先に言いますが、超長いガチガチの法律話です。
もう少し加筆したらどこぞの「卒論」にできるかもしれませんね(^^)♪
ちなみに、私はこれで卒業論文を書くことは時間的にも研究分野的にもできないので、ネット公開しますね。
●はじめに
本日記は、現静岡地方裁判所判事である横田昌紀氏が論文として加筆されました「大阪民事実務研究 児童生徒のいじめ自殺訴訟の現状」判例タイムズ1358号(2012年1月1日)(判例タイムズ社)から、筆者が全面的に引用し、引用に際して、引用論文の趣旨を変えない程度に、一部数字や記述を改めたものです。
この引用は、あくまでも著作権法30条1項の私的複製に基づくものであります。また、引用箇所についても、あくまでも筆者が私的利用のために複製したいと思った記述のみ引用しております。全内容については、上記の判例タイムズ1358号をご覧ください。
●全面引用部分
1はじめに
いじめを原因とする自殺をめぐり多数の訴訟が提起されている。訴訟においては、いじめの有無、学校側の過失、これが肯定された場合の自殺との因果関係が問題となるが、上記のいじめと自殺との因果関係について判断が難しい。その原因としては、事実認定もさることながら、背景には因果関係論の混迷があると考えられる。
2いじめによる自殺に関する裁判例、学説について
(1)裁判例の分析
裁判例は、学校設置者を被告とする事案では、①いじめと自殺との間の事実的因果関係を検討し、②教員の過失(安全保護義務)と自殺との間の事実的因果関係をそれぞれ検討し、その上で自殺による損害が損害賠償の範囲に含まれるかを検討するアプローチを採っている。
(2)学校側の過失と損害賠償責任を認めた裁判例
学校側(教諭)の過失(安全保護義務違反)を肯定した裁判例は現在11例あるが、そのうち学校側の損害賠償責任を肯定した裁判例は3例で、否定した裁判例は8例である。ただ、肯定した上記の3例は過失相殺が行われ、他方、否定した裁判例では、比較的高額な慰謝料が認められている。
損害賠償責任を肯定した裁判例のうち2例は、損害賠償の範囲を判断する上で重要な学校側の「予見可能性」について、被害生徒の自殺を前提としている。肯定例では、いずれも「いじめの内容が悪質かつ執拗な場合で、学校側(教諭)がいじめの内容を相当程度把握していた」事案であると評価できる。
*損害賠償責任が肯定された裁判例
①被害生徒が1年以上にわたり暴行や金銭要求をなされ、自殺前に薬液を背中に流し込まれ、背中全体に大やけどを負い、自殺直前まで暴行や金銭要求がされた事案
②約3ヶ月にわたる継続的な暴行や椅子に画鋲を置く等の身体に対するいじめに加えて、「死ね」などの落書き、教科書を隠す、投げる、机や教科書にマーガリンを塗る等、通常の学校生活に支障を生じさせ、精神的に重大な苦痛を与える内容であり、いじめを契機とした自殺の可能性が相当周知されていた時の事案
3学校側の予見可能性と損害賠償責任の判断について
いじめについては、その発生が学校側にとって予見不可能でない場合、すなわち、教員や学校関係者に被害者から救済を求められた場合や、いじめが公然化して教員・学校関係者がこれを認識できる場合に至った場合、何らかの徴表があってこれを予見することができた場合は、学校側に被害を回避すべき具体的義務が生じることとなる。そして、その予見可能性についての判断は、平均的な教育専門家を基準にして、具体的に、当該学校や教員間でのいじめ問題についての取組み・指導等や、過去に学校でいじめの発生や紛争が生じたことがあったか等の内容を総合的に判断した上で、いじめの態様、程度、当該児童生徒の能力、心身の発達状況、年齢、性別、性格等の個別事情を判断して、具体的に措定される。
そして、損害賠償責任の判断については、例えば、教諭に安全保護義務違反があった時点における、①当該教諭が把握したいじめの程度、内容、被害児童生徒の肉体的及び精神的な状態や言動、②当該教諭の経験(いじめ事案を担当したことやいじめ防止への取組み等の有無)や知識、知見が挙げられよう。もっとも、当該教諭の予見可能性の有無を判断するにあたっては、その当時の一般的な教諭の知識、知見を前提に判断することは許容されよう。
4過失相殺(民法722条2項)
学校設置者の過失責任と損害賠償責任を肯定した裁判例では、いずれも過失相殺が行われている。「過失」の内容と過失相殺の割合は次のとおりである。
①被害生徒の保護者がある程度いじめを知りながら十分な対応をとれず、被害生徒が自殺を選択した
→7割の過失相殺
②いじめ行為は被害生徒の言動に触発された部分があることや、被害生徒の保護者が被害生徒がトラブルの渦中にあったことを看過していた
→4割の過失相殺
③被害生徒の保護者がいじめの発覚後に被害生徒と加害生徒を形ばかりの仲直りをさせたことや、被害生徒が自殺直前に自殺の意思を表白したのに、冗談と思い取り合わなかった
→4割の過失相殺
*民法722条2項:被害者に過失があったときは、裁判所はこれを考慮して損害賠償の額を定めることができる
●横田論文を読んで…(以下は私見がほぼ9割なので引用部は記載する)
横田論文を読んで私が感じたのは次の二点である。
●第一の感評
第一に、学校側の予見可能性(結果回避義務)を判断する際の考慮要素である。すなわち、ある生徒がいじめによる自殺を行い、そして学校側として関わった者(ら)の予見可能性が問題となった場合に、(ア)その者(ら)自身の経歴や年齢に関わらず、あくまでも「一般的な学校関係者・教諭の知識、知見、経験」をもって判断すべきか、(イ)その者(ら)の経歴や年齢であれば、一般的に有しているだろうと考えられる知識、知見、経験をもって判断すべきかである。この問題に対して、上記論文を執筆した横田氏は次のように指摘する。
「例えば、短期間ではあるが、苛烈で執拗ないじめがなされ、被害児童生徒が肉体的、精神的に疲弊していたところ、教諭がこれらを認識したにもかかわらず、いじめは大したことはなく、およそ被害児童生徒が自殺することはないと軽信して、何らいじめ防止の措置を講じなかったところ、上記いじめが反復継続し、被害児童生徒が自殺した場合、自殺の予見可能性について、当該教諭の主観的認識にのみ依拠すると、当該教諭には自殺の予見可能性はなかったとして相当因果関係が否定されることになるが、これでは凡庸な教諭ほど責任を免れることになり、不当な結果となろう」(上記論文18頁注67)
確かに横田氏の指摘どおりなのであるが、上記の凡庸な教師の法的責任をどう構成するかという問題になると、横田氏はその答えを「蓋然性」に求めるのである。この答えは少し物足りないと筆者は考える。この答えは、正確に言えば、「学校側に求められる知識、知見、経験のレベルを上げていく」というように指摘すべきではあるまいか。
折しも検察審査会によって強制起訴されたJR西日本の元社長の過失責任が否定された事件で、悔しさを滲ませた遺族の方が「企業トップの(過失)責任を強化した法律を制定してほしい」と会見していたが、児童生徒のいじめによる自殺訴訟で学校側の責任をより厳格なものにするためには、少なくとも、裁判所がこれまでの判例を「学校側に求められる最低規範」とする態度を明確にするか、文科省ないしは国会が中心となって、これまでの判例を参考に「学校側のガイドライン」を作るかが不可欠だと筆者は考える。
しかし、学校側に求められる結果回避義務のレベルを上げれば上げるほど、「類似事案にも関わらず、判例によってズレがある」という批判は避けては通れないと思われる。実際に、上記論文過失相殺で紹介された①の判例は、いじめによる児童生徒の自殺という問題が重要視されていなかったが時ゆえの法的評価と指摘することもできるのではないか。
●第二の感評(潮見佳男『不法行為法Ⅰ[第2版]』を見ながら)
第二に、いじめによる児童生徒の自殺が行われ、学校側の過失責任(安全保護義務違反)や損害賠償責任が問題となった事案で、学校側の過失責任は否定するものの、被害者の保護者に対する損害賠償責任については、「慰謝料」という形で認定することの法的根拠への疑問である。これは、要するに、「学校側の過失責任(安全保護義務違反)は認められないのに、精神的損害は与えたと認定するその法的根拠は何なのか」、「学校側の過失責任(安全保護義務違反)が認められないのだから、通常精神的損害も認められないのではないか」という疑問である。
筆者はこの疑問をあえて「アメリカ的過失責任主義理解に基づく、日本的不法行為法学への疑問」と名付けたい。実は、アメリカでは「いじめ防止法」がほとんどの州で制定されており(http://mamoro.org/ordinance/ordinance-america )、①の学校側に求められる予見可能性のレベルで言えば、日本よりはるかに水準が高いのであるが、ここで筆者が「アメリカ的過失責任主義理解」としたのは、「アメリカ民法である古典的な過失責任主義の理解」という意味である。
そして、上記の筆者の疑問は決して日本の不法行為法学にも妥当しない訳ではないと思う。以下では、現在の日本の不法行為法学を概観した上で、なぜ「被害生徒に対する過失責任(安全保護義務違反)は認められないのに、精神的損害は認められるのか」という現在の裁判所が採っていると思われる法的根拠の問題についての私見(こじつけ)を示してみたい。
(1)不法行為における「過失論」
まず現在の日本民法における過失論は、はっきり言えば「客観的過失論」である。すなわち、「過失とは結果回避ないし防止義務に違反した行為であり、かつその前提として行為者に結果発生の予見可能性の存在が要求されている行為」(平井宜雄『損害賠償法の理論』400頁)である。これは上記論文の「予見可能性」レベルと大差ないので、簡単に言えば、「過失論」から上記の法的根拠の問題を解決することは筆者の学問的能力では無理ぽです。また、筆者の感想を申し上げると、それは若干「こじつけ」に思えます。学者でも研究論文でもないので、ここはこれぐらいにしておきます(笑)。
*ただ一つだけ、上記の問題を解決できる民法上の主張があるとすれば、「意思の緊張を欠くという心理状態と、その行為にでるべきではないという結果回避義務とは、過失の2つの側面をそれぞれ表現したものに他ならない」という見解(近江幸治『民法講義Ⅵ 事務管理・不法利得・不法行為(第2版)』111頁等)でしょうか。
(2)不法行為における「故意論」
日本民法における「故意」とは、権利・法益侵害の結果を認識し、かつそれを意欲ないし認容しつつ、その結果を実現するために行動することである(加藤一郎『不法行為(増補版)』67頁等)。そして、「故意」が不法行為を構成する法的根拠としては、自らの設定した目的実現に向けて外界を支配操縦するという「目的的意思」(前田達明『不法行為帰責論』207頁)である。より簡単に言えば、故意による不法行為の責任の根拠とは、規範に従って自らを動機づけることができたのに、違法な行為をしたという有責性非難なのである。
ここで、先に筆者の上記問題に対する私見(こじつけ)を申し上げる。
「学校側の過失責任(安全保護義務違反)は認められないのに、精神的損害は与えたと認定するその法的根拠は何なのか」
→学校側の対応が不法行為の「故意」を構成しているから。
「学校側の過失責任(安全保護義務違反)が認められないのだから、通常精神的損害も認められないのではないか」
→不法行為の「故意」と「過失」は違うから。
以下では、その理由を、潮見佳男先生(直接教わったことはないが、私の債権法分野の学問的師匠w)の『不法行為法Ⅰ』の記述を用いて説明する。
(3)私見を支える理論的根拠
まず近時の日本民法によると、損害賠償の範囲について、故意不法行為の独自性が認められるのが支配的見解である。すなわち、故意による不法行為については、過失による不法行為の場合とは異なり、権利侵害により発生したすべての損害が賠償範囲に入ってくる。故意による不法行為では、結果発生を意欲・認容した者にはその結果を被害者に転嫁することを許さないという価値判断がなされるからである。そして、不法行為に基づく損害賠償として認められている「精神的損害」、すなわち「慰謝料」の多寡は、故意の内部での軽重にも左右される問題であると指摘されている(加藤雅信『新民法体系Ⅴ 事務管理・不当利得・不法行為(第2版)』137頁)。
次に、不法行為を構成する「故意」には、結果発生が確実であるとは考えなかったものの、結果発生の可能性は認識しながら、これを認容している場合の「未必の故意」が含まれるのであり、かつ「未必の故意」は「認識ある過失」と区別されるのが一般の理解である(加藤一郎上記67頁,前田上記27頁,四宮和夫『不法行為』300頁)。
(4)私見
現在の裁判所が採っていると思われる法的根拠に対する筆者の見解は次のとおりである。第一に、裁判所が、学校側の過失責任(安全保護義務違反)を否定しながらも、学校側に比較的高額な慰謝料の請求を認めているのは、学校側に「故意に基づく不法行為責任」があったという法的評価をしているのではないかということである。第二に、学校側に損害賠償責任を発生させる根拠とは「未必の故意」ではないかということである。
(5)児童生徒のいじめ自殺訴訟の課題
今後の現実的な問題としては、故意による不法行為責任に基づく損害賠償額と、過失による不法行為責任に基づく損害賠償額のバラつきが最大の課題である。上記論文によると、学校側の過失責任が認められた場合の損害賠償額が200~350万円なのに対し、慰謝料に基づく損害賠償額は500万円となっている。児童生徒のいじめ自殺訴訟で原告の立証が明らかに困難であると思われる過失による不法行為責任の方が、故意による不法行為責任より金額的に低いというのは、前者の場合、過失相殺の考慮が厳しいとはいえ(ア)、いささか不合理にも感じられる。
この問題はともかくとして、少なくとも、裁判所には、児童生徒のいじめ自殺訴訟における損害賠償額の精緻な算定基準をルール形成していくことが求められる。それは、かつて交通事故の損害賠償額の算定について、あらゆる先進国に例を見ない精緻な算定基準を作り上げた日本の裁判所であれば、必ずしも不可能ではないであろう。もっとも、そうしたルール設計は立法府である国会が行っても構わない。裁判所や国会の今後の役割に期待する。
(ア)潮見は、上記264頁で、過失相殺に関して、故意不法行為の場合、被害者に過失があっても斟酌すべきでないという見解が強調されつつあることを指摘する。
*なお、筆者は、潮見佳男『不法行為法Ⅰ』を用いて、児童生徒のいじめ自殺訴訟の現状の私見理解を説明してきたが、実は、潮見は、不法行為制度を上記のような「故意不法行為の帰責原理と過失不法行為の帰責原理が異なる」という法的見解を支持していない。すなわち、潮見は、上記の法的見解について、意思責任とはいうものの、行為に対する客観的無価値評価が前提となっており、むしろ帰責の本質は後者にあるのではないか(窪田充見『不法行為法』43頁)ということ、「意思責任」の「意思」の対象が、権利侵害についての故意なのか、損害惹起についての故意なのかが明らかではなく、多義的であるということ、それゆえに、意思責任としての故意が語られる場面ごとに「故意」「意思」の意味が異なるのではないかという懸念を指摘している(潮見上記5頁注8)
そして、筆者が理想とする不法行為制度については、実は潮見先生の考え方に近いのです。したがって、本私見は筆者のこじつけであって、「筆者の主張」ではないことを斟酌して頂ければ、幸いに存じます。