ちょっと書き換えたので、日付を更新して再掲出します。

 

このところずっと悩んでいたが、ここ10年来ずっとこだわっていたヤ行の j を y に変更することにした。これにより私の仮名に従うローマ字の特殊性はぐっと減ったのではないかと思う。あとはところどころで q が入っているという変なところw が目立つ程度だろうか。(99式での j と y の使いわけに戻すという意味ではない)



(文例 志賀直哉「暗夜行路」より) Siga Naoya "Anqya Kouro" ~yori

  Kesiki ha ii tokoro daqta. Nekoronde ite iroqiro na mono ga mieta. Maenosima ni zousenzyo ga aru. Soko de asa kara kaankaan to kanaduti wo hibikasete iru. Onazi sima no hidarite no yama no tyuuhuku ni isikiriba ga aqte, matubayasi no naka de isikiri-ninsoku ga taezu uta wo utainagara isi wo kiridasite iru. Sono koe ha mati no haruka takai tokoro wo tooqte tyokusetu kare no iru tokoro ni kikoete kita.

  Yuugata nobinobi sita kokoromoti de, semai nureqen he kosikakete iru to, sita no hou no syouka no yane no monohosi de, sizumikaketa taiyou no hou wo muite kodomo ga konbou wo huqte iru no ga tiisaku mieru. Sono ue wo siroi hato ga 5~6-wa sewasisou ni tobimawaqte iru. Sosite hi wo uketa hane ga momoqiro ni kirakira to hikaru.

  6-zi ni naru to ue no Senkouzi de toki no kane wo tuku. Goon to naru to sugu koon to hankyou ga hitotu, mata hitotu, mata hitotu, sore ga tooku kara kaeqte kuru. Sono koro kara, hiruma ha Mukaizima no yama to yama to no aida ni tyoqto atama wo misete iru Hyaqkanzima no toudai ga hikaridasu. Sore ha pikari to hikaqte mata kieru. Zousenzyo no dou wo tokasita you na hi ga mizu ni uturidasu.

  10-zi ni naru to Tadotu-gayoi no renrakusen ga kiteki wo narasinagara kaeqte kuru. Hesaki no aka to midori no akari, kanpan no kiqiroku mieru dentou, sorera wo utukusii nawa demo huru you ni mizu ni utusinagara susunde kuru. Mou mati kara ha nan no sawagasii oto mo kikoenaku naqte, sendoutati no suru takabanasi no koe ga te ni toru you ni kare no tokoro made kikoete kuru.

ヤ行の J を Y に変えただけで仮名に従うローマ字そのものは一切変更はない。単に文字を入れ替えて J を使わないことにしたというだけ。何なら従来どおり J を使っても支障ない。要はどっちでもいい。仮名に従うローマ字の理論を軽率に変更して覆したわけでも何でもない。誤解しないでください。

 

99式のように(ティ)という音に対して tji と書き、tyi (ちぃ)と区別するなどということはしない。これは表音式の考え方で、仮名に従う考え方からは逸脱する。「ティ」という仮名表記では全部が [ti] になるわけではなく、「ショートスティ」などの「ティ」は「テイ」と二重母音のようなイメージで読むので、tji を一部の「ティ」にあててしまうのは仮名に従っていることにはならない。結局「ティ」という仮名綴りを音で区別しようとしている。(99式でなぜそのように判断したかというと、単純に符号を使いたくないからだろう)

 

私の仮名に従うローマ字では「ティ」は téi または tèi と符号を入れて書くが、ローマ字を広く普及させることを目的にした「99式ローマ字」では符号を毛嫌いする。でも、これは外来語での話なので、それこぞこの符号は省略してしまってもいい。長音符は省略すると別の語になるが、tei として符号を省略しても読み方を注釈していないというだけである。何よりも、そもそもカタカナ言葉をわざわざローマ字書きするというのはかなり限られた場面でしかないはずで、何でそんなことに腐心する必要があるのだろうか。

 

一般的な日本語のローマ字を書くときには仮名に従う(具体的には現代仮名遣い)ことによって、仮名のとおりに安心して符号なしですっきりとローマ字が書ける。この言葉の発音はどうある「べき」かなど考える必要はない。「映画」なら「えいが」。「私は」なら「わたしは」と仮名のとおりに書く。長音は長音符を使い、符号は省略する、そんなむちゃくちゃなローマ字でよく平静を保っていられるものだと思う。表音式ローマ字は一体何と戦っているのか? 長音というわけのわからない概念をでっち上げて、日本語のローマ字を引っ掻き回して混乱させているという罪は深い。(問題点を挙げるとまた止まらなくなるからやめるが)

 

私はそんないまいましい長音を排除したい。そのために q が要る。 

 

q の原則から言うと「黄色」なら「き + いろ」だから kiqiroと書く。q は一定の条件になったら「一律に」入れていくと決めたものに過ぎない。言葉の捉え方の違いで場合によったら入れたり入れなかったりという不統一(というより言葉の捉え方の問題)はあるかもしれない。でも難しい理論で厳密に考えて、これは「間違い」あれは「間違い」ということではなく、 q を入れるという「システム」に則って q を一般的な原則どおりに使っていれば、従来「 ' 」で分けないと読みにくかったり誤読する恐れがあるという心配をしながら綴りに注意を払う必要がなくなる。なぜなら、そういう恐れのある場合は q を入れる習慣によって既に解消されているからである。(奥羽 Ouqu 品位 hinqi 濡れ縁 nureqen など変な符号なしに原則どおりにすっきり書けるようになったり、「イッヌ」 「えっへん」も iqnu / eqhen と悩まず書けるようになる)何よりも、仮名のリズムに従って書いている気分がしてとても落ち着く。これは実際に使って慣れていくことで実感できる。

 

q を入れるというシステムの中で、とりわけ別に q を入れなくても読めるではないかというほうがむしろ多いかもしれない(幕開け makuqake 出会い deqai 陥る/落ち入る otiqiru など)。やれ語源解釈がどうのと言い出したらキリがない。でもそれはローマ字の方式の話ではなくてその言葉をどう考えるかという議論であって、意見がわかれることも稀にあるだろう。

 

でも胡瓜は、現代仮名遣いで「きゅうり」と書くと決まっているのだから、それに従って kyuuri と書けばいいので、歴史仮名遣いの kiquri が「正しい」などと言うべきではない。だから黄色をkiiroと書きたければそれでもいいが「イメージ」としては「キーロ」になるので、kiqiro と書くとしっくりくる。むしろ逆に q を入れないと違和感を感じるようになる。その辺は q の使い方を理解し、使い方に慣れていくうちに自然と安定してくるのではないか。つまり言葉の揺れに立ち入ることなく、システムとして q の用法が一般的に認知されているだけでいい。

 

それと、音節文字の仮名と音素文字のローマ字では同じ母音の連続でもイメージが異なる。仮名で「カアル」と書くと「カエル」のようなイメージになるので仮名では「カール」と長音符「ー」で表記すると読みやすくなる。逆にローマ字で kaaru だと「カール」のイメージが強くなるので、aaの間に形態素境界があるときには amaqasi のように q を入れることによって「あまあし」(雨脚)という仮名のイメージになる。それを amaasi とすると仮名綴りとしては「アマーシ」のイメージになる。だから、仮名に従うと言いながら q を入れるのは矛盾しているではないかという批判に対して、むしろ q を入れることで仮名綴りのイメージにより近づけていると言えるので、仮名に従うローマ字としてはむしろ q は自然だと言える。

 

表音式では長音符を使えば形態素も自然に分けられるというが嘘っぱちもいいところだ。ai とか ei をそのままにしておいて形態素が長音で分けられるわけがない。確実なのは母音で続く形態素そのものを q で分けてしまう。単純過ぎるとばかにするかもしれないけれども、実践してみるとローマ字を仮名のとおり書いていて本当に自然でしっくりとくる。それを表音的ではないといって表音式ローマ字では毛嫌いする。

 

ド素人が形態素といっても概念そのものは難しい。でも、直感的に解釈して形態素が母音で接続するときに前の形態素の「末尾」に q をつける、要は CVCという状態を擬似的につくるイメージになる。

 

そのために、接頭辞の末尾に q をつけにくいというのはある。例えば「尾梅」という名前の人がいる場合 Oqume ならしっくりくるが「お梅さん」はどうするか。(ちなみに青梅は Oume、近江は Oumiとなり q は要らない)。まあ「お梅さん」も Oqume san でいいとは思うが、ちょっとイメージが違うかもしれない。その辺、頭のいい人で何かいい案があれば教えてほしい。


要はあんまり難しいことは言わずに、ローマ字から長音という概念をやめて仮名の綴りのとおりに書いて q を使う習慣が定着すれば、日本語のローマ字事情はかなり融通がきくようになって便利になるはずだということを「直感的に」確信して提案している。何も小難しい「趣味の私家版ローマ字」を押し付けようということではない。

 

仮名に従うのは仮名が優れているからというより、仮名が日本語の正式な文字で正書法もあるからで、もちろん欠点もある(装おうはyosooou と o が4つも連なるとか、文字と発音が異なって読み分ける場合もあるとか)。でも、欠点も含めて、日本語として明確な基準と言えるのは仮名しかない。外国語もカタカナ表記にした時点で日本語としての発音になる。仮名で書けないものは日本語じゃないという、これほど明確な基準があるだろうか。発音だけで考える表音的思考でも外国語を日本語に入れるときに一体何を基準にして考えるかといったら仮名しかないでしょう。

 

ただ、「いまさら」ということがあるので、むきになっているわけでもなくて、ヘボン式でいいというなら好きにしたらいいのではないか。まあ「おもてなし」の精神もあるし…、とか言われたら脱力して、ぐぬぬという気もしないではない。(重箱のすみをつつくような反論よりそういうほうが堪えるw)

 

ローマ字の話をすると、すぐに「素人のくせに」といってばかにしてくる。 q を促音に使うと言うと、ああ知ってる知ってる、よくそういう「思いつき」を言う人いるよねみたい言うけども、ばかにするということは思考停止している(つまり自分もばかになってる)ということなので、先入観を捨てて素直に聞く耳を持ってもらいたい。

 

何遍も言うが、例えば「問いかけ」を toikake と書き、「戸板」をtoqita と書いたところで、そんなものを区別して一体何になるのかと言うが、別にこの言葉を区別するのが目的で q を入れるのではなくて、長音という概念をやめるために「システムとして」一定の条件になったら q を一律に挿入することによって、「結果的に」区別できるようになる言葉がふえているだけで、別にそんな言葉を区別するのを目的に q を入れることにしているわけではないし、声門閉鎖音と言っても、それを表音的に区別するべきだなどとも言っていない。それと、「囲う」も「加工」も kakou(かこう) とするのは仮名に従うからで、発音に従うのではないから区別しない。

 

もう少し補足すると、母音が続く形態素境界に q を入れるといっても活用などの文法的形態素は q で分けないという規則を決めている。つまり「囲う」は kakoqu とはしない。だから、あくまでも「装おう」(よそおおう)も yosooou となる。読みにくい?いや、これは非常に特異な例なので、初見では面食らうかもしれないが綴り字としては特徴があるから「読みやすい」まであるかもしれない。


この辺を説明して納得してもらうのが本当に難しい。とりわけ表音式にほとんど洗脳されたような人(そういうことを言うから反感を買われるがw)に納得してもらうのは不可能かもしれないが、めげずに主張だけはしていきたい。

 

ローマ字というのは発音を正確にわかりやすくあらわすことで読めると表音式では考えているが、これは嘘だと思う。日本語のローマ字というのはそれ自体では自立できない。必ず背後に漢字仮名交じり文の意識があって初めて読めるものになる。この辺、表音式ローマ字は音にしか注目してない。だから、じずぢづの四つ仮名問題に直面するとうろたえて「統一しよう」とか言い出す。根本的に発想が違う。仮名に従うということは、ローマ字の背後にある漢字の意識やその元になる漢字仮名交じり文との親和性がより高まるということですよ?なぜそうしない。「飯塚」が「いいづか」なら Iiduka で何が問題かと。それをいちいち表音的に「づ」の発音をどうするかとか「ず」と同じなんだからみんな「ず」でいいよとか、よけいなことで悩んでるのが表音式ローマ字ですよ。問題は多分永遠に解決しない。

 

そして、おそらく最大のネックが長音で、今文部大臣が日本語のローマ字はどうあるべきかという諮問を出したらしい。おそらく今のこの時期にそういう諮問を出したということは、もうヘボン式に統一してしまおうということだと思う。では長音をどういう扱いにするのか。きっと残念なことになるのはわかり切っている。ローマ字は70年ぶりの改訂になるらしい。私はこれでトドメを刺されると思っている。もう期待できないと悲観的に考えています。終わりましたね。

 

声門閉鎖音の q についてはアラビア語に使用例がある。国際音標記号では?マークの下の点がないものがそれに当たり、その字形が q に似ているところから採用した。99式の一派?の海津式でも末尾の促音に q を当てているが、そもそも q に対する発想が全く違うかもしれないので、それは参考にしていない。

 

q では g と紛らわしくて x のほうが見やすいのではという意見もあるが、文中にいくつも x が使われるのは「美しくない」。イーロン・マスクはツイッターを x にしたが、美的感覚を疑うw  というのは冗談として、x は仮名小文字を個別に強制表記したいときにローマ字仮名変換システムで使う x を借用して使うことがあるから x は使えない。