最初、この報道がされた時の私の第一感は、「アメリカ人から見た日米関係を象徴した発言」だというものだった。
実際、同書にも上記のアメリカ的見方がいくつか散見される。
例えば、メア氏は、元首相鳩山由紀夫氏の「有事駐留論」に対して、「有事駐留論は米軍をただの番犬とみなしている。とても失礼だ」と指摘している(209頁)。
確かに、鳩山氏に「有事駐留論」を実現できたとは到底思えない。しかし、私見としては、同論は、長年の日米関係や「日米安保と沖縄問題」をより良い方向に導くイデアだと考えている(理由は私は後述する①の論者なので)。
また本書の第五章における「「危険な基地」を政治利用」「石垣島の闘い」「被害者意識を乗り越えて」は、"アメリカ人による沖縄観"が色濃く出ており、それは決して普天間基地移設問題をはじめとする沖縄問題の本質的指摘ではないと思う。
しかし、それにも関わらず、同書は、長年の日米関係から生じた今日的課題や「日米安保と沖縄問題」の本質的問題にヒントを与えていると私は思う。
それは「お役所仕事にカンカン」(197-200頁)と次の記述である。
一つ大事な点は、日米安保条約を結び、アメリカが日本防衛の義務を引き受けているのに、いざ日本が攻撃されたときにアメリカが反撃に乗り出さな かったら、他の同盟国に対する信頼性も喪失してしまうということでしょう。アメリカが信頼感を失う事態は断固、回避しなければならないのです。そして、と りわけ中国の目の前でアメリカが同盟国の信頼を失うわけにはいかないのです。
日本が攻撃を受けた場合に米国が反撃してくれるのか、といったいわば観念的な問題設定の段階は過ぎ去っているのかもしれません。中国の動きを見 ると、東シナ海、南シナ海を舞台にした摩擦はもはや抽象的な議論の対象ではなく、極めて具象的問題になっています。アメリカ、日本、中国、東南アジア諸国 の国益がぶつかり合う局面になっている。差し迫った危機がそこにあるのです。ですから、沖縄の基地問題も含め、日本国民はもっと現実的に考える必要がある と思うのです。
(143頁)
この指摘には筆者も全く同意である。
そして、国際政治を現実主義的に捉えた時、日本が採るべき安全保障政策は、
①憲法を改正することで「集団的自衛権の行使可能」「自衛隊の明記」を行い、最大限の独自防衛体制の確立を数十年にわたって志向していくこと
*個別的な政策(これは状況次第)として、自衛隊の軍備増強を少しずつ強めること(GDP比1%ルールは無論廃止)、在日米軍駐留経費負担費分 (思いやり予算)に一定額の金銭を加え対価とした上で米国とのニュークリアシェアリング(核兵器共有)を進めること(非核三原則は無論有名無実化すべき) 等があり、将来的な独自防衛体制の形として(これは不可避だと思う)、「沖縄における在日米軍の最大限の撤退」を求め、「アメリカの日本に対する一方的な 防衛義務を規定する現行の新日米安全保障条約の改定」を行う外交政策が考えられる。
②沖縄県民に強引に妥結させて(現実的に「理解」等という表現は虚妄だと思う)、現行の新日米安全保障条約や防衛体制のまま、近隣地域との環境問題などを多く引き起こしている今の在日米軍基地を移設し、県内に代替地を求めていくか
しかないのではないかと私は考える。そして、私は①の論者だが、現在の民主党政権は②の政策を採っている。
ところで、②の外交政策に対する2010年11月29日(菅政権,少し古い)の世論調査(http://
国外44%、県外30%、辺野古15%で、
仮に県外・国外移設が不可能な場合の対応が望ましいとしては、
(ア)「辺野古への移設実現に向けてさらに努力する」27%
(イ)「普天間飛行場が残ってもやむを得ない」10%
(ウ)「どちらとも言えない」が57%
である。紙幅に限りがあるので少し一方的な話になるが、私は、上記の(ウ)と一部(イ)の見解を採る人の中には、はっきり言えば「沖縄県民に解決 困難で自分たちには直接関係ない問題のツケを払わせればよい」という日本国民の伝統的な「無責任」的安全保障史観があるように思える。
メア氏の言葉を借りれば、「醜いものを見ない(日本)文化」(227-228頁)であろうか。それが今日の沖縄問題ひいては日米安全保障問題の最大にして最悪の問題だと思う。
改めて、民主党政権や沖縄県民以外の私たち国民には、沖縄の米軍基地問題および日米間の安全保障問題、ひいては日本の安全保障問題自体に対し て、より知見と思慮深さを有し、真摯に議論し合い、一方的なエゴイズムではないコンセンサスの形成をしていくべきではないか。そして、戦後65年経った今 なお放置しているこの問題は、半永久的に放置し、なおざりにできるものではないと私は考える。
さて、そういう主張をすれば「じゃあお前は普天間基地移設問題どうするの?」と言う声が出てこよう。それに対する具体的な現状政策としての私見 は、普天間基地と近隣環境に生ずる騒音問題等の次善的解決策の実施という凡庸なものに過ぎない。しかし、上記問題の最大にして最高のスタートとなる解決策 は、沖縄県民ではない我々自身がこれまで伝統的に維持してきた「無責任」的安全保障史観を、我々自身に明確に自覚させた上で、「それでも沖縄にわが国の防 衛施策をなすり付けて、口では「申し訳ないと思ってるよ」等と言う現在の(日米)安全保障体制を我々は維持するのか」、「伝統的な無責任的安全保障史観を 自覚した上で、沖縄依存からの脱却と最大限アメリカに依存しない日本独自の安全保障体制を志向していくのか」を提起し、決断させることだと私は考える。上 記を具体的政策に換言すれば、今すぐ首相が、テレビやインターネット放送等で、終戦以降のわが国の安全保障体制の功罪を明確に説明し、その上で、上記選択 肢に対する我々日本国民の決断を「衆議院解散」という手段で問えば良いと私は考える。
ちなみに、その点で言えば、近時国民的評価の最もよろしくない鳩山氏は、安易に辺野古移設等と言わずに(現に退陣後は抑止力うんたらとやたらに 自らの発言を弁解しまくっているw)、思い切って、「最終的には沖縄にまた責任をなすり付けるのか選挙」でも打てば、鳩山政権の存在意義も辺野古移設で退 陣するよりは、はるかに良いイメージで受け容れられたのではあるまいか。
無論、その結果として、「我々はこれまで通りの新日米安全保障条約を維持し、結局わが国の防衛問題はこれまで通り沖縄県民になすり付けることに しました」という決断を選ぶかもしれない。しかし、その決断は、我々自身が今まで心の底で意識的に黙殺してきた「沖縄県民に対する一方的な国土防衛義務の 押し付け」を我々自身に意識させ、「沖縄県民以外の日本国民には安全保障問題を語る資格があるのか」やら、あるいは、かつて筒井康隆氏が論文で書いたよう な「沖縄独立論」を巻き起こすことにつながり、我々日本国民がいかに経済問題そっちのけで安全保障問題を怠惰にしか考えてこなかったかという、我々日本国 民の「決断でき(して)ない主権者ぶり」を、我々自身に、何より全世界に認識させることになるだろう。私はそれこそがわが国のあるべき安全保障体制のス タート地点であると考える。
私たち日本国民や我が国の政治家はよく「私は保守主義者だ」や「私は米軍抑止力は必要だと思ってる」等とのたまう。しかし、上記の「衆議院解 散」や「無責任論」を言う人が少ないのを見ても分かるように、結局のところ、我々日本国民と政治家は単なる「偽善的保守主義者」にすぎないのではあるまい か。
ところで、最後になってしまったが、「米軍基地が建設された当時は周囲にはほとんど民家がなく、農家が点在する程度だったのが、今では人口密集 地に変わってしまった」(121頁)という沖縄問題の客観的要因における指摘は、長年日本に関わってきたメア氏の優れた卓見であろう。