「少な過ぎる 長過ぎる 短過ぎる 可愛過ぎる 暑過ぎる 寒過ぎる」

一体こういった言葉がいつから、

「少なすぎる 長すぎる 短すぎる 可愛すぎる 暑すぎる 寒すぎる」

になったんだ?

 

特にひどいのはgoogle日本語入力で、MS-IMEでも仮名書き優先になるものの変換候補を選べば何とか「長過ぎる」と変換できる。google日本語入力ではどうやっても「過ぎる」が出ないときがある。これは何かの陰謀か。だれが勝手にこんなことにしているんだろう。

 

この「過ぎる」を平仮名で打つ合理的理由が私にはわからない。google日本語入力はすごく便利で気がきいているので、最近はもうずっとこれに変えていて、もう手放せないものになっているけれども、最近、この「~過ぎる」というのが全部「~すぎる」になって、変換区切りを強引に切り替えないと「過ぎる」が漢字で変換できない事態に気づいて、かなりうろたえている。

 

この言葉が出てくるたびに変換区切りを変更して「過ぎる」に強制変換させてgoogle日本語入力の辞書に覚え込ませているが、どうもモグラ叩き状態だ。最近、学校ではそう教えているのか?おかしいと思うんだけど。

 

「うるさすぎる」の場合は「うるさ過ぎる」と書くと「うるさ」って何だという違和感があるのも確かだ。かといって「煩過ぎる」だと「煩」が形容詞の語幹として漢字が読めないとかがあるのかもしれないけど、だからといって、形容詞語幹+「~すぎる」は全部仮名書きにしようというのは乱暴過ぎないか。(「乱暴過ぎる」の「過ぎる」は漢字で出るw 連用形とか名詞に続く「過ぎる」は漢字という変てこルールなのか?)

 

私は個人的には「詳し過ぎる」でよいと思う。ところがgoogle先生は「詳しすぎる」としか出してくれない。あるサイトでは「事物の動きがあるもの」が「過ぎる」で補助的な意味で使われるものは「すぎる」と説明している。はっきり言って意味がわからない。要はそういうことは恣意的な用字例の話であって、正・誤の話じゃない。ちなみにこの「すぎる」については私が使っている用字例とは見解が違う。「時」と「とき」、「言う」と「そういうときは」の「いう」「とき」の使い分けは必要。この「すぎる」の使い分けは恣意的「過ぎる」。下手をすると頭が禿げる。だから用字例は人によってそれぞれ違うものだ。

 

最近気になっているのは、日本語改革論者みたいな連中が、何でもかんでも訓読みをやめて仮名書きしようとしているらしく、俳句とか何かで「あえて」仮名書きにするとか漢字書きにするとかという文学的選択ではなくて、訓読みをとにかく廃止することを実践している人(何を企んでいるのか知らないが)がいて、日ごろ苦々しく思っているだけに、ものすごく気になる。ほんとにおかしなことはやめてほしい。漢字変換ソフトは自由に「用字」を選べるようにしておいてもらわないと、押し付けは困る。

 

「美し過ぎる」と書くか「美しすぎる」と書くかは個人の自由であって、「美しすぎる」というのしか変換候補に出てこないのはおかしい。ほんと油断してると何を押し付けられるかわからない。「白過ぎるって」と書こうとすると何がなんでも「白過ぎるって」に変換させるものかという悪意すら感じる。試しにgoogle日本語入力で「しろすぎるって」を変換してみたらわかる。「きいろすぎない」に至ってはついに「黄色過ぎない」と一発で変換することは不可能だった。

 

変換区分を変更しても「黄色す着内」にしかならない。ただ、この言葉はかなり変だけどw 「ねえ、この色、ちょっと黄色過ぎない?」と書きたかったわけです。まあ「黄色」で切って「過ぎない」を続ければいいんですけど。そうか、じゃ「黄色に過ぎない」なら変換できるのかと思ったら、やっぱり「黄色にすぎない」としか出てこないw (よっぽど「過ぎる」が嫌いなんだな、google先生は)

 

何を言ってるかというと、具体的には「悲し過ぎて」と打ちたいとする。「かなしすぎて」で変換キーを押すと「悲しすぎて」しか出ない。あとは「哀しすぎて」という別の漢字以外は「カナしすぎて」とかアホな言葉の候補しかない。「悲し過ぎて」と変換するにはいちいち「かなしすぎて」が未変換の下線状態のときにShift ←で変換区分を変更した後、残った「すぎて」に→で戻して「過ぎて」に強制変換してやらないといけない。要は、めちゃくちゃ手間がかかる。なぜ変換候補に「悲し過ぎて」がないんだ。しかも「悲し過ぎる」のように別の活用形にすると、また「悲しすぎる」に戻ってやがる。ここでまた同じことをしないといけない。マジ、ふざけてる。「悲し」で変換し「過ぎる」で変換するとかしないといけないのか。どうなってるんだgoogle日本語入力は。

 

こうなってると、私みたいな意固地な人間以外は、「悲しすぎる」と変換されたら出たそのままで表記するようになってしまい、しれっと日本語の表記が「悲しすぎる」で統一されたようになってしまう。これは日本語にとって由々しき事態だと思う。日本語は用字を統一する必要などない。統一する場合は学校教育で標準の書き方を教えるとか、あるいは新聞社などで複数の記者が分担して書くなどの場合、その新聞社なりの「用字例」を定めて個別に統一すればいいことであって、それを一部の人間の考えで特定の表記を一般に押し付けるとか、もってのほかだと言わざるを得ない。日本語の破壊につながると思う。(私はある用字例に一応は従っているけれども、どの用字例に従うかは個々人の自由だ)

 

「通り過ぎる」は本来の「過ぎる」だろう。人通りが多いという意味で、例えば泥棒なんかが「ヤベっ、ここ人、通り過ぎっ!」と書くときは「人、通りすぎっ」て書くのか?そんなの大きなお世話だろう。そういうことを言うから日本語の用字はややこしいとか言い出すのが出てくる。そんなんだったら「通り杉」と書くほうがましなくらいだわ。

 

またいつもの持論を言うと、日本語の「正書法」というのは「仮名遣い」では第一次正書法としてほぼ統一されている(「お父さん」なら「おとうさん」であって「おとーさん」じゃない)のであって、日本語の正書法はそのレベルで考えるべきことだ。話は違うが、日本語のローマ字は本来、日本語の第一次正書法を基準にして考えるべきもので、発音を基準にして考える表音式ローマ字は矛盾が多いから、仮名に従うローマ字であるべきだと、このブログでもしつこく主張している。(大坂は「おおさか」であって「おーさか」じゃない。「おおさか」の現代仮名遣いは日本全国共通だが「おーさか」という発音は日本全国共通じゃない)

 

漢字仮名交じり文が統一されていないのは外国語のアルファベットだけの言語でいうところの正書法と同列に考えてはいけない。それを日本語の「不統一」とか「不備」とか「不完全」などというのはおかしい。それは用字の問題であって、ある意味では日本語の特長であり、文化でもあると思う。俳句などでは仮名や漢字などの文字遣いを自由に選んで深い内容をあらわしている。なぜ用字を統一する必要がある?表記の仕方がいろいろあるとは言っても、文学的表現はいざ知らず、一般的には「悲し過ぎる」か「悲しすぎる」かぐらいのことで、表記が混乱しているわけではない。好きに書かせてほしい。

 

だからといって、じゃ旧漢字、旧仮名遣いで書かせろというのも個人の自由かもしれない。ただ、正直言って読みづらいw 書くのも大変だろうにと思う。そこは諦めて常識の範囲でいったらどうか。少なくとも私はそこまでやろうとは思わない。歴史は元には戻らないのだから。