仮名に従うローマ字で書くべきだと10年以上前から主張してきたが、だれにも相手にされないしw、議論しても重箱のすみをつつくような反論しか返ってこないからもう諦めてはいる。でも、目の黒いうちは言うだけは言っていくつもり。

 

ローマ字は日本語の国字ではないので、その正書法に完璧を期すとか、そんなことは必要ない。日本語の正書法は仮名文字で決められており、ローマ字はそれを写すものでしかない。発音にのっとって、例えば「憩う」と「移行」を長音で区別したところで、仮名は同じ「いこう」になっている。とりわけ、表音式ローマ字の「長音」の概念が混乱を招く最大のがんだと思っている。

 

「ローマ字を表音式に基づく正書法で」とかいうのは昔のローマ字国字論を引っ張ってる話で、今何が必要かといったら、音どおりに書くのではなくて国字の仮名文字と一致させて「スペルを決める」ことではないか。外国人に読みやすいとかいうのは、英米人のみを対象にしているようにしか思えないし、そもそも日本語を知らない外国人にはどんな方式であれローマ字はまともに読めないと思ったほうがいい。

 

(到底論文などではなく、継ぎ足し継ぎ足しでメモを書き連ねていくうちにまた支離滅裂でだらだらとまとまりがなくなりました。お許しください。どうか辛抱強く読んでいただいて、頭の悪い私が何を必死に伝えようとしているか、ご理解いただけると幸いです)

アルファベットは表音文字であり発音のとおりに書くのが当たり前で、英語の習慣にのっとったヘボン式で書くのが最も現実的であるというのが今の風潮だと思う。でも、カタカナ英語の発音の枠組みの中でのヘボン式の読み方でアルファベットのイメージが固定化されてしまうと思う。

仮名に従うように書くことで綴り字と発音は違うものだと意識して、日本語も英語もちゃんぽんに同一次元で考えずに英語は英語の発音としてスペルを読み、日本語は日本語の発音でアルファベットを読むことが大事であり、ヘボン式を使わずに仮名に従って意識的にローマ字を書くことは、これからの英語教育にも必要にして切実なことだと思う。これをヘボン式で「同一次元」で考えてしまうから、英語の発音ができなくなるのだと思う。

 

要は、ローマ字はカタカナ読みをして、そのローマ字が「正しい」表音式ローマ字で「音のとおりだ」という認識を持ってしまうとカタカナと対応しているヘボン式ローマ字の読み方が「正しい」ということになり、外国語が読めなくなる。本来、アルファベットは実際の発音とは厳密に対応していないものだと考えないといけない。

「表音式」という言い方そのものも誤解を生む。この「発音のとおり」という意識が後世末代にまで害悪をなすと確信している。

 

今回のニュース(ローマ字表記の見直し)を聞く限り、もう時効だからヘボン式で統一してしまおうという流れになるのは確実で、日本人にアルファベットのイメージに変な癖をつけたまま、これからも外国語下手として有名を馳せていくことになるんだろうなと思う。

もちろん、ローマ字の影響だけで日本人の英語がカタカナ英語になっているのではなくて、仮名文字の存在そのものが原根。だからといって仮名が悪いのではなくて、仮名文字によって日本語は発音されている。どんな言葉でも仮名文字で書くと日本語の発音になる。

 

ヘボン式ローマ字は英語など外国語のカタカナ読みをさらに助長させてしまう。だからローマ字は日本語独自の方式によって固有の方法で書くべきであり、英語と区別していかなければならない。残念ながら、いくら言っても聞く耳を持たれない。

外国人にとって読みやすい日本語のローマ字とは何か?そんなものはありはしない。読みやすいローマ字なんて主観じゃないですか。絶対的な指標でもあるんですかね。英語っぽいとか?大体、日本語のローマ字なんて外国人にはまともに読めない。促音を代表するように仮名の読み方は日本語独特なので、アルファベットで書いてあってもフランス語を学んだ人以外はフランス語は読めないのと同じ。それを日本語はヘボン式で書けば読めると思っている。少なくとも「読みやすい」と思ってる。そんなことはない。千葉は Chiba と書いたほうがかっこいいと日本人が勝手に思ってるだけでしょう。

 

表音式で考えると現実的に見て英語に最大公約数で音を合わせるヘボン式が最も妥当なように思われる。でも、もし心ある外国人であれば、合理的な理由や意味がわかる綴りであれば、むしろはるかに学びやすいと思うだろうし尊敬もするようになる。今のヘボン式至上主義はほんとうに残念。

 

一体、ヘボン式で書いて長音符も省略されているようなものを外国人にどう読んでほしいんだろう。

発音として「近い」もので読んでもらえればいいと言う。いや、近いものですら読んでもらえないのではないか? だったら、発音なんかより「スペル」さえ決めておけばいい。そのスペルが正式な仮名の綴りに裏打ちされているほうがより権威のある綴りだと言えないだろうか。

 

井上を Inoue と書いたってまともに読んでもらえない。ハワイにある Inouye 空港は「井上」をより英語に近づけて苦し紛れに書いたものらしいけど、それすら「イヌイェ」としか読まれない。

(ダニエル・K・イノウエ国際空港と日本語では書くらしいが、Inouye をイノウエと読むのはおかしくないか?それこそ表音式だと言うならダニエル・K・イヌイェ国際空港でしょ?)

 

井上を Inoque と書いたら猪木ボンバイエみたいになる?知らんがな(´・ω・`)

少なくとも仮名に従うローマ字では「イノーエ」ではなく「イノ・ウエ」と読める。
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一応、私の主張するローマ字の考え方を書くと次のようになる。(ばかなのでわかりやすく書けない)

仮名に従うローマ字での「q について」

1.単語を一綴りで書くとき、語中の形態素の初めが母音(a i u e o)で続く場合、前の形態素の末尾に q を置く。(q は声門閉鎖音由来の黙字と考える)*形態素は一般的には自由形態素を考えているので、雨脚は ame + asi の形態素で成り立つので「あま」と音が変化しても「あめ」という形態素であるとわかるので amaqasi となり amaasi としない。(わからなければ辞書を引けばいい)

 

この形態素は漢字なりでどう書いているかを見れば大半は簡単にわかる。地域をチーキと発音していても「地域」と漢字2文字で書くから「ち+いき」だと普通の人なら簡単にわかる。というより、それがわからないと発音やイントネーションもおかしくなってくるはず。「体育」を「たいく」と言ってる人もいるというが、漢字で「体育」と書くには「たい+いく」と考えないと書けないはず。静岡を「しぞーか」と言う人がいても「しず+おか」とわかっていなければ静岡と漢字で書けない。

 

ただ、慣用読みとなると、大分(おおいた)とか梅桃(ゆすらうめ)、青梅(おうめ)、弥生(やよい)、などで漢字から類推できないかもしれないけれども Ooqita usuraqume Oume yayoi でいいと思う。*「やよい」は「いやおう」から来ているとしたら「い」 は文法的形態素だから q を入れない。

 

そんなややこしいことをいちいち覚えるのかと思うと鬱陶しいが、例外は何にでもあるし数も少ないし大半は直感でわかる。どうしてもわからなければ辞書を引けばいい。言葉の勉強にもなるし、q を入れるかどうかは言葉の捉え方によって違う場合もあり得る。そういうゆらぎがあって何の支障もない。

 

例  一期一会 itigo itiqe 出会い deqai  奥羽地方 Ouqu tihou 鴇色 tokiqiro

   濡れ縁 nureqen  妹背牛(町)Mosequsi  萌え出ずる moeqizuru(新仮名遣い)

   喜一郎 Kiqitirou ドラえもん Doraqemon 構成員 kouseiqin 広岡 Hiroqoka

   御園生(みそのふ・みそのう)Misonoqu *これは言葉の捉え方なので Misonou でも構わない。しかし表音式では Misonō と長音で書くらしく、長音符を省略してしまうと Misono と同じになる。(これはおかしい)

    永遠 eiqen *エーエンと読もうがエイエンと読もうが読み手の自由。綴りは「えいえん」と仮名遣いで決まっている。発音がどうかではなく仮名でどう書いているかが重要。

   投影 touqei 都営 toqei トゥエイ tòuei(テキトーな変な仮名綴りにも対応。形態素境界はないから q は不要。ここで使われている頭上符は、次のような例がある。

   ツァラトゥストラはかく語りき Tùaratòusutora ha kaku katariki

   シィー・ミィー・コェ(ミャンマーの舞踏名)Syii Myii Kóe(どう発音するのか不明でも仮名に従うルールによる拡張表で書ける)*表音式では勝手にシー・ミー・コエだと断定しないと書けない。

 

*この頭上符(ダイアクリティカルマーク)については特殊な外来語表記などで使う。ほぼローマ字の用途から言って「だから何?」的なもので、わざわざローマ字で書く場面はないはず。


ダンス&ボーカルユニットのPerfume/パフュームをわざわざ「ローマ字で」書こうと思うか? 表音式ローマ字信者が 「ティとかトゥも書けないのかw」 と突っ込んでくるので、完膚なきまでに詳細に検討したまで。外来音に対する柔軟性はおそらくヘボン式を凌駕する(この奇っ怪なカタカナ綴りは一体どう発音するんだろうというものにまで対応できるという意味で)。

 

一応補足すると、

 

(補足)

アキュートアクセント é など (発音としては次の母音とあわせて2拍で読むか、または不明のとき)

グレーブアクセント è など(とりわけ è=y ò=w と定義する)(次の母音とあわせて1拍とする)

 

グァテマラ(仮名表記)
Gùatemara グァテマラと仮名小文字どおり4拍で読むイメージを示す
Gúatemara 実際にはグアテマラと5拍で発音しているイメージを示す
(どちらか不明な場合はアキュート・アクセントでGúatemaraとして仮名小文字を示す)

とりわけ発音を注記しないなら Guatemara で十分である。

*gwa は仮名に従うローマ字では「グヮ」が対応する。表音式では「グァ」とあれば gwa だろうと鼻高々に言うが本当にそのように発音しているか?
 

この違いは、続く母音字とともに2拍で読むか1拍で読むかの違いである。そして仮名文字では2文字目が仮名小文字となる。仮名文字にはない本ローマ字独自の注記方法であり、基本的には注記なので省略する。例えば、仮名文字でトゥ・シューズと書いたときのトゥは短い[tu]ではなく「トウ」と、おそらく二重母音のようなイメージで読まれるカタカナであり、ショートスティと書いたときのティは短い[ti]ではなく「テイ」という二重母音のようなイメージのカタカナである。仮名に従うために、ヘボン式で言うように ti = ティ、tu = トゥと仮名の読み方は一意では捉えない。しかし、我々は日々、それらの仮名を「読み分けている」。ローマ字もそれに準拠すればいいし、場合によっては注記符号で正確な発音にも対応できる。しかし、これはわざわざローマ字書きする必要のないものばかりである。表音式ローマ字ではむしろこのようなどうでもいいことばかりに汲々として本来の日本語のローマ字表記を不自由にしている。

 

アゼィリア(仮名表記)azalea(英語表記)*一般には「アゼリア」だがたまに小文字も見る

 Azéiria アゼイリアのように2拍で読む場合

  Azèiria アゼィ(ズィ)リアのように1拍で読む場合

 

歴史仮名遣いまで広げて考えれば、手水場てうづば(現代仮名遣いでは「ちょうずば」)と外来語の「ステューデント」を例に取ると、téuduba / sutèuudento のように拡張して考えることができる。(仮名に従うのだから旧仮名遣いにももちろん対応できる。ただし、「っ」(大きい仮名)が促音かどうかを見分けたり、「てう」の場合は「てぅ」のように考えるなど表音的な加工が若干必要になる)

 

難しい? いや、一般的なローマ字では縁のないものなので、特殊な用例では難しくなって当たり前ではないか。むしろ筋さえ通っていれば易しいと言える。

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さらに、前の形態素が撥音「ん」 n で終わるときのみ、続く形態素が y / w で始まると拗音と紛れるので母音のほかに半母音 y / w が来る場合でも q を入れる。

 

q によってすべての形態素の境界を区別するものではないし、q を表音的に声門閉鎖音のようにとらえるものでもない。上記の条件のときに一律に q を入れると決める。(もし q を入れるべきか否かで悩む場合が仮にあったとしても q のシステムが無効になるわけではない)


  なお、撥音「ん」については、単独の子音 n と撥音の「ん」を日本語で区別しても意味がないので撥音は単独の n であらわすと定義する。よって、これに q を続けることで続く母音(半母音)と自然に発音を分けることになる。


例 金曜日 kinqyoubi  範囲 hanqi(促音は発生しない)
   圏央道 Kenqoudou 
   三和 Sanqwa (nwa ぬゎなどという綴りは「ない」と決めつけず原則どおり q を入れる。


2.続く形態素が子音字で初まるときに q を入れると促音「っ」になると定義する(単独の「っ」も q であらわす)。子音字を伴わない促音「あっあ」などは q を重ねる。外来語では形態素にかかわらず子音字の前に q を置くと促音になると考えるので q = っ と考えても差し支えない。厳密には「っ」は仮名の長音符「ー」同様、仮名文字「っ」に対して q に置き換える(翻字)するものではない。あくまでも意味としては声門閉鎖音(的)なもので、ある条件になると促音となる。


 例 買った kaqta  突破 toqpa マッハ maqha  イッヌ iqnu こらっ! koraq ! 

    あっあ aqqa

 

3.ローマ字が読めない外国人には q は黙字だと説明しておけばよい。どんな方式で書いても日本語を学ぶつもりがなければ読めない。日本語では予想外なところにも促音が入るので子音を重ねるだけでは対応できないし、子音を重ねたところで外国人にはどのみち読めない。

以上によって、必要に応じて[ ' ]で分けるという曖昧な要素はなくなり、すべて原則どおりに綴ることができる。記号は使わないから省略もされない。
 

q のイメージの理解の助けになるかはわからないが、英語はCVC/CVで音節が成り立っている。日本語では基本CVで、q は見かけ上CVCのイメージになる。公園は kouq + en 。だから「原則として」 q は語頭には来ない。CVCを閉音節、CVを開音節というので、いろいろな使い方をする q を個人的には「閉音文字 q」と呼んでいる。(まあ学者先生に言ったら苦笑されるだろうが)

 

では「言葉っていうのは」 の 「って」 をどう書くか。単純に考えたら「って」は離して書くから閉音文字の q が語頭に来て qte という綴りになるのには違和感がある。これは議論の余地はあるが Kotoba 'te iu no ha と私なら書く。「って」というのはくだけた口語で省略の ' のほうがしっくりくる。省略されて促音が「発生する」というイメージで「' 」が促音をあらわすわけじゃない。
 

q を使うという奇抜な方法に「そんなばかな」と思うかもしれないが、使い慣れれば慣れるほど、これほど日本語にしっくりとなじむローマ字はないと思う。(音声記号で声門閉鎖音は ? の下の点を除いたような形をしているので、それによく似た語形の q を使う)

 

なぜ皆表音式に頑なにこだわってしまうのだろうか。表音式ローマ字を主張する人と議論して感じるのは、明治以来連綿と議論されてきた結果の重さを知れ。お前のような無知蒙昧な人間が先人のローマ字論争史を無視して軽率な思いつきを言うなと最後は口角泡を飛ばしてくる。もうこうなると表音式に洗脳されているとしか思えない。もっと冷静に仮名に従う意味を考えてほしい。

 

仮名に従えば基本的に仮名で書いてあるものならすべてそのままそれに従って書けるので 「奥羽」(おうう)Ouqu なども悩むことなく普通に表記できる(漢字など実際の表記でどう書かれているかも参照する)。仮名で「おお」と書くなら oo であり、「おう」と書くなら ou とするだけなので長音符も要らないし、そもそも長音は明確に日本語では定義できない。また符号で書いて省略していいものでもない。2音節の仮名2文字であって母音の種類がaiueoのほかにあるわけではない。「ああ」 aa と 「あー」 ā を区別しても意味がない。意味があるとしたら間に形態素がまたがるときだろう。「長雨」は「ながーめ」じゃなくて「なが・あめ」だから、そこに q を入れればいいだけの話ではないか。長音の区別など要らない。

 

声門閉鎖音と言うと、そんなこと言ったら母音で始まるすべての言葉に q をつけなきゃいけなくなるのかと言う。そういう表音的なことを言ってるんじゃなくて、長雨をアクセントとかイントネーション以外に「発音」だけで区別しようとしたら、ナガーメに対してナガ・アメと声門閉鎖音を入れるでしょう。それを「利用」する。声門閉鎖音を全般的に区別しろなどとは一言も言ってない。また、nagaqame と書いたからといって必ず声門閉鎖音で発音しなければいけないとも言ってない。実際の発音では長雨をナガーメと読んでも構わない。母音で続く形態素の前に q を一律に入れようと言っているだけ。それによってローマ字表記で困っている問題の大半が解決する。

 

*長音符は要らないというのはローマ字の話であって外来語のカタカナ表記の長音符(ー)は便利。つまり「アー」とカタカナ表記したらローマ字では「ふりがな方式」で「ああ」 aa と考えればいい。つまり「あー」=「ああ」である。「ー」は踊り字(々」だと解釈すればいい。(表音式では長音符を使うから「バレー」と「バレエ」の区別ができるのだという。表音式は音の違いを区別するのであって、これは単に「用字」の違いに過ぎないから表音式ローマ字でも区別する対象にならない。

 

宝永院という仏閣があったとしてヘボン式で Hōeiin では宝永ーはいいとしてー永院はエイーンになってしまう(愛飲ならそれこそ志村けんみたいに「アイーン」になる)。発音のとおりというなら ei は ē と長音で書けば Hōēin になって形態素とも合致する。でも映画は eiga と書いてるんだからヘボン式の規則を大幅に変えないといけなくなる(変えたところでアイーンは解決しない)。

 

ちなみに、chatGPTで宝永院はどう書くか聞いてみたら Hōei-in だという。(そしてご丁寧に長音符は省略することもあるとも書いている)「院」を自立語だと考えればむしろ Houqei In と書くべきだろう。当院ではとか院の方針としてとか言うかもしれない。自立語でないなら中途半端な - でごまかすのが気に入らない。試しに Houqeiqin はどう読めるか聞いてみたら「間違い」である可能性が高いので「真っ当なローマ字表記」をして質問すれば答えると言われて苦笑した。ローマ字研究家界隈では自分の主張するローマ字以外を「間違い」と言う風潮があるw それをどこからか引っ張ってきたんだろうかw

 

何度も言うが、私は発音ではなく仮名に従えと言ってる。 Houqeiqin なら仮名遣いどおりに安心して書けるし、ちゃんと仮名を読むのと同じに「ほーえーいん」と読める。綴りが長いのが何だというのか。長音符を省略して Hoein でいいというほうがよっぽど気持ち悪い。長音は長音符を使って省略しろというのがおそらくローマ字で一番引っかかる部分だと思う。英語と日本語を根本的に混同している。長音は長音符で書き符号は省略しないといけないと思い込んでいる。

 

(ちなみに、宝永院は実在するかどうか知らないけれども、例として挙げたので、もし書くとしたら Houqeiqin よりも Houqei In のほうが妥当かもしれない。分かち書きは難しい)

 

日本語のローマ字を混乱させている最大の欠陥は「長音」などという謎の概念を持ち込んだからだ。みんなそれに惑わされて、長音符だと省略されてしまうから、やれ代書法だの h を添えてあらわしてみたりだのと悪戦苦闘している。こんな長音という概念は抹殺する必要がある。

 

その方法は一つ、母音が続く形態素の境界に q を入れることだ。これによってもはや「長音」に腐心する必要がなくなる。あとは ei をエーと読むかエイと読むかのような問題だけが残り、これは国字の仮名文字と全く同じ事情となる。仮名に従うことで、表音式ローマ字のようにそのどちらかに表音的に決めなければならないなどということもない。正書法の仮名と全く同じだからである。

 

それをローマ字といえば表音式ローマ字として表音至上主義でみんな頭が凝り固まっている。なぜなんだろうか。正直、理解に苦しむ。しかもその表音主義たるや英語に準拠して考えるという。ローマ字は英語ではなく日本語として考えるべきものだろう。そしてその混同が日本人の英語下手まで招来しているというのは冒頭に書いたとおり。
 

幕開け makuqake のように、別に q を入れなくても読めるじゃないかという。でも範囲 hanqi のように入れないと読めないものだけに q を入れるのは表音的発想で、そうじゃなくて条件に合えば q を「一律に」入れていく。q を入れると日本語のアクセントともしっくりなじむので決して無駄な綴りではない。石井 Isiqi とすればイシーというイメージじゃなくてイシ・イとしっかり読める。ii の間に何かあるからイシ・イと分けて読むわけでしょう。その「何か」を q であらわす。実際の発音はイシーになっても構わないんですよ。isiqi という綴り(スペル)はしっかりキマるでしょということ。

 

表音式ローマ字では形態素を無視している。(もちろん、形態素の語頭が子音のときに q を入れると促音になるから全部の言葉の形態素を区別しろと言っているわけではない。母音字が続くときにトラブルになるからそこは q を入れてすっきりしようと言ってるだけ。しかし、表音式ローマ字ではこれを蛇蝎のように嫌う。

 

イメージという点から言うと、仮名文字の特性で「カアル」とカタカナで書くと「カ」と「ア」の間を区切りたくなる。だからカタカナで「カール」(人名)と棒引きで書くと読みやすくなる。「カアル」と書くと「カエル」みたいなアクセントのイメージになる。

 

ローマ字の場合は逆で、aaと書いたときに区切りたくなる感覚はない。Kaaru なら自然に「カール」と読める。むしろaaを分けて読むほうが不自然に感じる。おそらく、これは仮名のような音節文字とローマ字のような音素文字の違いからくるものだろう。だから仮名に従う場合、この違いも考慮する必要があり、q を入れることでより仮名文字との親和性が高くなる。

 

よく言われることに「長雨」はnagaame となり aa が長音なら長音符を使うはずだから aa と書いてあればそこに形態素の切れ目があることがわかるのだと言う。一見もっともらしい論理だがたまたまそれで解決することがあるというだけ。新潟 Niigata の ii はなぜか長音符を使わないから、その伝で言ったら「に・いがた」と読まなければならなくなる。長音を使えば形態素がわかるなんていうのは嘘っぱちだ。

 

「ローマ字では」母音字が続いていて形態素の切れ目があるときには逆に q を入れてやることで自然に仮名と同じ感覚で読めるようになる。これが仮名に従うと言いながら q を入れる大きな理由。仮名の読み方に「より近づける」ことができる。表音式ローマ字ではこの辺の配慮が全く欠けている。

 

q を使う本来の理由は、長音符を使わなくても迷わず読めるようにすること。長音とかいう曖昧な概念を抹殺することが真の目的。母音が続くときの形態素の切れ目がわかって読みやすい語がふえるよねとか言うのは結果論に過ぎないので、それを目的に q を使うわけじゃない。

 

「増井さんが麻酔から目をさます」

Masuqi san ga masui kara me wo samasu.

増井と麻酔を区別したところで発音は同じだろうと言われたら、まあ確かにどうでもいいかもしれない。でも、これを区別するのは q を「一律に」入れることにした結果で、形態素を分けるのを目的に q を入れろと言ってるわけじゃない。母音字が続くときと限定してはいるが、日本語としてすっきりする。この区別は無駄とは思えない。むしろ自然ではないか。

 

ヘボン式で英一郎を Eiitiro と書くと、iiの間に明らかに何かあるのに何もないかのように続けて書いているほうがおかしい。アルファベットで aa ii uu ee oo(ほかの組み合わせも同様)となったときにそれを「あえて」分けて読むというのは、初めから読み方がわかっている場合を除いて、すごく不自然である。座頭市をZatoichi と書くと、座頭の市さんというイメージが殺される。まあ座頭市の場合は q を入れて書くとしても Zatouqiti ではなくて Zatou Iti と分けて書いたほうがいいとは思うが。

 

ヘボン式では形態素の切れ目など無視をしてるから、なぜ o と i を分けて読むのか。なぜ o を伸ばして読むのか。Zatoichi で読めるのはその言葉を知ってるだけじゃないか。

発音を分けたいのなら「必要に応じて」  ' で分ければいいと言う。

 

 ' (あるいは - )で区切ればいいというのは安直過ぎる。

 

海津式ローマ字では ' (あるいは - )で区切ればいいといって、次の場合を挙げている。

 

1.複合語の語基と語基のあいだには、<'>(アポストロフィー)または<->(ハイフン)をいれる。
2.用言の語幹と語尾のあいだには、<'>(アポストロフィー)をいれる。
3.長音でよませたい母音字の連続は、その母音字の連続のあとに<'>(アポストロフィー)をいれる。
4.長音でよませたくない母音字の連続は、母音字と母音字のあいだに<'>(アポストロフィー)をいれる。
5.<ん><ン>のローマ字表記以外の<n>を、確実に/ン/でよませないためには、<'n->とする。
長音記号の厳密翻字以外の<h>を、確実に長音記号としてよませないためには、<'h->とする。
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いや、だから、そもそも何で ' で区切らなきゃいけない事態に陥るのかといったら 形態素を無視しているからでしょう。だったら、最初から一律に一定の条件になったら q を入れると決めておけば ' などの記号で区切らないといけないような事態は100%回避できるのですよ。

 

原則どおりの綴りで仮名のとおり安心して書けるようになる。q を入れる条件になったら、取り立てて分けなくても読めそうな綴りでも q を使うと決めてしまえばいい。そうすればローマ字の綴りで困る問題はほぼ解決する。

 

注)一律に入れるといっても、正解は1つじゃない。その条件になったら入れるということに決めておけば母音が連なって誤解が生じるような場合は100%回避できる。

 

ただ、ローマ字としての正書法(日本語の場合は仮名の正書法があるのだからローマ字の正書法は要らない)としては不統一になる恐れがある。q を入れたり入れなかったりということはあり得る。

 

例えば、ゲームでの話で言うとサカナのキャラの中に「ヒラメイタ」というのがいて、これはサカナの種類だから当然「ヒラメ」で切れると思うが「閃く」という言葉にも対応したダジャレで、しかもカタカナだけなので元の漢字ではどう書くかは示されていない(漢字で鮃板と書くなら Hirameqita で確定)。これではどこに q を入れるのか、入れないのかがわからない。

 

でも、それは困ることですか?困らないでしょう。むしろ意味の捉え方によって表記に柔軟性があるだけで、それは表記の不統一とは異なる。ここで結論を出さないと q が機能しなくなるわけじゃない。

 

ところが「長音」は別。長音という「概念」を表音的に定義するからにはどっちとも取れるような状態があっては困るんですよ。それは言葉の捉え方とか柔軟性の話とは違う。決着をつける必要がある。

 

2の「囲う」と「書こう」は仮名では「かこう」なのだから区別する必要はない。海津式は99式の一派で仮名に従うと言いながら、依然として「表音式」にこだわっているのは、基本的には表音式がベストで99式はその「代書法」に過ぎないと言っていることからもわかる。(海津式ローマ字と言っているけれども内容はほぼ99式で、仮名に従うというのは「やさしいローマ字」を実現するための「方便」と考えていて、仮名に従うローマ字の本質を曲解しているというか、この人は基本的に表音式ローマ字の考え方しかできない人なんだと思う。圭介をケースケと読むかケイスケと読むか ' で区別する必要はない。ここは「仮名に従う」という意味の本質を理解してないからこういう発想になる。そんなに区別したければクリティカルマークでも入れておけばいいと思うが、符号は特殊になるから使いたくないww。そりゃあね、「やさしいローマ字」を目指してるんだからw でも結果は ' の乱用でわけがわからなくなっている。その矛盾に気づかないんだろうか)

 

q を使った「仮名に従うローマ字」なら、ややこしい ' で区切る必要もなければ、煩わしい長音符も要らない。アルファベットだけでスッキリ書ける。q を入れる頻度もさほど高くないし、慣れれば難しくないし、q を入れれば仮名のリズムともしっくり合って、むしろ q を入れないと気持ち悪く感じる。(文例

 

一応整理しておきたいのですが、「大井」と「多い」、「書こう」と「囲う」は仮名遣いとしては皆同じ「おおい・かこう」なんです。仮名に従うローマ字では仮名に従ってそのとおりに書くと言っているので、本来なら「多い」と「大井」も区別する必要はない。

 

そこで、形態素を分けるという話の中で「大井」は「大」と「井」という2つの言葉で成り立っており、形態素が母音でつながっているという q を入れる条件に合致するので「一律に 」 q を入れるという話で q を入れると言っているわけです。発音とか区別する必要があるから入れているという話じゃないんです。そうすることで、結果的に ' を入れて分けなきゃいけないような言葉がなくなる。大井と多いの区別を目的としているのではなくて、システムとして q を入れることで ' が必要なくなる。

 

発音が異なる「囲う」と「書こう」が両方「かこう」では「困りませんか?」と言うんですが、日本人が証人ですよ。ずっとどちらも「かこう」と書いて困っていない。

 

なぜかというと、日本語は漢字仮名交じり文で初めて理解できるので、どのみち仮名文字だけローマ字だけでは読みにくいのは当たり前で、正書法としての仮名があるのだから、それに従うだけでいい。もちろん、それは決して完璧なものじゃない。

 

仮名なりローマ字の表音文字だけで書いたものでは日本語は完結しないからです。その背後に漢字仮名交じり文があって初めて完結する。そんな不完全な表音文字だけで書いた表音式ローマ字で細かい発音の違いにこだわったところで、それで言葉が完全に区別できるようになるわけじゃない。表音式で発音にいつまでもこだわって、いずれは発音だけで区別できるような日本語にしていこうと考えるのは、日本語をヨーロッパ語のようにしたいのなら別ですが、それは1000年クラスで歴史を逆行するようなものでしょう。海津式やローマ字国字論を企んでいるようなサイトを見ると訓読みの漢字をやめてひらがなが多いことに気づくはずです。やがては音声だけで区別できるような言語にしたいからですよ。無理なんですよ、今更そんなことは。(それをやっちゃったのが隣のK国)

 

「囲う」と「書こう」の区別の話は「表音式ローマ字」で考えることなんです。つまり表音式ローマ字では発音が違うのなら区別しないと「表音式」を名乗れないわけです。

 

どこかにも書きましたが、仮名に従うローマ字は「仮名の欠点」にすら従うと言い切っているので、仮名は「かこう」なのだから検討しなくていいと言ってるわけです。だから助詞の「は」なんかも発音とは違うけれども、堂々と ha と書くわけです。話の流れが違うんですよ。

 

そこを考慮できる表音式ローマ字はやはりすごいですねと自画自賛するなら、ガ行鼻濁音とか公然と無視しているのはなぜなんでしょうね。だからそういう中途半端な発音で悩んでいるのなら仮名に素直に従ったらどうですか。実際、がぎぐげごは仮名に従ってるじゃないですか。だから、仮名に従えば万事解決ですよと言っているわけです。まあ万事解決というか変な横文字使えばモア・ベターwですよね?

 

よく、形態素を q であらわしても次に母音が続くときだけじゃないかというが、副産物として理解しやすい言葉がふえるのはいいことではないか。綴りがちょっと長くなるから何だというのか。メリットのほうがはるかに大きい。

 

「'」は省略をあらわすのが本来の使い方で、それにプラスして q の意味を持たせるのは悪手過ぎる。「-」も本来の使い方がある上に q の意味を持たせるのは無理がある。いずれにせよ q という「文字」として使うのがミソで、省略されてしまう危険を伴う記号にするのは安直過ぎる。意味も曖昧になる。

 

q は本来は声門閉鎖音由来であり、これを形態素の末尾を明示するのに利用している。母音が続く場合は発音を分ける働きをして、子音が続くと促音が発生すると定義しておけばいい。この2つの仕事をするものに ' で代用したらわけがわからなくなる。ましてや ' には「省略」をあらわすという本来の役割がある。

 

表音式では音声のみを基準にする。そして形態素とかいうのは長音符を使うことでクリアできると言っているが、実際はクリアできていない。


ここで重要なことは「形態素」と言う場合、文法的形態素(活用によるものなど分かち書きにも関係する)はここで言う形態素とはみなさない。これは例外として覚えるしかない。(細かく検討したら形態素というのはかなり難しいかもしれないが、活用語関連では q を使わないと考えればいい)

あくまでも「公園」は「公」+「園」だから q を入れるのは感覚としてわかりやすいし、漢字でどう書いているかを見ればいいが、接頭語、接尾語についてはどう考えるか検討の余地はあるかもしれない。(自分としては接頭語、接尾語も q で分けるほうがいいと思う。「お梅さん」 Oqume san

 

厳密な形態素としては「美しい」は utukusi + i に分かれるが、活用による文法的形態素なので utukusii と続けて書き、utukusiqi としない。「囲う」は kakou で kakoqu としない。(囲え、囲う、囲おうなどと活用する)


 例 囲う kakou 加工 kakou 憂える ureeru (x ureqeru)

    行こう/憩う ikou 遺構 ikou

    美しい utukusii  多い ooi  王を追う Ou wo ou (大井 Ooqi)


*「囲う」「加工」を表音的に長音で区別したところで、仮名では同じ「かこう」である。これを表音的に区別しようとするからややこしくなる。挙げ句、長音などというおかしな概念を入れなければならなくなる。つまり表音式で沼にはまるより仮名に従って書くだけでよかった。

 

「装おうとして」に至ってはローマ字で仮名のまま書くと yosooou としてと、何と o が3つも連なる(逆に特異な例で特徴ある綴りなので一度覚えてしまえばよみやすい、まであるかもしれない)。しかも活用にかかわる文法的形態素なので途中に q を入れることもできない。仮名でもやっぱり「よそおおう」と書いている。でも取り立てて困ってない。なぜかといったら普通は漢字で書いてるからだ。

 

そもそもローマ字とか仮名などの表音文字だけで書くこと自体が日本語にとっては不自然なので、仮名に従う以上、その不自然さをも引き継いでいけばいいだけだ。開き直っているわけではなくて、国字でも何でもないローマ字で仮にその解決を試みようとしてもあまり意味がないのではないか。仮名は日本語の国字であり正書法も定められている。ローマ字はそれを写すものに過ぎないのだから、それに従えばいいのであって、ローマ字独自に一体何をやりたいのだろうか。

 

ローマ字は表音文字だけれども発音記号ではない。仮名(これも表音文字)で区別していないものを何でローマ字では区別しないといけないのか。長音を区別するというなら、「憂える」「憂い」は表音式ではどういう発音をすると解釈するんだろう。(映画は eiga でしょ?これを表音式で「エーガ」と読んだら「間違い」となるのか?)表音的表音的と言いながら適当にごまかしてるだけじゃないのか。

 

イェという仮名表記がある。用例としては「イェメン」など。これはアナウンサーでも「イエメン」と4拍で発音している。それを表音式ローマ字を主張する人は誇らしげに ye だと言う。これの何が表音式かと。それこそ仮名に惑わされて ye だと思い込んでいるだけではないか。仮名に従うローマ字では「イェ」と書くのなら仮名のとおり「イェ」と書くだけ。発音は関係ない。(エを小文字にする方法は別途考えてある)

 

おそらく、明治時代のローマ字国字論の伝統を引き継いでしまっているから発音至上主義になるのではないか。ローマ字の「正書法」とか「正しいローマ字」とか言ってるのもそういった消息があると思う。明治時代は仮名文字といったら複雑な歴史仮名遣いでうんざりしていたから「仮名は発音を正しくあらわしていない」とか「害悪だ」という発想がある。ローマ字教育の現場でも「仮名に惑わされるな」とまで言っている。

 

でも今は現代仮名遣いという小学生でも知っているものがある。若干のゆらぎはあるが日本全国津津浦浦表記はほぼ統一されて権威すら持って日本語の第一次正書法と言われる。大事なのは発音ではなく仮名でどう綴っているかでしょう。

 

統一されているというのは「お父さん」は「おとうさん」という一般的な意味での話。たしかに「手懐ける」は「てなずける」で、懐くは「なつく」だから「てなづける」かと思ってしまうが地球が「ち」だからといって地震は「ぢしん」ではないのと同じ理屈で連濁音の扱いではないから「ず」「じ」になる。この戦後の国語改革についての賛否は差し控える。正直言って仮名で気に入らないところももちろんあるし「仮名の欠点」というのがあるのも認める。でも、戦後のどさくさ紛れに強引に決めたもののわりには、考えれば考えるほど非の打ち所がないようにすら思える。今や権威ある約束事として完全に定着している(私はむしろこれを支持する)。

 

あえて言うと、仮名に従うとは「仮名の欠点にすら従う」ということだ。なぜなら、基準として確かなものは日本語では仮名遣い「しか」ないからだ。発音を基準にしたら百家争鳴になる。どの音とどの音を区別するのかしないのか。音韻論でどうこう言ってもほんとにそれで将来的にも間違いないのか、不安しかない。

 

「出雲」は「いづも」と「いずも」の両方があるから仮名なんていい加減だという。でもこういう例外は何にでもあるもので何か「基準」を求めるとしたら雲を掴むような「発音」よりもはるかに仮名遣いのほうが確かではないのか。つまり仮名で「ぢ」と書くなら di であって、「じ」と書くなら zi と書くだけであり、ローマ字でどう発音するかに悩む必要はない。仮名でどう書いているかというだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

それを表音式ローマ字では書く段階で発音をいちいち判断しなきゃいけない。これってすごく難しいことを要求してますよ?だから全部(ji)zi zu に統一しましょうとか言ってるわけでしょ。これを私は表音式の暴力と言う。「出でよと言いながら出ずるとはこれいかに」と湯気を立てても仕方がない。仮名に従うローマ字ではどちらにすべきなどと傲慢に日本語の問題には一切立ち入らない。仮名でそう書いてあるのならそれに粛々と従うのみ。

 

LとRの区別も同じ。ラ行はRを使うと仮名に従うローマ字では「定義」するからLとRの区別は無視できる。でも表音式ローマ字でラ行はRを使うと口では言っても表音式を標榜する以上、LとRの区別を諦めたわけじゃないだろう。だからレモンをRemonと書くとき、それが「表音式ローマ字」だと言われたら気持ち悪くて仕方がない。いや、ほんとにRなの?と思う。Lではないのかと言う人もいるかもしれない。

 

が行鼻濁音も同じ。「表音式」と言うならなぜ音どおりに区別しないのか。仮名に従うならガ行は「がぎぐげご」しかないから g で対応すればよいということになる。ヘボン式などの表音式ローマ字は発音が発音がと言いながら実際は都合のいいところでは仮名に従っている。発音に従うといっても一体何の誰の発音を基準にしているのかがさっぱりわからない。時代、地域もある。国際化といえば英語だと思ってる人はヘボン式では英語の発音を基準にするという。でも、日本語のローマ字を考えるときに何で英語が出てくるんだろう。

 

日本語をローマ字で書く場合、ローマ字は仮名に従うべきだ。何度でも言う。

 

表音式に対して翻字式というくくりがあるが、機械的に1字1字翻字するのではなくて、仮名に「従う」と言っているから翻字式とは微妙に違う。(拗音の書き方など)

 

余談ですが、「従う」という言葉に引っかかる人がいる。ローマ字が仮名より上等とか下等とか言ってるわけじゃない。もっと言えば、そういう人はアルファベットのほうが上等だと思っている。頭悪いんかい。

 

あと、仮名に従うというと「ぎなた読み」で「ぎふとけんかしたことでぎふとけんかした」なんていうのをどう仮名に従えというのか言ってみろとおちょくってくる。 

 

「ギフト券貸したことで義父と喧嘩した」という漢字仮名交じりの文章がまずあってですね、それを分かち書きを入れて仮名文字に変換した第一次正書法の仮名が仮名に従うローマ字の対象なんですよ。「庭には2羽鶏がいる」のであって、そこにワニも埴輪も入る余地はないんですよ。まずは漢字仮名交じり文でどう書くかを考えて、それから仮名に写してローマ字化する。

 

仮名に従うということは、まず漢字仮名交じり文という原文が存在しなければならない。我々が音声でしゃべる場合も漢字の意識を必ず考慮している。そうでないと上記のぎなた読みのように日本語が通じなくなってしまう。漢字の意識があるから聞き取れるし、それを前提にして第一次正書法の仮名書きがある。それに従えと言っている。発音だけに頼ってそれに従うのではない。

 

話を変えて、そもそも「大通り公園」 Odori Koen を「大通り公園」として読ませるというのは英語風に読むことを想定しているのか、それとも日本語として「正しく」読んでほしいのかすら曖昧ではないのか。長音符を省略してしまうのは、とりわけ米英人にとっては音を伸ばすとか伸ばさないというのは発音の都合で、それを根拠に言葉を区別する習慣がないからだろう。要は英語の都合であって日本語とは何の関係もない話だ。

 

こんなローマ字では日本人なら「踊り小園」のようなイメージになる。「おおどおり こうえん」 Oodoori Kouqen と素直に仮名のとおり書いたらどうなのか。これなら「おーどーり こーえん」と仮名を読むのと同じに読めるではないか。一体何に気を使っておもねって必死に長音を区別し、それを必死に省略しようとするのか。何のためにこんな余計な苦労をしているのか。ローマ字は英語だと思ってるからだ。

 

日本郵政では「大阪」Oosaka も「小坂」Osaka もヘボン式で長音符を省略するのでともに Osaka になっている。どう決めようが自分たちで苦労するんだから知ったことではないが。

 

東京大学の英語研究部会では「弁当」はbento でも英語ではベントーとちゃんと読まれているんだから長音符は不要だと言う。地下鉄は chikatetsu と書けば外国人にもちゃんと読めるんだとか。この発想にはびっくり。東京大学っていうのが笑える。マジモンのあほではないのか。(昔見たサイトなので今もあるかどうかは知らない)

 

ただでさえ世界一難しいといわれる日本語で形態素がどうのと言ってローマ字をさらに難しくするのかと思うかもしれないけど、ヘボン式よりずっと易しい。「発音のとおり」に書くだけというのは実はものすごく難しいことを要求している。思いつきで幾つかの言葉をちょこっと書いただけで、ヘボン式でいいじゃんなんて軽率に言わないほうがいい。

 

考えれば考えるほど、表音式ローマ字ではじゃこういう場合はどうしたらいいんだろうかと頭を抱えてしまう場面に必ず直面する。仮名に従うローマ字は自分が小学校から知っている仮名遣いのとおりに書くだけ。私みたいなばかでも悩まずに書ける。形態素とか言うから難しいと思うかもしれないけど、易しい言葉が思いつかない私がばかなだけ。


一見複雑に見える仮名に従うローマ字でも一度覚えてしまえば直感で理解できるはず。大方の考え方は「99式ローマ字」(日本語のローマ字表記の革命的な発想の転換だと思う)を元にしているが、外来語表記で99式は迷走してしまった。また99式では q など使わない(つまり形態素はほとんど無視している)。99式の一派で海津式というのがあって末尾の促音に q をあてているらしいが、私はあんなものを参考にしたつもりはない。(99式は画期的というか、大げさに言うとローマ字の考え方を革命的に変えたと言ってもいいと思う。ただ、動機が不純なのでもう今は完全に私とは意見が合っていない。(動機が不純とはローマ字国字論を視野に入れているところ。正気かとw)

いや、わかってますよ?仮名に従うのに q を挿入するのは矛盾してる。仮名で区別しない形態素を何で区別するのか。(逆を突かれて痛いですよねw)

 

まあそうなんですが、その矛盾をあえて犯してまで日本語のローマ字では q を使うメリットのほうが大きい。あとよく言われることに、翻字式ローマ字など時代遅れだとか言われる。翻字式じゃないんですよ。仮名に従うローマ字ですよ。

 

また、99式の言ってる「代書法」も見当外れ。代書法とは ō と長音符を使って書く代わりに oo と書くという考え方です。(oo/ou と仮名のとおり書くべきだと言っているのに代書法なわけがないでしょうw 全くどこまで長音にこだわってるんだ)

 

アオミノウミウシという気持ち悪い生き物がいますが(毒もあるらしいから親近感があるw)、動植物名はカタカナ書きということになっている。漢字で書くと青箕海牛。これを知らないとカタカナだけではアオミノーミューシみたいなイメージになる(カアルとカエルの例とは逆の現象だけど)。この辺は仮名文字の欠点かもしれない。そこを形態素に q を入れることでその欠点をいくらかは補える。 aominoqumiqusi では綴りが長いじゃないかと言うがそれの何が問題なのか。アオミノ・ウミ・ウシとちゃんと意味までわかるではないか。

 

我が家のすぐ横に国道があって、毎日大きなトラックが走っている。車体に大きく CHUO と書いてある。「中央」という意味らしい。短い綴りのほうがかっこいいし TYUUQOU なんてダサい。そういう価値観で半ば洗脳されている今の現状で、今さら 東京も Toukyou に変えられるか?といったら無理がある。

 

まあ不可能でしょうねwww 

例えば、お洒落な「自由が丘のカフェ」をZiyuugaqoka no kahue と書いたら、何じゃそれになるし、ローマ字の「需要」から言って、だれもこんなダサいローマ字を求めてない。

 

せめて日本人の意識がもっと高いというか、こだわる人がいて、日本語ではこうなんだといって世界に向けて主張するくらいガッツがある輩がいてもいい(私は気弱だから無理だけどw)。それをヘボン式で英語にへつらっておんぶにだっこ。GHQ様、ヘボン式を押し付けてくれてありがとうとまで言ってる。恥ずかしくないのか? 「国際的」というのは英語に合わせることだと勘違いしている。

 

といって、日本人はもっとナショナリズムに目覚めるべきだと言っても果たしてそれがいいことかは自信がない。今の日本がここまで発展してこれたのも日本人のどうでもいいことにはこだわらないというか(そのかわり伝統、技術とかにはめっちゃこだわるけどw)、長いものには巻かれろというか、変なナショナリズムに凝り固まらないというか、そこはどこかのKとかCみたいなみっともない国と違って、そこがいいところなのかもしれない。仮名に従うローマ字も私の妄想的なこだわりと言えばそれまでで、ローマ字はかくあるべしと本気で言い出す輩が世の中にはびこると息苦しくて生きづらい世の中になりそうな気もするw。まあこういう考え方もあるということで自分の意見を主張だけさせてもらってる。(話が脇道にそれ過ぎ)

q は母音字で始まる形態素の境界、または促音をあらわすのに使うが、単純に発音を分けたいときにも応用して使える。「うまい」を「まいうー」と遊び言葉で言ったとき maiquu と q を入れることで「まい」と「う」をひっくり返した意味を持たせることもできる。(もちろん、たまたまひっくり返した音の最初が母音だったというだけの話ではある。)

形態素という概念がまだ曖昧だというのは認める。「幸せ」は語源まで遡ると「し+あわせ」になるので、人によっては siqawase としたり、一つの言葉なのだから siawase でいいとする人もいるかもしれない。巴も同じ。語源からすれば「とも+え」かもしれない。女性名で「さえ」は仮名文字だけで見れば Sae でいいが、「紗絵」という表記にこだわる人であれば Saqe と書いてもよい。

 

でも、これはローマ字の不統一というより言葉の捉え方の問題で、どちらにも対応できる「余地」があると言うべきではないか。(個人的には「幸せ」の場合はリズム的に siqawase がしっくりくる)

そのほか、直音の仮名は50音図にのっとって規則的に対応する(ほぼ日本式に同じ)。仮名小文字については拗音は y /w で対応し、それに外れるものは別途ローマ字表で示す。(以下略)
もう一つ、助詞の「は」「を」「へ」も仮名のとおりで ha wo he と書く。

 

ぼかぁ(僕ぁ)というのがあって、もちろん「僕は」を短縮したキザな言い方だけど、それは Boku 'a でいいと思うけど、これだと厳密には仮名のとおりでなくなるので悩ましいところではある。おかまさん界隈での「アッー」というのも Aqq としか書きようがない。仮名のとおりといってもほかにも変な例外はあるかもしれないので、あくまでも仮名に従うというのは基本的な考え方ということです。世の中に完璧なんてものはない。

 

ローマ字というとすぐばかにしてくる人がいるが、まあ固定観念にとらわれずじっくりよくお考えください。

 

この仮名に従うローマ字で片っ端からローマ字で書き起こしているが詰まるところはない。仮名のとおりなんだから。もし詰まるところがあるとすれば仮名では書けないというときだけ。(でも、仮名では書けない言葉があるとしたら、それは日本語じゃないということですよ)

 

ただ、ローマ字の方式にかかわらず「分かち書き」は難しい。昔、田丸卓郎という人がいて「ローマ字文の書き方」という本を半分まで読んだが「3人の親」(sannin no oya と sanninno oya を区別する)で発狂した。

 

柴田武氏の「東大システム」というのが昔あって(今はどうなってるか知らない)私は一応はそれに従っている。

 

仮名に従うローマ字では個人的なこだわりがあって j を使っていた。(過去の仮名に従うローマ字の記事ではヤ行はすべて j となっている)

 

自分のローマ字仮名変換システムのキーボードの設定では、「きゃ」はkjaでも出るようにしているが、実際はほとんどkyaで打っており、自分ですら実用上混乱することがあった。 j でなければならないという明確な理由もない。j を使うなら y を使わないというだけなので、ここは意固地にならず y でよい。