久々に温かみとユーモラスに溢れた小説に、私は再会した(はしがき)
改めて、私が今年の本屋大賞で推薦した本
今回は、推薦者として、しっかり読んだ(^^)♪
ちなみに、前の本屋大賞予想日記(http://
読んでみて、私の主観は間違ってなかった!と自画自賛ながら思った(笑)
まず同作品の推薦理由は前回の日記にも書いたけど、「辞書作り」という独自性抜群の舞台で描かれていること
仕事自体を知っていたとしても、それを小説にしようなんてことは普通の人はまず絶対思い浮かばない。
さすがプロの作家である
また多くの読者がすでに感じておられるように、
著者三浦しをん氏の「言葉」に対する姿勢や愛情がなみなみと感じられる。
ちなみにある方が書評でこんなことを書かれている。
「また、感動し勉強させられたのは、「~のように」の使い方。一般に、「~のように」という比喩は、作品を殺してしまうほど難しい部分とされる。奇抜すぎる独創表現を使っては、あざとすぎるし、平凡では笑われる。作者も、慎重に使用を抑制しながら、物語の最後の最後(251頁)で、とびきりの美しい表現として出してみせた」
そして、本書が本当に良い作品であると思うのは、ラストの素晴らしさである。
読書の中には、ラストのスピードぶりがいかがなものかと訝しがる方もおられるが、私はこの終わり方が正しいと思う。
少なくともこれまで私が批判してきた田中慎弥氏の芥川賞受賞作『共喰い』、道尾秀介氏などと比べれば、申し分のないラストである。
もっとも、先ほどの読者の意見は、作者が「15年」と具体的な年月を明言したがゆえに鮮明に感じられてしまったのではないかと思う。
以下、私が気に入った部分
辞書づくりに取り組み、言葉と本気で向き合うようになって、私は少し変わった気がする。岸辺(辞書編集部に配属された若い女性編集者)はそう思った。言葉の持つ力。傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力に自覚的になってから、自分の心を探り、周囲のひとの気持ちや考えを注意深く汲み取ろうとするようになった。(203頁)
言葉はときとして無力だ。荒木や先生の奥さんがどんなに呼びかけても、先生の命をこの世につなぎとめることはできなかった。
けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、一番大切なものがあるのだと証すもの――、先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを語りあい、記憶をわけあい伝えていくためには、絶対に言葉が必要だ。
馬締はふと、触れたことがない先生の感触を、己の掌に感じた。先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった、ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。
死者とつながり、まだ生まれて来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。
きみとまじめさんのような編集者に出会えて、本当によかった。あなたたちのおかげで、わたしの人生はこのうえなく充実したものとなりました。感謝という言葉以上の言葉がないか、あの世があるならあの世で用例採集するつもりです。『大渡海』編纂の日々は、なんと楽しいものだったでしょう。みなさんの、『大渡海』の、末永く幸せな航海を祈ります。
最後2つの引用箇所はあえて触れない。
自分で本書を買って、引用箇所の素晴らしさを味わってほしい。