例えば「さしすせそ」のそれぞれに仮名小文字が続くとき、仮名遣いでは「あいうえお」「やゆよ」「わ」の小文字(促音の「ッ」は別途考えるのでここにはあえて入れない)を続けると日本語になかった音節もかなり柔軟に表現できる。拗音的な表記の柔軟性はヘボン式以上に応用度が高い。(正確な発音を区別できるかどうかは別問題として)

 

ミャンマーの舞踏で「シィーミィークェ」と仮名で表記されたものがある。正直どう読むのかはわからない。これをローマ字で書き写すとしたらどうするか。ヘボン式は表音式なのでまずこれを「どう読むべきか」と考えて「シーミークエ」だろうと断定してミャンマー語に詳しい専門家の仮名表記を無視するだろう。これを私は表音式ローマ字の暴力と呼んでいる。(シィーミィークェをシーミークエと音読するだけなら暴力とは言わない(多分声調に関係した読み方なんだろうなと思うけど)。それを勝手に綴りを変えてローマ字化するのは暴力でしょうということ)

 

日本語の国字は仮名文字であって、発音はそれに付随したものに過ぎず、不安定不確定なものだ。だからローマ字も発音ではなく仮名の綴り字を基準にするべき。どう読むかは読み手に委ねる。これが正しいあり方ではないか。

 

日本語はローマ字では書かない。仮名で書いているのだから。ローマ字化するというのは単に発音どおりにするという単純なものではない。発音どおりで済めばいいが、確定した発音なんてない。あるように思うのは表音文字の仮名で書いてあるから確定しているように勘違いしているだけ。「映画」ですら「えいが」か「ええが」かわからないではないか。「憂える」は「うれ・える」なのか「うれーる」なのか。たまたま「えーが」になったり「うれーる」になったりするだけじゃないか。こんな曖昧なのに長音を区別するのは矛盾しないか。

 

(注: 憂える ureeru の「える」は文法的形態素なので q を入れて ureqeru とはしない。eeを分けて読んでもいいし長音のように読んでもいい。「長音」という概念を入れるなら、ここは長音なのか長音ではないのかを確定しないとおかしいでしょう。「おう」「おお」「おー」はすべて ō にすれば「簡単」とかwiki に書いてるやつは無責任過ぎないか)


拗音の話に戻すと、日本語で拗音と言われているものはイ列の直音の仮名文字に「やゆよ」が続くものと、特殊なものではウ列の直音の仮名文字に「わ」の小文字を添えるものがある。(ゐゑをの小文字はどのフォントセットにも入ってない。仮にあったとしても対応できるが)

拗音は「一律」にや行の拗音なら j 、わ行の拗音なら w を添えてあわわすことに決めているので「きゃ」「きゅ」「きょ」なら kja kju kjo と書けるし「くゎ」 なら kwa と書けるので、普通の日本語の「拗音」と言われているものはすべてこれでカバーできる。

問題は、ここから外れた「いわゆる拗音的な書き方」をしている「てぃ」「とぅ」「ふぁ」など外来語などで使われる仮名綴りがある。これに特殊なアルファベットを当てるよりは母音字に符号を添えてあらわし、実際はその符号も省略しても直感で読めるようにしたほうが現実的だ。(「てぃ」tèi 「とぅ」tòu 「ふぁ」húa と書ける。そもそも外来語なのでローマ字で書く意味もないが)

 

余計な補足をすると、なぜ「てぃ」tèi 「とぅ」tòuではグレーブアクセントを使うのかというと、è = j 、 ò = w という意味を持たせているからだ。アキュートアクセントで téi tóu と書いた場合は、仮名では「てぃ」とか「とぅ」と書いても二重母音のように「ショートスティ」「トゥシューズ」のように必ずしも[ti] [tu]と読むとは限らないわけで、その発音を注記するために書き分けている。仮名に従うということを考えたらそこまでやる必要はないが「どうせ注記符号をつけるなら」発音も正確に表記できるようにしておきたい。面倒なら全部アキュートアクセントでもいい。特殊な例では、歴史仮名遣いの「手水場」(てうづば/ちょうずば)と「ステューデント」の発音を明示する場合にアキュート・アクセントとグレーブアクセントを使い分けることもできる。téuduba sutèuudento まあ歴史仮名遣いで書くことはないけれども。

 

注記するという意味ではほかに「コミュニティ」の例がある。最後のティは実際の発音では「ティー」と延ばしているはず。その発音をあらわすのに komjunitèī と書くこともできる。もちろん、注釈してるだけだから辞書の見出し語みたいなイメージで、普段は komjunitei と符号を省略する。注釈符号とはそういうものではないか。

 

ヘボン式ローマ字のように長音符を省略してしまったら別の言葉になってしまうものは本来符号で書くべきものではない。つまりヘボン式では長音として長音符を使うが「英語では意味ない」からといって省略してとっぱらう。それはもう日本語じゃない。そんなものを何で日本人がありがたがって使ってるのか全く意味不明。(また話が横道に逸れてる)


仮名小文字の話に戻して、実は、例えば特殊なアルファベットを当てる方法として y と x を使う方法も一応は考えた。(でも、この方法を仮に入れたとしても、符号が一切要らなくなるわけではなく、イ列とウ列の特殊な拗音表記が符号なしで書けるようになるだけ)

定義としては、y は í (見えづらいが i にアキュートアクセントをつける)をあらわし、x は ú をあらわす。(そしてこれに続く母音字が仮名小文字になると定義する)

こうするとkja「きゃ」ではなくkya「きぁ」をあらわすときに使える。kwa「くゎ」に対する「くぁ」なら kxa と書ける。でも、理屈はこれで通るとしてもこれでは直感的に読めないし、特殊な外来語の表記のためにアルファベットを特殊な使い方をするのは受け入れがたい。

 

唯一の例外は v で「ヴ」をあらわすために仮名に従うローマ字ではなく表音的に仮名文字との対応を考えているので若干変則的になっている(詳しくはローマ字表を参照)

 

いや、もう一つ例外があった。イ と ウ に仮名小文字の「あいうえお」が続く場合。「イェ」とか「ウェ」がある。これは符号を入れて íe úe でいいが Ji と Wu には対応する仮名文字がないので読み方としては i と u と同じと考える(発音表ではなく50音図では対応する仮名がないのだからいわゆる「重出」とか言われている)。ならば í 、ú と符号をつけて使うかわりに ji wu と書くことに決めれば イェ を jie 、ウェ を wue と書ける。でも wuedeingu なんてわざわざローマ字で書くような場面はないけれども一応は考えておく。

したがって、「くぁ」はkua(厳密には kúa )とし、「きぁ」も kia (厳密には kía)でよいと考える。

 

こんな表記どこで使うんだという話なので、これに特殊な文字を当てるのではなくて直感で読めるほうがいい。つまり、一部の例外を除いて綴りは仮名綴りのとおりであり、仮名小文字は直前の母音に字上符(ダイアクリティカルマーク)をつけることで注記するが、原則としてこの符号も省略する。(具体的には上のローマ字表のリンクを参照してください)

すみません。自分用のメモなので何言ってっかわからんかも。じゃあれはどうするこれはどうするとなるとまた話が長くなるのでやめます。

 

ついでに、母音字で始まる形態素が続くときに q を入れるということの補足説明。

 

例えば「奥羽」は Ouqu となる。でも、Ou と u を分けたいだけなら必要に応じて「 ' 」なり「 - 」で分ければいいだけじゃんと言う。いや、だから、何で分けるのかというと「読むのに支障がある」からでしょう。母音字で始まる形態素が続くときに q を入れる、ということに「一律に」決めておけば、そもそも読めない場合があるという事態はすべて解消してるわけですよ。「必要に応じて」とかもやもやするじゃないですか。「範囲」なんていう基本的な単語ですら han'i と変な記号を入れなきゃならない。q を入れることに決めておけば堂々と hanqi と「原則どおりに」書ける。どう説明したら納得してもらえるんだろうか。

 

そして q を語の末尾に置いたり、続く綴り字が子音字で始まるときは、一律に「促音」の「ッ」になると「定義」しておく。これによって、犬を「いっぬ」と言ったり「ママ」を「マッマ」と言うような普通のローマ字では書けないような言葉も iqnu maqma と何の支障もなく書けるようになる。q の使い方によって「促音が発生する」というイメージなので(q = ッ)みたいな厨二の思いつきみたいなことを言ってるのではない。(それも厨二だろうと言うなら勝手にしてw)

 

小文字の「ッ」と長音符の「ー」は文字ではなくて「記号」という扱いで「ー」は長音ではなくて「踊り字」々の一種だと考えて仮名・ローマ字対照表には入れていない(撥音「ん」は母音を伴わない単独の n を「ん」とイコールとする)。「ー」については「あー」なら「ああ」とふりがな式に解釈する。仮名の「ッ」は上述のような考え方で q で表現するので単純には q=ッ と捉えても支障はない。でも それでは Ouqu のときは「おうっう」じゃないということの意味がわかりにくいと思う。

 

この q についてはとても評判が悪く、読みにくい、慣れないという批判があって、過去に何回も検討しているが q のかわりに、今まで使っていなかった y を使う案もある。使っていなかった y に置き換えるだけだから何の支障もない。何なら q と y をちゃんぽんに使っても構わない。全く知らない人が感覚で読んでも y なら抵抗は少ないかもしれない。しかし、これを入れ替えるとなると20年来の大変革になる。そして、いい加減な思いつきだとばかにされるだろう(まあもともとばかにされてるが)。今は時間をかけてほんとに支障ないかどうか検証中。(多分変更しないと思う)

 

パッと散る Paq to tiru / Pay to tiru

Pay だとついペイって読んじゃうw。でもそれは慣れてないだけ。でも普段使わない q よりもなまじイメージが染み付いてる y を使うのは、とっつきやすい半面、そのイメージを取り払うのに骨が折れる。

 

仮名に従うと豪語した以上、ありとあらゆる可能性を考えておかないといけない。

今回、結局ヤ行には j を使っているので y を使うところはないが x は使う。

(この場合の x はツイッターという意味じゃなくてw 仮名小文字を強制的に表記するのに使う)仮名小文字は必ず直音の仮名に続けて使うとは限らない。

 

例えば、「サスケェ」 

何ですかね、これはw 

 

この仮名小文字の「ェ」は独立してる。前の「ケ」と複合して新たなシラブルをあらわしているわけではない。添えてるだけなので、前の音節が「エ列」である必要はない。もっとすごい例では「国際平和ぇ(´・ω・`)」 というのがある。この独立した「ェ」をあらわすのに x を使う。多分この「ェ」は発音してない。黙字と言ったらいいか。(サスケを知ってる人以外は知らないスラングで、私もサスケは知らないけどこの用法はときおり目にする)

 

あえて書けば Sasuke xeですかね。(´・ω・`)ェ

 

もっと一般的なものでは「そうですねぇ」というのがある。Sou desu ne xe と書ける。(理論的にこうなるという話じゃなくてこう書くことに決めればいいよねという話)サスケぇとは違うけれども、発音ではなくて「空気」をあらわす。これは表音式ローマ字では当然無視でしょう。「ねー」と長音で言ってるわけじゃない。「ねぇ」ではなくて「ねえ」と書いたら「ない」という意味になる(笑)。「そうですねーー!」とか書いてあったら、そりゃ単に勢いで Sou desu neee! と延ばして言ってるだけ。

 

仮名に従うローマ字をどういう発想で考えているか、何となく伝われば幸いです。(いや、伝わらなかったらすいません)

 

一番言いたいのはローマ字を表音的に発音だけで考えていたら行き詰まってしまうということです。

例えば「ふ」の発音は hu なのか fu なのか。新日本式ローマ字では hu と書き fu とは書かない。日本語では区別してないからというが、「ツ」を cu と書くなら「ふ」も fu と書いたらいいじゃないかともやもやする。今は区別してなくても区別するようになったらどうするんだろう。(仮名では [hu]を「ホゥ」と書こうと思えば書ける。[tu]を「トゥ」と書くのと同じ方法)

 

サブカルチャーは自由な仮名表記の宝庫になっている。

「トゥホゥトゥ霊殿~ハルトゥマンの妖怪緑鳥」 などなど。

 

表音式ローマ字というのは発音に縛られて柔軟性がない。発音にこだわったら永遠に不完全感から抜け出せない。発音は発音記号に任せておけばいい(ローマ字みたいな中途半端なものではなくてもっと正確に記録できる)。いや、「できる」なんて簡単なこと言ったら怒られちゃうくらい大変な研究になって私なんか歯が立たないと思う。ローマ字で基準とするべきは発音ではなく仮名の綴りに合わせることでしょう。発音に合わせるといったって、どうせ仮名の読み方に基づいた発音程度のことでしょう。だったら発音なんて大層なことを言わず仮名文字そのものにあわせればいいだけの話ではないか。

 

仮名も新仮名遣いができたようにいずれ改訂されることもあるかもしれないが、あれは日本語の革命に近いような出来事で戦後のどさくさをいいことに成功しただけで、今後はよほどの不都合がない限りおそらく改訂しない。英語も発音との乖離が甚だしいから表音的な綴りに変えろと言ったら大混乱になる。

 

現代仮名遣いの綴りは正書法として今や権威すらある。そして日本全国統一されている。「お父さん」といったら「おとうさん」以外にない。それが正しいとか正しくないとか出自が怪しいとか、そういう問題ではない。「正しい」云々言い出すと歴史的仮名遣いの復活を目論む人が出てくる。時代錯誤でしょう。

 

発音に従う表音式ローマ字(日本式も基本的な考え方は表音式)を代表するヘボン式ローマ字というのは一見理にかなっているように見えるが、ローマ字を書いてあるとおりに読んで、それが「正しい」と思ってしまうところに致命的な欠陥がある。そのせいで日本人は英語すらローマ字式に読んでしまう。この弊害はかなり根が深い。それに発音は地方によっても違うし、たえず変化するし雲をつかむような代物。

 

ローマ字は表音的に書いて当たり前と言ってる人もなぜかガ行鼻濁音はなかったことにしている。表音主義を標榜するならちゃんと書き分けたらどうかと思うけど、それは無理なんですよ。だからそんなものはないということにしている。書き分けても意味がないわけじゃない。大釜と大蒲では前者が鼻濁音になる。仮名に従えば「がぎぐげご」しかない。つまり表音式ローマ字も都合のいいところで仮名に従っている。

 

発音はつかみどころがなくたえず変化する。文字は保守的で変化しない。ここに注目すべき。

だから、発音でローマ字の綴りを決めるのではなくて、日本語の正書法になって安定している仮名文字を基準にしてローマ字の綴り字を決めるべき。

 

ヘボン式で書かれた日本語をどう読むのか。この問題もある。

 

「正しく」日本語としてイントネーションも含めて読むのか。逆に英語として日本語無視で読むのか。よくある Tanaka を「タナーカァ」みたいな読み方をするのか。正しい日本語として読めば読むほど英語がだめになるし、英語っぽく変な読み方をしたら、それって一体何語なんだろうか。

 

ヘボン式ローマ字って何のためにあるのか。外国人に日本語の発音を知ってもらうため?じゃ外国人の都合に合わせて表記すればいい、という発想になる。でも、その外国人って誰。いろんな外国人がいますけど。

 

ローマ字が外国人の都合で必要なものだとしても、それを考えるのは外国人ではなくて日本人でしょう。日本人にとっても最も都合がいいようなものを考えればいい。何で外国人の都合で考える必要があるんだろうか。それは事実上不可能だからヘボン式では英語に合わせてるって話でしょ?

 

聞いた話だから定かではないけれども、チベット語ではチベット文字(表音文字)を基準にしたローマ字方式(ワイリー式)を採用しているからアルファベットだけでスッキリと書ける。表音式で考えて英語方式にすると記号だらけになってしまうらしい。日本語は発音が単純だから英語方式のヘボン式でもたまたま何とかなってるだけ。チベットのほうがよっぽど真っ当なローマ字観を持ってると思う。

 

仮名に従うローマ字は50音図の仮名に則っているので、日本人のカタカナ英語をさらに促進してしまうではないかと言われそうですが、逆です。

 

アルファベットは書いてあるとおりに読むものではない。大事なのはスペルです。英語は英語の読み方があり日本語は日本語としての読み方がある。それを意識することが大事なのに一緒くたにしてしまうのがヘボン式ローマ字の弊害。私はそう思いますが。

 

インターナショナルという意味は英語に合わせるという意味じゃないですよ。勘違いしてませんかね。

 

ローマ字をいい加減に考えている人は、「ち」はchi だろう。ti じゃないだろアホかと言う。「ちから」を tikara と書くと「ティカラ」って何ですかぁ?とかばかにして言う。救い難いです。その人なりの発音の枠組みがあるらしく、おそらくそこから一歩も出られない。ヘボン式だとティ、トゥ、ファ、シェ、チェとか外来語でよく使われる音が簡単に書けるから優れている?それが逆にだめなんですよ。ti をティと読めたからといって英語が話せるわけじゃあるまい。むしろ話せない。ヘボン式の枠組みの中で外国語に対する発音の意識が固定されてカタカナ式になってしまうから外国語が逆に話せなくなる。

 

つまり ti は ティ と読むのが「正しい」と思ってる。それ以前に何で仮名では「ティ」と書くのか考えてみたことはないのか。「チ」を ti と書いたら「ティ」はどうするんだと言って笑うが、いや、自分で「ティ」と正解を言ってるではないか。ti は日本語では「ティ」と書いているではないか。

 

その「ティ」にしたって完全に日本語としての「ティ」でしかない。ドイツ語で Tee を自信満々に「テー」と発音したら違う!と言われて「ティー」と言うとそれも違う!と言われた。そんなもんですよ。ti は「ティ」と読むのが「正しい」だと? 何がどう正しいのかわからない。それより、日本語のローマ字は仮名に従った読み方をするのだと開き直ったほうがよっぽど潔い。そして英語を読むときは完全に仮名の意識を抹殺して、そんな発音したらキザだとか言われても気にせずにカタカナ英語から脱却したほうがいい。(私自身の場合はもう手遅れかもしれないけどw)

 

Martinはヘボン式風に読むカタカナだとマーティン。でも英語だとマートゥンとマークンの中間みたいな変な発音に聞こえる(カタカナでは書けない)。カタカナだとマーチンとかマーティンと書かざるを得ないけど、そういうカタカナ教育してるんだから英語が聞き取れるわけない。それを助長してるのがヘボン式ローマ字。この中途半端な表音主義が日本人の発音に対する感覚を歪めていると言っても過言ではない。まあ議論をはしょって徒然なるままに書いてるから説得力ゼロで申し訳ない。

 

少なくともヘボン式が正しいローマ字だなんて言わないほうがいいですよ。

 

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何の関係もないけど Chega de saudade(シェガ・ジ・サウダージ)口直しにどうぞ

ふと聞きたいと思ってから探すのに苦労したw