ほーんとに余計なことbkr...

ほーんとに余計なことbkr...

Hoonto ni yokei na koto baqkari desu ga nani ka (´・ω・`)?

「仮名に従うローマ字」での境界記号における q について、想像以上に q に対する抵抗が強いので、この方式を押し通すのはほとんど不可能に近い雰囲気というのは感じ取っています。そりゃ「出会い」を deqai と書くと言ったら「でかい」って何だとしか言われない。q を黙字のように扱うのは外国語でも例がない。仮想子音字という扱いです。

 

これについて、妥協ではなく、視点を変えた対案として、「IPA(国際音声記号)との整合性」「歌唱時などにみられる促音の母音的・連続的性質(母音指向性)」——を踏まえ、「q を y に置き換え、ヤ行には j を充てる改定案」の妥当性を体系的に整理してみたいと思います。

1. 改定案の全体像
境界記号 / 促音記号:q → y (拍の保持・連続性・境界を示す記号として活用)

(「泊の保持」というのは次に子音字が続く場合、または q で終わる場合で、仮名では「っ」で表現される場合で、q の次に母音字が続くときは黙字(または声門閉鎖音)となり「泊を持たず」形態素の境界のみをあらわすという、なかなか定義の難しいものです。慣れればしっくりくるとは思うのですが…。)

ヤ行表記:y → j (国際標準に則り、ヤ行音の半母音子音に割り当て)

2. 理論的妥当性(メリット)
① 言語学的・音韻論的な国際整合性(ヤ行への j 充当)
IPA(国際音声記号)との一致:IPAにおいて硬口蓋半母音(「や・ゆ・よ」の子音)は [j] です。

欧州諸語の実績:ドイツ語・北欧諸語・スラブ諸語などでは、ヤ行音に j を用いるのが標準的表記です(例: Ja, Juzo)。

従来ヘボン式等で英語(英米語)の慣習に偏っていた表記を、「言語学・国際標準」の観点から再構築する正当性が得られます。

② 日本語の母音指向性・モーラ感覚との親和性(促音・境界への y 充当)
歌唱時・流暢音調の実態反映:「あなたと会った」が歌唱時に「ああた」と歌われるように、日本語の促音は単なる「息の断絶・硬い閉鎖」だけでなく、「1拍分の時間を連続的に保持する」という流暢で軟質な性質を持ちます。

視覚的滑らかさ:アルファベット表記において q は「唐突な切断」の強い見た目を与えますが、半母音・渡り音の性格を持つ y は、母音と母音の間に挟まっても視覚的なノイズが抑えられ、日本語の母音主体の響き(モーラ感覚)を自然に転写できます。

3. 実用上の懸念点とハードル(デメリット)
① 既存の「j = 濁音(ジ・ジャ等)」という強い慣習との衝突
ヘボン式や英語教育の影響で、日本人および英語圏話者にとって j は「ジ・ジャ・ジュ・ジョ」の音として強固に認知されています。

ja を「ヤ」と読ませる設計は、慣れるまでの間、直感的に「ジャ」と誤読されやすい最大の心理的障壁となります。しかし、これは q を黙字として扱うという従来の方式からするとはるかに許容されやすい。発音記号として j をや行に使うという知識は行き渡っている。

② 2重の認知転換(ダブルの書き換え)が必要な点
単に新しい記号を追加するだけでなく、「ヤ行の文字を変える(y → j)」 と 「空いた y に別の役割を与える」 という2段階の転換を求めるため、一般話者の習得コストは高くなります。(慣れるのに時間がかかります)

4. 総合評価・妥当性のまとめ
評価軸    従来の q 案    今回の y / j 改定案
理論的整合性(IPA・音声学)    独自ルールとしての整合    きわめて高い(IPA準拠 + 歌唱音声学の実態)
日本語の音調・視覚的滑らかさ    硬質(閉鎖・切断の印象)    軟質・流暢(母音指向的で滑らか)
一般受容性(習得の容易さ)    q の違和感はあるがヤ行は不変    j の再定義による強い初期混乱のリスク
結論
この改定案は、単なる見た目の修正にとどまらず、「IPA(言語学標準)への準拠」と「日本語の持っている流暢な母音指向性(歌唱時に見られる1拍保持の連続性)」の双方を高度に満たす、理論的・音韻論的には妥当なアイデアであると考えます。

「一般社会への普及」という実用面でのハードルといっても、そもそもこれが普及するとは考えておらず、自分用の理論としては検討に値する改定方針ではないかということです。

これで「井上」なら Inoyue (従来の Inoque) と比べてかなり見た目は自然になります。

鳥居 toriyi (toriqi) 影絵 kageye (kageqe) 平安 heiyan(heiqan) ダイオウイカ(大王イカ)daiyouyika(daiqouqika) 夜陰に紛れて Jayin ni magirete (Yaqin ni magirete)

 

*ここで余計なことですが、ハワイの井上空港は現地の英語表記では Inouye というスペルで、これはヘボン式をさらに英語風にして語尾の e  の前に y を挿入した表記になっていますが、それですら「イヌイェ」としか読まれていない。この辺が表音式ローマ字の限界かと思います。日本語はヘボン式ローマ字で書いてあれば「外国人に正しく読める」という思い込みがいかに的はずれかというのがわかります。

 

(補足)形態素について

 

狛江 Komaye(komaqe) に対する蔵前 Kuramaeでは同じ「まえ」でもイメージが違います。

この連続した母音の間に形態素があるという意識は日本語では重要です。実際に日本語のイントネーションにも影響を与えます。狛江ではなくて小前(こまえ)だったらアクセントなども変わってくるはずで(「こ」を高く発音するなど)、仮名の綴りは同じ「まえ」でも意味が違えば発音のイントネーションなども違ってきます。多くの表音式ローマ字ではこれを完全に無視しています。

 

なぜ無視するのかというと、英語の文脈では日本語の長音とかイントネーションなど区別しても意味がないからです。さらに言うと、こういう形態素の概念を区別しようとすると、母音が連続する場合に限らず、もっと厳密に学問的に難しい表記規則になるから、それならいっそのこと区別しないという選択肢を取ってしまう。これは逃げの論理です。区別できるなら、母音連続の場合だけでも区別できるようにしたほうがいいではないか、というのが私の主張です。(この辺でローマ字とは何かという哲学的な見解の相違にもかかわってきます)

 

いわゆる長音についても「おお」「おう」の書き分けは煩雑であるから長音と定義して O に長音符をつけて「統一」すれば理論的にすっきりするという。何ならその長音符すら省略しても英語の文脈では問題ないと言うのですが、一体、ローマ字で何を再定義しようとしているのでしょうか。発音として長音か長音でないかは日本語の発音では重要ではありません。絶対長音みたいなものはない。「嗚呼」を「あー」と読もうが「ああ」と読もうが大きなお世話ではないか。

 

だから、仮名でそう書いているのならそのとおりに書けばいいというのは、日本語を主体に考えていないと出てこない発想です。英語を主体に発音だけで考えている人から見ると邪道にしか見えないわけです。

 

日本語を主体に考える仮名に従うローマ字では「おお」なら oo 「おう」なら ou、「おー」ならoo を割り当てればいいと考えます。読み方は仮名を読むのと同じです。長音として読みたければそう読めばいいし、一語ずつゆっくり読みたければそう読めばいい。そこにはローマ字の確固たるスペルがあるだけです。これをどう読むかは仮名の読み方に依存すればいい。発音を基準にするのではない。これが「仮名に従う」と言い始めたきっかけでした。

 

だからこそ、母音の連なりが重要になるわけです。長音がどうかというより形態素の切れ目がどうかということを気にしなければならない。

 

そうすると俗語の「やおい」はどう書くか。これの語源は「やまなし、おちなし、いみなし」の頭文字から来ており、なので「や+お+い」と意識して読むのではなく一つの言葉としての俗語表現であるから普通に仮名のまま jaoi (yaoi) でよい。そこを屁理屈で形態素の切れ目がどうとかいうのなら jayoyi (yaqoqi)ではないのかとは考えにくい。

 

つまり、仮名に従う形態素の考え方は非常に柔軟に考えるべきです。感じ方は各個人に委ねられ、あえてそれを統一しなければならないものではない。それは「混乱」とは言わず、捉え方の柔軟性、自由を保障するものであり、いずれ自然に淘汰、統一されてくるという考え方です。「矢追」町なら「や+おい」という意識が明確なので Jayoi(Yaqoi) と書くのが一般的かと思います。ここがいい加減と言われるゆえんですが、思ったほどには混乱していません。

 

また、矢追の「い」も文法的形態素(追う・追いますなどと活用)と言われるものですが、私はここで言う形態素の定義には含めず例外的に y (q)で分けないという規則を独自につくっています。そうしないと y (q)で分ける意味がなくなってしまうからです。「肝いり」 kimoyiri (kimoqiri)と「キモい」 kimoi は区別したいわけです。もしも地名で「肝井」kimoyi なんていうのがあったとしたら、それは「キモい」kimoi とは区別したい。そのほか「奥羽」Ouqu 「覆う」oouなど。「大石」 Ooqisi という人名も「覆いしもの」 Ooisi mono の「おおいし」は違う。これは日本人として自然に区別しますが、表音式ローマ字ではどうでもいいと言って無視をして si とshi の表音的な違いをことさらに区別している。それこそどうでもいい。

 

つまり、日本語の正書法、というより基準、表記の元になっているのは「漢字仮名交じり文」であり、国字でもないローマ字に正書法の役割を与える必要はない。あくまでもローマ字は日本語を任意の規則に基づいて引き写したものに過ぎない。「ローマ字の正書法」などというものはローマ字国字論を念頭に置かない限り考える必要のないものです。

 

では、何を基準にするのか。それが「仮名遣い」です。現在でいうなら「現代仮名遣い」のルールです(そしてその上位概念として漢字表記がある)。漢字表記を仮名に置き換えたとき、それは見事にほぼ統一されている。(「いずも」「いづも」などの例外はありますし、例外というのは何にでもあります)統一の%でいえば100%に近い。漢字仮名まじり文では人によって用字が異なりますが、仮名だけにするとほぼ見事に日本語の用字は統一されています。

 

ローマ字の標準としては、ヘボン式が今その役割を担っているのは承知していますし、自分のローマ字方式をもってそれに置き換えようなどとは思っていません。あくまでも、仮名に従うローマ字は理論的に考えてこういうローマ字もあるという提案です。

 

ヘボン式ローマ字が標準だというだけなら同意しますが、ヘボン式こそが正しく正統な日本語のローマ字だとか、日本語のローマ字の正書法はヘボン式だとか(意味不明)、べボン式にすべて統一するべきで、ほかの何ちゃって方式はすべて「間違い」であるとか言うから、反発するわけです。(ロシア語のローマ字ですら、表音式と翻字式のGOST規格は併存していますからね)

 

余計なことを言うと、ロシア語の話が出たので言いますが、翻字式ローマ字というのは一対一対応、逆変換可能という非常に規則を重視した頭でっかち方式なので大抵はローマ字に特殊な記号や符号をつけなければいけない場合が多いのですが、仮名に従うローマ字では一切の符号は不要というのがウリになっております(笑)。(外来語の特殊な発音では仮名に従うローマ字でも符号をつけますが、それは当たり前で「タトゥー」なら tatòuu ですが、そもそもこれをわざわざローマ字で書くか?という話です。まあローマ字日記とか歌詞をローマ字で書き起こすなら必要でしょうが、それなら符号は省略してもスペルで読めます)

 

いまどきの言葉では YOASOBIのアイドルなんかが有名ですが、これを JOYASOBI (YOQASOBI)と書くべきだぁとか言ったらみんな頭がバグっちゃうでしょうね(笑)。ただ、みんなアルファベットといったらイコール英語としか考えていない風潮は、言い過ぎかもしれませんが、あまり知的とは思えません。世界的にも独自な日本語としての誇り、アイデンティティを持ってもいい時代に来ているのではないでしょうか。

 

反論として、世界にはさまざまなアルファベットの使い方があるのはわかっていると。だからこそ、その標準として日本語の場合は英語の用法に合わせて考えるのが当たり前だというのも一定の筋は通っています(参考「ローマ字表記の問題点」 (成田徹男)。ましてや、日本語はアルファベットでは書かない言語なのに「独自の」アルファベットを主張したところで世界が認めないだろう。まあこれについての反論は私もさんざん言って(ここでだけですがw)きましたけど、ここでは割愛します。

 

あと、q ではなくて x があるではないかとよく言われるのですが、x は使いたくない。文字として美しくないし、ツィッターが x になってからみんな苦労してるように、あれは根本的に日本人の嗜好に合わない。バツというイメージは日本ではペケとして強烈なイメージがあるし、欧米ではよく字が書けない人が署名に使ったりしたらしい。

ゲーム機をPS5に変えたとき、一番困ったのがこの x で、日本では解除とか中止、あるいはVS(対)という意味が強い。でも欧米ではチェック(合格)の意味があるから意味は真逆になる場合もある(◯はむしろ問題があるところを◯で囲むイメージがあるらしい)。じゃ何でWindowsの窓を閉じるのに x なんでしょうね。まあこれは余計な話でした。

 

余談ですが、x も実は、私の仮名に従うローマ字では「仮名小文字」を単独で表記したいときにキーボード式ローマ字からの流用で使います。例えば、「そうですねぇ」は Sou desu ne xe と表記します。もちろん、「そうですねー」なら Sou desu nee でいいわけですが、Sou desu ne という基本形を保持しつつ微妙なニュアンスまで表現したいときに使えるので、規則として、仮名小文字を拗音以外で強制的にあらわすのに使えるようにしています。いずれにしても、これは仮名に徹底的に準拠した考え方であり、この辺の発想は発音に従う表音式ローマ字では逆立ちしても届かない領域かと思います。(というか、見ている方向が違う)

 

(ちなみに、「ー」は仮名文字ではなく「〃」とか「々」などの踊り字という扱いになるので「アーケード」という仮名表記は「ああけえど」とふりがなを振って考えます。これを99式ローマ字では「ふりがな方式」と呼んでいたと思います。ただし「代書法」という言い方は私とは考え方が真逆です。なかなか難しいw )

 

余計なことですが一言書き添えると、仮名に従うローマ字はカナモジ文で考えるのではなく、漢字仮名交じり文の上に振る「ふりがな」で考えます。カナモジカイというのがあるらしいですが、私の仮名に従うローマ字とは全く無関係です。(多分考えていることも違うはず)

 

特殊な仮名表記では、アニメなどの表現で「さすけェ」というのがあり、この「ェ」というのは仮名文字の黙字といえるもので、応用として「国際平和ェ?」という使い方があったのですが、今でも一般的に通用するかどうかはわかりませんが、仮名でさえ書かれているものなら、仮名に従うローマ字では基本的には対応できるということです。表音式ローマ字では逆立ちしても無理でしょう。

 

つまり、日本語をより柔軟に正確にローマ字に引き写すには発音を根拠にしたものではなく、仮名文字を根拠にした仮名に従うローマ字こそがより日本語と親和性が高く、意味のあるローマナイズができるのではないかということです。だから、これはローマ字の方式についての議論ではなくて、考え方、哲学の違いということになるかと思います。

 

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と長々と書いてしまいましたが、結論的に言うと「仮名に従うローマ字」規則の改定はしないことにします。q で押し通して、Y/J案はやめます。すみません。


Y/J案については、理屈は「自分の中では」通ると思いますが、q でずっとやってきて(20年以上)、もう体にイメージが染み付いてしまっている。私が使っているキーボードのローマ字テーブルもこれに基づいて変更して使っていて、これを今更変更しても、この案なら世の中に広く受け入れられる可能性があるというならともかく(笑)、Y を促音と考えるというのは、さすがに自分でもついていけないので、まあこういう考え方の選択肢もあったかもしれないなぁということで、今回はそういう案もあるにはあるということを自覚した上で倉庫入りとします。

 

q には形態素を分けるという黙字的な使い方のほかに子音字が続くときは「促音」(っ)になるという側面もあります。促音(っ}に y はかなり無理があります。やはり q でしょう。

 

q の使用法になれると日本語のリズムがとらえやすくなります。促音と形態素(語の切れ目)と延ばす音(長音)の関係では aaとなったら一般的には「あー」であり、「ああ」ならaqaというイメージになります。そして促音(あっあ)は aqqa になる。これに慣れると日本語のリズムをモールス信号のように明確にあらわせます。ここで任意の位置で分かち書きしていますが、全部一続きにすると分かち書きの空白部分には q が入るわけです。これがわかってくると、なるほどと思われると思うのですが、いかがでしょうか。

 

つまり q というのは分かち書きするほど言葉が分かれているわけではなく、一綴りの言葉だがそこでいったん発音が切れることをあらわす。表音式ではむりやり「' 」で分けているが、この符号「'」は一体何をあらわしているのでしょうか。考えるほどわけがわからない。分けるのか省略を意味するのかもわからない。範囲 han'i って略語でも何でもないふつうの言葉でしょ。何で「’」で分けるのでしょうか。(例:範囲 hanqi の「い」がまさにそれです)そして、次に子音(q も子音扱い)が続くと「っ」として実態化する(例:楽器 gaqki 、あっあ aqqa )。さらに、「こらっ」のように語尾に促音「っ」が来るときはq を単独で使って koraq と書くことができる。これが唯一私の発明といえばそうかもしれない。まあこの程度のことはとっくにだれかが既に考えているとは思いますが。

 

「(The Messengers「気になる女の子」の一節) 

ああー ああー あっあ  あーあー  Aqaa aqaa aqqa aaqaa 

あっあ あっあー あっあ あっあー  aqqa aqqaa aqqa aqqaa

これで日本語のリズムをすっきり表現できる。これに慣れると q はローマ字表記から欠かせなくなる。この場合は困るよねということがほぼ解決するからです。

 

もう一つ q の代替案で強いて挙げれば、 h / x 案もある。でも q のかわりに h を使うとハ行を x にせざるを得ない。これも特殊過ぎる。「こらっ」が korah だと「こらー」みたいなイメージになって紛らわしくてハードルが高い。文字として美しくない x がハ行として頻繁にあらわれるのもよくない。

 

結局、q 案が、基本的なローマ字全体の見た目はほぼ日本式ローマ字に同じで、それに q という新しい概念を付け足しただけなので、この q にさえ慣れれば、このほうが違和感としてははるかに少ないはずです。q ではなくて y  / x  / h どれにしても他の行の表記まで変えることになるから、結局 q 案が最も妥当だということになる。でも、考えたことは無駄ではなかった。 q を選んだという根拠がより明確になったような気がします。q 以外あり得ないと確信を持てました。

 

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以下は蛇足です。

 

◯参考(仮名に従うローマ字で「歴史仮名遣いに従った例」

 

Giwon Syauzya no kane no kowe, syogyau muzyau no hibiki ari.
Syara sauzyu no hana no iro, zyausya hiqsui no kotowari wo
arahasu. Ogoreru hito mo hisasikarazu, tada haru no yo no
yume no gotosi. Takeki mono mo tuhi ni ha horobinu, hitohe ni
kaze no mahe no tiri ni onazi.

 

仮名に従うローマ字では、規則を変えることなく過去から未来への日本語にも対応できる。表音式ローマ字のように日本語の発音がどう変わるかに影響を受けることなく、日本語が仮名を使っている限りローマ字の基本は変わらず、仮名遣いの変化→ローマ字のスペルの変化という形で、仮名に対応するローマ字規則はそのままに、歴史的一貫性のあるローマ字表記になる。(もちろん、変体仮名や表音的に仮名小文字に変える(促音の「つ」などや拗音)という加工は若干必要ですが)

 

例えば、祇園は「ぎをん」なら Giwonと書くが、新仮名遣いでは「ぎおん」だから、形態素が母音連続になるのでq を添えて Giqon になるというだけ。発音で表記が変わったわけではなくて仮名遣いの違いがローマ字に反映しているのであり、仮名に従うという点では不変。

 

例えば「ちから」というとき、昔は tikara だった(かもしれない)が今は表音式でchikara と発音に照らして書くとすると、「ちから」は歴史仮名遣いでも同じだから chikara でいいのか? 

 

いや、表音式で考えるのならば、昔の「ち」の発音はchi ではなかったかもしれないではないですか。だから、歴史仮名遣いをそのままヘボン式で表音式に書くのは絶対に理屈からいっておかしいわけです。

 

表音式であるヘボン式は、仮名に従うのではなく「今の発音(口蓋化など)」をそのまま写し取るアプローチです。とりわけ、ヘボン式の「し」に対する shi  も、あくまでも英語圏の綴り字感覚でその発音を写し取ったものに過ぎず、日本語にとっては si であるか shi であるかという区別はほとんど意味がありません。

一方で、仮名に従うローマ字(日本式や訓令式など)の立場に立てば、50音図で体系的に定義された仮名に沿って、仮名とローマ字をきっちり対応させて綴っていく必要があります。つまり、サ行のイ列だから si と書くという規則によって綴り字の正統性が決まります。

つまり、「shi=シに似た音(発音の模写)」とする発音重視の立場と、「si=シ(仮名の構造の移し替え)」とする文字体系重視の立場では、出発点となる考え方が根本的に異なっています。

 

だから、どちらが正しく、どちらが間違いだということではなく、立場が違うということです。そして私は後者の立場を取ります。(ヘボン式を否定しているわけではありせん)

 

とはいえ、そんな私から見てという意味ですが、表音式ローマ字にもいいところがあって、例えばポルトガル式ローマ字で書いた歴史資料があったからこそ、当時の日本語の発音がどうだったかということがわかったわけです。でも、今の時代の正確な発音ということなら国際音標符号で学者が正確に記録にとって研究することはできるわけで、何もローマ字が表音式である必要はない。今の日本語のローマ字を発音記号のような発想で表音的に考えてしまうところから、ローマ字表記の考え方によるいろいろな食い違いが出てきてしまうのではないか……。ぢづじずという、いわゆる四つ仮名に対する扱いの見解の違いもそこから来ているのだと思います。表音式の発想では当然、「じず」に丸めて統一してしまおうとするわけです。

 

にもかかわらず、なぜ日本語のローマ字方式の大半(すべてと言ってもいい)は表音式ローマ字の系統しかないんだろうか。これは謎と言うほかないです。訓令式がそうなのでは?と言いますが、訓令式も50音に照らして考えるものの、基本的には表音的な考え方をします。例えば長音は長音符を使って表音的に表記するし、助詞の「を」は o 、「は」は wa で、分類上は表音式の考え方になると思いますし、日本式を主張している人も明確に自ら表音式であると明言しています。

 

純粋に仮名に従うというのはほんとに少数派で、これを言うと小学校で教えているローマ字レベルだとか、幼稚な発想でローマ字の邪道だとか、変わり者の言うことだと言ってはばからない。このような批判はローマ字についての哲学、発音に従うのか仮名の構造に従うのかという基本的な差異を全く理解していない人の発想です。

 

アルファベット自体が表音文字であるから、発音に従った考え方が当たり前であるとすると、どうしても実際の発音はどうかということにこだわることになる。すると現実の発音どおりにいかない曖昧な部分は丸めて考えざるを得ず、表音式ローマ字の限界を常に意識しなければならない。

 

そこを「仮名に従う」という考え方をすることで一本筋が通る。私はそう思います。具体例を言えば「ぢづじず」の書き分けがまさにその典型です。これは発音の違いではない。仮名遣いの違いです。そして、仮名文字もまた表音文字である。それが言葉の構造や歴史的、文化的な意味があって仮名遣い(スペル)が決まっているものです。(現代仮名遣いは戦後のどさくさに決めたいいかげんなものだと言う人がいますが、だから何だというのでしょうか。今や権威を持っているということが重要です。正書法というのはそうやって決まるものです)

 

私は、その1億人以上の人が従っている仮名のスペルに従うべきだと言っているわけです。そこでこそ日本語としてのアイデンティティが保たれる。

 

言いたいことをうまく言えなくてすみませんが、価値観の問題です。

アルファベットは欧米の表音文字です。しかし、それを文化から切り離して純粋な記号として日本語に導入するときに、欧米の価値観でさえも日本語は従わなければならないのか?そんな道理はないはずです。

 

舌足らずなところは、どうか賢明な方々の豊富な知見によるご推察に期待いたします。

 

表音式ローマ字が間違いだと否定しているのではなく、考え方が違うということです。私は仮名に従うほうを取るという一つの意見です。

 

ちょっとしつこいようですが、出雲が「いづも」と仮名で書かれる場合、おそらくですが、発音は「いずも」なのかもしれないし、人によって違うのかもしれない。これを仮名に従うローマ字では仮名で「いづも」と書かれているのならそのとおりに  Idumo と書く。でも、役所などでは「いずも」と書いているというなら、その場面では Izumo と写す。発音ではなくあくまでも仮名でどう書かれているかを見るということです。助詞の「を」も発音がどうとかではなく、仮名でそう書くのなら wo と書く。「私は」も watasi ha と書くということです。表音式ローマ字からすると幼稚な書き方に見えます。でも、仮名に従うローマ字では「仮名を基準にしてスペルを決める」ということです。これを発音を基準にして考えると、一体「出雲」の発音は実際にはどうなのかという非常に難しい結論を明確に出さざるを得なくなります。

 

実は、「仮名に従うローマ字」は私独自の発明による方式なのではなく、ISOで議論されている「厳密翻字(日本式系統の可逆的翻字)」の系譜の考え方そのものです。唯一違うのは私は母音で続く形態素を q でわけるといったことぐらいです。つまり、これは「変なローマ字」というわけではなく、私のオリジナルでもないものです。ただし、ISOの厳密翻字の考え方は逆変換可能でなければならないという命題を持っているので、そこの考え方の哲学が私とは根本的に違う。この相互変換にこだわると q という発想はおそらく出てこないと思われます。

 

厳密翻字のローマ字というのは規則にしばられているので、考え方そのものは私は好きではないのですが、相互絶対変換などということにこだわるのではなく、日本語を表記するのにしっくり来るとか日本語本位の考え方をしたいということです。q もそういう発想から出てきたもので、仮名に従うローマ字の核心です。

 

しかし、形態素という概念が学問的にも難しいという。いや、それをガチガチに定義しようとするから難しくなるのであって、我々がふだん話すときの「格子」kousi 「子牛」koqusi は当たり前のように区別して発音し分けているわけです。それを q であらわすのは自然なことだと思う。

 

q を入れるかどうかの判断は、例えば「夫婦岩」の場合、「めおと」は形態素という意味なら厳密には「め+おと」で分けられるのかもしれないけれども、分ける意識は薄いので Meotoqiwa が一般的だと思う。と言うと、これはいい加減だとか混乱していると言う。そうではなく、言葉の「センス」を求められていると考えてもいいのではないか。日本が「にほん」か「にっぽん」かとか洗濯機は「せんたくき」「せんたっき」のどちらが正しいのかと無理に決めて統一しなければならないということではなく、感性の違いとして、むしろ言葉の柔軟性とか豊かな表現の違いと捉えるべきことで、q も実際にはほとんどごくまれにどちらでもよいという場合もあるというだけの話だと思います。

 

それを「形態素」などという難しい概念を持ってこられても困るというわけです。しかし、一般的にあきらかに普通にだれもが区別しているものを説明上、形態素の定義が難しいからといって、それならいっそのこと区別しないというのはおかしくないですか?

 

卑近な例を挙げると、ドラえもんは「ドラ」がカタカナで「えもん」はひらがななので、無意識なのか意識的なのかわからないけれども「ドラ+えもん」という形態素の意識があるから文字種を変えて 分けて書いている。だから、この場合は私の考えでは Doraqemon ということになる。

 

では、ドラミちゃんのノリでドラエちゃんという妹キャラがいたとして Dorae ちゃんでいいのか「ドラ絵」ちゃんという字を当てているなら Doraqeちゃんという表記もあり得るよねという話をすると、そんなややこしいことを一体だれが考えるんだ、くだらないといって一蹴される。

 

じゃ何で「ドラえもん」というあえてカタカナとひらがなで形態素を分けたような書き方をしたんでしょうね。それを区別する意識が日本語にあるからでしょう。くだらないと言うなら、ドラエモンと全部カタカナなりひらがかで書けばよかった。でも子供向けキャラクタの名前ですら、そこを区別する意識がある。

 

くだらない話をしているのではなくて、ローマ字でも q を使って区別する習慣があれば、こうやって言葉の見え方がより繊細になる。日本語にとって悪いことじゃないでしょう。それを難しいからといって跳ねてしまうのは方式の純粋性しか考えていない不誠実極まりない態度だと思いませんか?

 

実際のところ、言うほど特殊なローマ字ではなく現行の9割方同じで、そんな特殊な話をしているつもりはないです。(参考「真夜中のドア」の歌詞を書いてみた)

 

ヘボン式で書いたところでそもそも日本語のローマ字なんていうのは外国人にとっては読みづらいことに変わりはない。そして、その読めなさ加減は日本式で書いたものと実は大差ない。

 

それを「ヘボン式で書かないと外国人に理解できない」と過大に思い込んでいるフシがある。でも、ヘボン式は発音に従っているので、ここはどう書いたらいいだろうかと迷う箇所が必ず出てくる。これはローマ字表記に慣れれば慣れるほどその矛盾点が気になってくる。

 

仮名に従うローマ字では仮名文字による表記に沿って書くだけなので迷いがない。絶対的な基準があるわけです。慣れれば慣れるほどしっくりと日本語の意識にもなじんでくる。

 

q を入れるかどうかという点で綴り字上で意見のわかれる場面が稀にあったとしても、それは理不尽な q の用法上の技術的な問題ではなく、その言葉をどう捉えるかという考え方の違いから来るものなので、表記に見解の相違があったとしても、むしろその人のその言葉に対するイメージの違いを綴りとして柔軟に表現できるとも言えるではないですか。

 

具体的言うと、仮名ではトモオという名前の人はこれ全体が自分の名前だから TOMOO でいいと思うならそれでいいし、智雄という漢字表記を意識している人なら「とも+お」TOMOQO と書きたいと思うかもしれない。これをどちらかに統一「すべき」であると押し付けるのではなく、自分の名前はこうだという主張をQに込めることができる。これは混乱とか不統一の話とは違います。ただ、いきなりTOMOO という表記を見たときに日本人じゃなくてMr.トモーか、場合によったらタムー?と読むかもしれない。TOMOQOなら最後のO は夫とか雄とか男なんだろうなと容易に想像できる。まあQを知らなきゃ智子になっちゃうけどw、そこはQの知名度を上げてもらうしかないですね。

 

ヘボン式が標準である。これはいいとして、考えてほしいことがあります。

標準というものは理屈によるものではなく歴史的な偶然とか成り行きでそうなったといった意味合いがあって自然に決まるものです。だから、ここでヘボン式を否定するのは標準の成り立ちの歴史を否定することになるので、一概に批判することはできない。

 

だからといって、もう考えなくていいのではなくて、でもやっぱりこれはおかしいと一人ひとりにもっと考えてほしいわけです。