~過ぎる(~すぎる)という言い方は本来なら「過ぎたるは及ばざるが如し」で否定的な意味で使われるのが普通だった。

「彼は頭が良過ぎる」に続く意味合いは、そのあとに「融通がきかない」とかいう否定的なイメージの言葉が続く。それが今では「彼は頭が良過ぎて惚れてまうわ」になってる。しばらくの間はこれにものすごい違和感があったけど、いつの間にか自分もそんな表現を無意識に使うようになっていたw

文法的に間違いというわけではないんだろうけど、この違和感は何だろう。でも、確かに感覚的には「めっちゃおいしすぎて何杯でもいけちゃう」は本当においしいんだなというのは伝わってくるから、きっとこの「すぎる」の次に何かの言葉が省略されてるんだろうと思う。「おいしすぎて(理性を失って)何杯でもいけちゃう」とか。この否定的な意味の「理性を失う」という部分が省略されてると考えれば言葉の使い方がおかしいとかケチをつけなくてもいいのかもしれない。まあでも私はこの表現はあんまり好きではない。大げさだし何か軽薄な感じがする。そう言いつつ、自分も無意識に使ってしまって愕然とすることがある。まあ言葉は生き物だしそのうちこれが当たり前になるんだろう。流行り物に棹さしたところでばかにされるだけだから流れに身を委ねるのが正解。

 

まあ何とか過ぎる(美し過ぎるとか、いいことに対して)の形でしょっちゅう使ってる人はしょっちゅう理性を失っている人なわけだから、まあもちつけとしか言いようがないw

 

残念過ぎるなど、悪いことに対して過ぎるをつけるのは単に残念だということを強調してるだけで「美し過ぎる」ほどには違和感を感じないもののやはり軽薄に聞こえる。普通に残念と言えばいいのに何でいちいち過ぎるをつけるんだろうね。若者言葉なのかもしれないけど自分はむかつくw。

 

原神のプレイ動画配信者が「これはもう楽し過ぎるだろう!」とかよく言ってる。だれとは言わないけどw。まあそのファンの人にはその言い方がウケるんだろうけど、大げさな言い方しやがって配信やってなきゃとっくにやめてやがるくせによぉとか、つい冷めた目で見てしまう。(まあこれは私がひねくれてるせいなので全部私が悪いw すみません)

 

でも、ぽつりとまた言うけど「頭おかしい」もそうだよな。本当にそうならそこらじゅう狂った人ばかりになるけど、大げさに言ってるだけ。いや、実際、頭おかしい人ばっか……、いや何でもない。

 

でも、最近の傾向として何でも大げさに言うのが流行ってるらしく、ちょっと涙ぐんだだけなのに「号泣」とかプッと吹いただけなのに「爆笑」とかちょっとムッと来ただけなのに「激高」とか。言い方がいちいち大げさなんだよ。何でそういう大げさな言い方をするんだろうか。多分インターネットの影響かもしれない。人に読んでもらう記事を書くにはより大げさな表現をするほうが人目を引いて「金」につながるからねw。だからどんどん表現が大げさになる。中には題名と内容が違う詐欺まがいのまである。大げさに言うのは昔からかもしれないけどw

あとまた違う話で、前にも書いたけど「~過ぎる」と書くか「~すぎる」と書くかは個人の自由なので、仮名変換システムで強制的に「~すぎる」と仮名書きに変換してくるのはやめてほしい。「面白(おもしろ)すぎる」と書くか「面白(おもしろ)過ぎる」と書くかは個人の自由で、普通に変換すると「面白すぎる」「おもしろすぎる」しか出ないのはおかしい(「過ぎる」と漢字で出そうとすると結構面倒)。用字例というのは絶対的なものはないので、どの用字例にのっとって書くかは個人の自由、というかそれが日本語なので「決める」必要なんかないし決めてもらっては困る。日本語仮名変換ソフトごときがそういうところに立ち入って「すぎる」という仮名書きをしれっと強要してくるのは問題ではないか。(これを言ってもばか扱いされてあまり人に相手にされないけどw)

 

でも、意図的に「すぎる」を漢字変換しないと普通に変換させただけだとみんな「すぎる」になるって怖くないですか?知らないうちに洗脳されてるような気がする。

 

用字例というのは複数の人で一つの記事を書くときに用字を揃えるという意味で使われるものであって、用字例にのっとって書かないのは「間違い」とか言い出す人がいたら、それはその人の頭が間違ってる(うっかり頭おかしいと書きそうになったw)。自分も用字例はたまに見るけれども、自分としてはこう書くと決めるために見ているのに過ぎない。正しい用字なんてあるわけない。用字が自由だからこそ俳句とか日本の文学があるわけだから。

 

さらにまた余計なことを書くと、だから日本語には正書法が存在しないから英語などに比べて劣るみたいな言い方をする人がいるけど、日本語は全文仮名文字で書いたときには正書法がほぼ確立されている(第一次正書法という)。そこは勘違いしないほうがいい。

 

したがって、(またその話かと言われるだろうけど)日本語としてのローマ字のスペルを決める場合は曖昧な発音に従ってヘボン式のような表音式ローマ字で書くのではなく、正書法が決まっている仮名に従って書くべきだというのが私の持論です。我々は仮名で日本語の発音を認識し日々日常的に使っている。なぜローマ字を書くときにいちいち実際の発音に立ち返って考えなければならないのか。実際の発音といったって日本も思ったより広い。なぜ表音式にこだわるのか。発音記号じゃあるまいし。ほんとに謎。私の不勉強なんでしょうか。まあそれは大いにあるにしても不可解としか言いようがない。なぜみんな疑問を持たないんだろうか。

 

仮名に従うローマ字とはこんな感じのもの(「打ち上げ花火」「Lemon」 「Dear」「命に嫌われている」の歌詞をローマ字で起こしたもの。ボリューム注意)。「暗夜行路」の一部。ところどころ違うところがありますがほとんど日本式に見た目は似てます(ただし日本式とは考え方が違う)。

 

仮名に従うとはどういうことかというと、ぶっちゃけ単純に言うと50音図にのっとって「たちつてと」は ta ti tu te to でいい。chi とか tsu とか、一体何のために区別するんですかね。仮名ではチェなりトゥなり外来語は工夫して書いてます。ローマ字もその仮名で書いてるとおりに書けばいい。ましてやそれは外来語でしょう。「ち」を ti と書くと「ティ」って何ですかと笑うが、じゃお前は何で仮名で「ティ」と書くと思ったのだと問い詰めたい。「トゥ」と仮名で書くなら tou と仮名のとおりに書けばいい。小文字はなんとでも工夫できるだろう。そもそも外来語はわざわざローマ字で書く場面などない(歌詞をローマ字で書いてみるぐらいではないかw)。言いたいことがうまく言えないがなぜみんな気づかないんだ。

 

なぜ仮名に従うという発想にならないのか。大学の先生でもローマ字は仮名に惑わされてはいけないとか言ってる人さえいる。小学校では助詞の「は」はローマ字ではwaだと叩き込まれる。これがおかしい。じゃ仮名では何で「は」と書くんだと。日本語の仮名遣いはいい加減だからですか?

 

それはローマ字=英語だと考えているからですよ。仮名は表音化の足を引っ張る忌々しいものとして自分の国の国字なのにばかにする伝統みたいのがあるんじゃないんですか?(いや知らないけど)

 

あまつさえ、表音的に考えるといってローマ字と英語を同じ土俵で混同しているからこそ、英語の発音までおかしくなってカタカナ英語になってしまっている。アルファベットはスペルではなく表音記号のように1字1字読むものだと思いこんでいるからですよ。importantは仮名では書けないけど強いて書けばインポートゥンみたいな感じでしょ。それをアルファベットを1文字ずつ読んでしまうからインポータントだと思ってる。これで英語が通じるわけないじゃないですか。mounten なんか(まうん「ん」)とか言ってる。t はどこに行った?と言うと「いや言ってる」と言う。意識の上では t があるらしいw。(余談ですが)

 

実際我々の世代はmountenをマウンテンだと思って疑問にも思わないような教育を受けてきた。ヘボン式のような ti ティや tu トゥが発音できたってヘボン式の枠から一歩も抜け出せないから英語は話せない。全部カタカナ発音になっている。英語は(まうん「ん」)ですよ。わかるわけないじゃないですか。

 

そこで表音式だと言いながら発音を固定してしまうせいで英語教育の足を引っ張っていることに気づいてない。もっと根本的にローマ字に対する発想を変えないと日本人の英語はカタカナ英語からいつまでたっても脱却できない。私なんかはその被害者だと思ってます。どうすればいいか?ローマ字を発音記号みたいに子音と母音に分けて考えるなということです。これは英語を読むときとはまるで違う読み方です。 ti と書いたら日本語では「ち」と読むんだと誇りを持って堂々としていればいい。このスペルになったらこう読むというのはどの国の言葉にもある。

 

英語に限らずアルファベットはスペルで読むものでしょう。英語ではなぜnight を 発音に従って nite に直さないのかというと正書法を保つためで発音に従っていちいち綴りを変えていたら単語の同一性がなくなってしまう。

 

そんなこんなで、その大事なスペルを決めるのになぜ日本語のローマ字では(第一次)正書法の仮名に従わないのか?ということです。英語なんか空っ下手のくせに表音式がどうのといってヘボン式ローマ字にこだわっていたら、その発音の枠から一歩も出られない。何よりも一番の弊害は、ヘボン式は表音式だから「正しい発音」をあらわしていると思いこんでいることですよ。これが救いがたい。だから英語もその意識で読んでしまうわけでしょ?

 

英語の話はさておき、日本語の第一次正書法は確立していると言うと、いや議論になっていて定かではないところがあるとか言う。でもそれはあくまでも「例外」であって、「例外」はどんなものにでもある。そんなものをあげへつらって日本語には正書法がいい加減だとか言うのは頭おかしい。あ、いや、頭が不自由でいらっしゃると思う。現代仮名遣いなど出自が怪しいとか間に合わせだとか言う。でも、戦後それで統一されていて今や権威すらある。正書法は権威があって完全に社会に定着しているというのが条件のはず。理屈じゃない。じゃヘボン式もそれで定着してるんだからいいじゃんて言われそう。まあそれでいいならご勝手に。言うだけは言いましたから。

 

またしても話が横道にそれ過ぎました。悪い癖過ぎてワロえないわ。w