は別ものですかね。なんたってジャズスタンダード集でしたから^^:

 

1968年に設立されたアップル・コア。5つの事業の柱があって、その中で「ビジネスのシステムの中で芸術的な自由を確保すること」(ジョン・レノン)。表に出てきているのは4人だけなのだけれど、彼らにもそれぞれ社内外に多くのブレインがいて、その人たちが4人に耳障りのいい話をして、その気にさせちゃったりして。そういう人脈や準備がないと、いきなりソロアルバムがパッとできて、リリースされるわけないので。ボクが思うに、きっと「Abby Road」のスタジオ作業が終わった時点で、だから69年の8月20日に、実は4人がBeatlesとしてやるべきことは全て終わっていて、解散は周知の事実であった。後はBeatlesとしての契約上の問題だけ。つまり、アルバム「Get Back」分の契約を履行しさえすれば、会社も含め、チームBeatlesは、店じまい。とにかくアルバム「Get Back」(というか「Let it be」)がリリースされるまで、それまでは4人それぞれが、契約上、特に規定されていないソロアルバムやソロ活動をやりながらその時を待つ。アップルとしては、その日までは淡々と業務を継続。「Let it be」が無事にリリースされ、『はい、業務終了です。皆さん、お疲れさんでした~』と。スタッフ達のお別れ会は、きっとこの時に行われ、そこに4人が出席したかどうかは判りませんが、非公式にメンバーが参加したってこともありかな、なんて。でも実際は、例としたらちょっと違うかもだけど、「笑っていいとも」が終わって、数日後に楽屋の私物を持って帰るタモさんみたいに(笑)、「Abby Road」の録りが終わって何日かして、『もうここに来ることもないなからね』と、本社ビルの個人ロッカーに入れた私物を持って帰っていった人もいたかもしれないので、その日が、“最後の日”だったのかもしれない。『明日、ジョージがロッカーの荷物を取りに来るついでに、制服と健康保健証を届けに来るらしいので、その時、会議室でちょっとお別れ会やろか?』みたいな・・・。4人のメンバーもスタッフも長年一緒にチームBeatlesを支え合ってきた仲間ですから、それなりのお別れの場があったと思うのです。そんなこと絶対に外部には漏れないでしょうから、判らないままですけど^^: 

 

1970年12月、ポールはビートルズのパートナーシップの解消を要求する訴訟をロンドン高等裁判所に起こし、他の3人のメンバーを告訴。翌年4月、3人は要求を受け入れ、上告しないことを発表。こうして、法律の力をして、4人が所属するBeatlesという形を解消することになります。これも、裁判しているから完全に仲違い?というわけでもなく、このクラスのアーティストの場合、個人というものが大きなブランドになっているから、公的立場では裁判しているけど、私人の立場では仲良し、ということだって有り得る。『ポールが辞めた後、ベースにクラウス・ブアマン、入れてやっちゃう?』みたいな話が出ていたらしい(ほんとかね)のですが、ヒット曲の約半分を支えてきたポール様にしてみたら、公的にはそれは面白くないでしょうしね。『ワテの目の黒い内は、ビートルズの看板は、何が有っても使わしまへんで!』ですよね。こうして歴史的には、1970年が解散の年になるわけです。はい、なんの結論も出ないまま、これで終わります。こんなアホな話に最後までお付き合いいただき、本当に心から感謝いたします。Fab4 Forever! 曲は、BeatlooseのLet it beです!