教育をもっと良くする前に
ガイジンたちの中で過ごしていて痛感したのは、自分がいかに主張できないかというコトだった。
そんな経験したコトのある人はたくさんいるだろう。
ここで言う「ガイジン」とはなにも白人だけのコトではない。
中国人や韓国人とも話してみると、比較的早い段階で戦争の話を持ち出される。
僕ら日本人はおじいちゃんやおばあちゃんの昔話として漠然と耳にした程度の話だ。
だから何も言い返せない。
第二次世界大戦が二発の原子爆弾の投下によって昭和20年に戦争が終わった事はかろうじて知っていても、昭和なん年にその戦争が始まったのかすら知らない。
その前の戦争に至ってはいつ始まっていつ終わったのかすら知らない。
ましてやその二つの世界大戦がどういう理由で始まりどういう結果で終わったのかなんて知る由もない。
オレは何を勉強してきたんだろう。
そう思えたのはずいぶん後の事だった。
その時はその時でいろいろな気持ちを感じていたが、感じた中で一番スナオな気持ちは
「この人たちに何か言い返したい」
だった。
おじいちゃんやおばあちゃんだってすっごい辛い想いをしたって言ってた。
日本人が本当にそんなひどいコトをしたんだろうか。
本当に喜んでそんなコトをしたんだろうか。
しなければいけなかったに違いない。
なんでそんなコトしなければいけなかったんだろう。
僕はオーストラリアにいる時、中東のレバノン出身の人間と一緒に暮らしていた。
同時の友人もまたイスラエル出身の夫婦と住んでいた。
互いにいがみ合っていた。
最初は不思議に思った。
でもイスラエルという国の成り立ちを知った時に、とても複雑なキモチになった。
僕は自然と歴史の勉強に興味が湧いた。
するとどうだ。
戦争関係の本を読めば、同じ日本人が書いた本なのに言っている事が本によってずいぶん違う。
違うどころか全く逆のものさえある。
知識がたくさんあれば中国や韓国の人たちに言い返す事もできるだろう。
でも歴史に関していえば、結局は自分がどの意見を何を根拠に信用し、それを自分の意見とするか、がとても大切なんだ。
どこかにひとつの正解があるわけではない。
国語で作文を読む、書くも同じ。
英語でのコミュニケーションも同じ。
社会の歴史分野などは特に同じ。
美術な技術、書道や体育、音楽などもひとつの答えがある訳ではない。
つまりペーパーテストなんかで測定できるものではない。
するとこのテストが学校人生の大半を占めているこの社会は何?
ここからこの世の中の歪みが始まるのだ。
カエル②
カエルは僕にとって全てにおける先生だ。
僕はカエルからとても多くの事を学んだ。
僕はその「先生」をたくさん殺した。
大量殺戮を繰り返した。
「先生」の口の中に爆竹を突っ込んで爆発させるなんてのは初級編だ。
僕は「先生」を網の中に入れてグルグル回し、無重力実験を行った。
実験を終えた「先生」はグッタリとしてしまった。
僕は「先生」を壁に投げつけて衝突実験を行ったこともあった。
コンクリートの壁にぶつかった「先生」はまたぐったりとして動かなくなってしまった。
ん?
ちょっと待てよ。
爆竹が破裂して「先生」の体がバラバラになってしまうから死んでしまうというのは、
人間に進化し切っていない僕の脳みそでも理解ができる。
じゃ、網がグルグルするだけなのにどうして「先生」は動かなくなってしまったんだろう。
何回目のグルグルで動けなくなってしまったんだろう。
コンクリートの壁に向かって空中を飛んでいく「先生」。
壁に接触するまでは生きている(はず)。
コンクリートに接触するや否や「生」のコードが切れてしまう。
どこまでが生きていて、どこからが死んでいるんだろう。
「生きてる」っていう状態は、もしかしたらとんでもなくデリケートな状態なんじゃないだろうか。
そんな事を考え始めたら、今「生きている」という状態がとても恐くなった。
布団の中で寝ようとすると自分の脈の音が聞こえる。
この鼓動が止まってしまったら僕は死んでしまうんだ、って考えたらなんだかとんでもなく恐くなった。
で気がついたら寝ていた(笑)
寝てしまったらしまったで今度は、僕の感受性が豊かだったのか、自分が「先生」たちにしたのと同じやり方で自分が殺される夢を見た。
ドラマのように布団から「ガバッ」と起きた事もあった。
「自分は何て残酷な事をしたんだ」
と罪悪感に苛まれるようになった。
この頃から僕は「先生」だけでなくあらゆる生き物をなるべく無駄な殺生はしないようになった。
僕は基本的にやりたがり人間だ。
知らない事はやってみたい。
完全に体で覚えていくタイプだ。
「これ熱いから触っちゃダメよ。」
と言われれば言われるほど、すっごい触ってみたくなる。
でやっぱりヤケドして、みんなにそのヤケドを見せながら
「あれってこんなに熱いんだぜ!」
って言いたい人間なのだ。
そんな僕だから、幼い内に「先生」たちが身をもって命の大切さというか無益な殺生の残酷さを僕に教えてくれていなかったら…とか、授業的な机の上での理屈だけでそんな事を「教え」られただけだったら…と思うとゾッとする。殺すってどういう事か、殺したらどんな気持ちになるのかを知りたくなったかもしれない。
最近のニュースを見ていると、そんな考えが頭をよぎる。
カエル①
僕は長男だ。
たぶん両親の愛情を一身に受けて生まれ育ったんだと思う。
あまり記憶はないが、両親の僕に対する言動や接し方からも、それは容易に想像がつく。
イケイケ営業マンだった父親は、僕が5~6才の時に独立。
小さな広告代理店を立ち上げた。
イケイケなのでドカーンと借金して、社員を数人雇って、どんどん事業規模を大きくしたらしい。
僕の記憶からすると、ちょうどその頃に僕ら家族はアパートから一軒家に引っ越した。
父親にしてみれば人生のターニングポイント。
僕にはふたつ下の妹と5才下の弟がいるが、僕の当時の記憶には彼らがあまり登場しない。
僕の記憶が正しければ、その頃 妹は3~4才、弟は0~1才と生まれたばかりだから、どこかに預けられていたのかもしれない。
幼稚園までは送迎バスもあったし、母親の記憶もおぼろげではあるがある。
それが小学校へ入ってからは、父親はもちろん母親の記憶もグッと薄くなる。
きっと僕は、いわゆる「鍵っ子」だったんだろう。
僕は学校から帰った後の、夕方のひとりでいる家の中が大嫌いだった。
「シーン」という音が大嫌いだった。
「シーン」が聞きたくなくて耳を塞いで、もっと「シーン」と聞こえてガッカリしたこともある。
「シーン」が聞きたくなくて、ひとりで「あーーーーーーーーー」って息が続く限り声を出していたこともある。
今 考えればTVをつければよかったんだけど。
当時の、まだ人間に進化し切っていない僕には思いつかなかったようだ。
僕は4年生でソフトボール、5年生からは少年野球を始めたから、それ以降の記憶は案外ハッキリしている。
だからこれから話していく記憶は少なくとも4年生以前、おそらく低学年の頃の思い出だと思う。
最初の頃は学校が終わると、ひとりでバスと電車に乗っておばあちゃんの家へ行っていた。
僕はおばあちゃんが大好きだった。
おばあちゃんはよく漫画を買ってくれた。
缶ジュースもよく買ってくれた。
どっちも両親は買ってくれなかった。
おばあちゃんは絶対怒らなかった。
おばあちゃんはよく中華そばと玉子とじうどんを出前でとってくれた。
おばあちゃんはとにかくやさしかった。
僕はおばあちゃんが大好きだった。
毎日夜の8時くらいになると母親がおばあちゃんの家まで僕を迎えに来た。
今思うと、小学校低学年の子が一人で毎日バスと電車に乗っておばあちゃんの家に行くなんて、危なくなかったんだろうか。
実はバス代が足りなくて、降りるバス停で他の人がお金を払っているスキに運転手を振り切ってお金を払わずにダッシュでバス降りた事があった。
ちょうど僕の街の駅が改修で、ある日駅に行ったら駅がなくなってた事もあったな。
知らない大人に駅がどうなっちゃったのか聞くのが恐くて、バスで引き返すお金もなかったのか、歩いて家まで帰ろうとトボトボ歩いていたら、たまたま営業車で外を回ってた父親に拾われた。
だからかな。
僕はある日から、おばあちゃんの家には行かなくなった。
当時 僕の家の周りは田んぼがたくさんあったから、おばあちゃんの家に行かなくなった僕は、よくカエルと遊ぶようになった。