【コラム】私が最も嫌いな小説家の作品 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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大学一年生の春に読んで「陰鬱」になり、大学四回生の冬に書評を書こうとして最も「嫌悪」し「酷評」する作品。

しかし、この作品のおかげで、私は「道尾秀介」氏みたいな物書きには死んでもならないなと思う。

書評:道尾秀介『向日葵の咲かない夏』
評価 3/5

第6回本格ミステリ大賞候補ぴかぴか(新しい)
ちなみに同大賞を受賞したのは、ガリレオシリーズでおなじみの東野圭吾『容疑者Xの献身』ぴかぴか(新しい)

さて、人には勧めないと言いながら、自身の読書録のため、いや、正確に書こう、誰かに見せたい、自分の書いたことを分かってほしいなどという最も賤しい自己欲のために書評を書くのだが…



①同作品で使われるトリックについて

ネタバレやこの小説の仕掛けについては、http://www5a.biglobe.ne.jp/~sakatam/book/himawari.html を参照して頂きたい。

この書評は大変優れた書評であり、本作の価値を漏らすことなく実証している。

*なお次は、この世で最も暗く狂気に満ちた「同作品を人に勧めない理由」の話なので、本当に見たくない方は飛ばすなり、見ないなりして頂ければ幸いです。










②同作品を人に勧めない理由について

私が同作品を人に勧めたくない理由…
一言で言えば「殺人犯を生み出したくないから」である。

同作品は間違いなく「読む人を選ぶ作品」である。
同作品をめぐっては「陰惨」「陰鬱」等の批評がおなじみであるが、むしろそうした批判はただの「感想」や「不満」であり、少なくとも私にとっては、全くどうでもいいことだ。
しかし、同作品は読む人が読めば「殺人犯」が生まれるというのが、私が同作品を人に勧めたくない理由なのである。

なぜか?

それは、同作品には、「殺人者」すなわち「人を殺害した者」だけが持つ無機質的または快楽的「思考」「感情」が多分に結集され、かつ表現されているからである。

なお、言うまでもなく私は上記の例にはあたらない。
だが、この作品は「読む人が一歩間違えれば狂気に走る作品」であると単なる批評家的経験に過ぎないが、私は思うわけである。

これは憶測かもしれない。
しかし、wikipediaによれば、市橋達也氏(批判はあるかもしれないが、私は氏をつける)は逮捕時に同作品を携帯していたらしい。

「市橋氏なら同作品の殺人犯が持つ思考や感情は容易に理解できたことであろう」

私は今自分がいかに狂気じみた話をしているかを感じながら、それでも客観的に述べざるを得ないと自己に問いかけながら、記述をしたのである。

私見ばかり話すのは良くないので、同作品の「狂気」が象徴されている最も代表的な一文を引用する。

「物語をつくるのなら、もっと本気でやらなくちゃ」(416頁)



③道尾氏自身について

同作品の快楽的殺人犯が生まれるきっかけになったのは、間違いなく「●●の死」と、それによって生じた母からの「敵意」「害意」である。

「するはずないじゃない。僕がそんなことして何になるの?僕ほんとに―」
「信じられるわけないだろ!」
お母さんが右手を勢いよく振り上げ、僕は身を硬くした。お母さんは、ばん、と音をさせて後ろの壁を掌で打った。

「とにかく、お前の言うことなんて、お母さんは信じない」
声が震えていた。
「お前はいつだって嘘ばっかりつくんだ。嘘ばっかりついて、人に迷惑をかけて―」
声が震えていた。
「本当のこと言おうか」
今度は一転して低い声を出した。
「お母さんね、先生から連絡がきてS君のことを聞いたとき、思ったのよ。―お前が●●●●●●●って」

最後の言葉は、僕の耳の中で、うわんと大きく反響し、それからばらばらに砕け散った。それは僕にとって、あまりに衝撃的な言葉だった。僕の心は、それを受け止めることを拒否した。これは自分を守るために、いつからか僕が憶えた方法だった。意識してそうしているわけではないけれど、自分の心を攻撃しようとする言葉を、僕はこうして拒絶することができるようになっていた。これができなかったなら、この家の中でいま頃僕はとっくに壊れていただろう。

やがてお母さんはゆっくりと階段を下りていった。
その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、僕は思った。
それあ、いつも僕の胸の中にある思いだった。
この世界は、どこかおかしい。
(54-55頁)

さて、同作品の著者道尾秀介氏は、氏が直木賞を受賞した作品『月と蟹』においても、登場人物が親によって受ける「精神的ダメージの傷跡」を物語の核として書いている。

道尾氏自身も幼児期にこのようなダメージを親から受けたのではないか、毎度毎度描かれるともうそのように邪推せざるを得ない私がそこにいる。


④作品の評価について
同作品の評価が3/5なのは、②の理由からではない。
少なくとも、②のような狂気的「思考」や「感情」を作家が表現したとしても、それをもって低評価とするのは、物書きを志望する私にとってはペンを折る行為に等しい。

むしろトリック自体で言えば、同作品の評価は4/5なのだ。

では、なぜ3/5なのか。
それは単純明快「ラストが悪すぎる」から。

これは、氏の『月と蟹』でも指摘したように、「道尾秀介」という作家が持つ根本的かつ最大の欠点であると私は考える。

どこがいけないのか。
簡単である。460-462頁が酷すぎる。この部分は削るべきだったのである。以下では根拠をつけて説明する。

【一番目】
「家は駄目になっちゃったけど、お母さん、これでよかったと思うわ。ミチオもミカちゃんも、こうして無事に生きているわけだし」
→母親はこの発言で今なお「ミカちゃん」の存在に固執している。そんな母親が、その前の部屋が燃えるシーンで、「お前がいけないんだ!いつだってお前が悪いんだ!お前さえ―」と言うのは、作者の「とりあえずこんなラストにすれば、読者が感じた陰鬱さを緩和できるだろ」程度の荒療治にすぎないのではないか。小説はラストが作品の価値を一定程度決める。上記の見解が真実だとしたら道尾氏の認識は甘すぎるし、読者を愚弄し

【二番目】
「お爺さん、こんどは何になるのかな?」
「さあ―何だろうね」
ノミか何かじゃないだろうかと、僕は思ったが…
→これで、この犯人が、結局最初から最後まで首尾一貫して、ただ自己保身のみを唯一の目的とする「快楽的殺人者」と理解せざるを得なくなる。
→「快楽的殺人者」のままで終わりたいのだったら、上記のような「カンフル剤」を使うのは、いくら「小説」が何でも許されるといっても、はっきり言って「姑息」だし、「アンフェア」極まりない。

ゆえに、私なら、460-462頁削除して、5頁の「月日が経って、僕は大人になったけれど、妹はならなかった」抜くかな。


5まとめ

今まで道尾作品を2作読んで思ったのは、結局この人は「暴力的な狂気」をただ弄んで題材に使い、単に「売れるテーマ」だから使ってる最低な作家にすぎないのではないかという私の評価。

どんな作者にだって、どんな物書きにだって、多かれ少なかれ伝えたいテーマや題材がある。

無論、表現力や文章構成力によって物書きのレベルは異なるのだから、その人個人の実力に応じたテーマや題材の選び方、表現、主張があるだろう。

だが、少なくとも「若年期におけるトラウマ」や、人間・動物に対する「破壊行為」という題材を書く時は、どんな書き手にも実力に応じた「敬虔さ」と内容レベル応じた「配慮」がされなければならないと私は思う。

何が言いたいかというと、「結局この人が、推理小説という表現ツールを通して、読者に訴えたかったこと」って何?、「人や動物を殺す快楽的欲求」や「トラウマ」という人の心の奥底に眠る怪物を引っ張り出したくせに、その割には、砂上の楼閣にさえなっていないたった1、2行の文章で、「はい、親子関係は上手くいきました」などの毒にはなっても薬には絶対ならない結末持ってきて、それであなたは読者に何かを伝えられたとか思ってるの?、っていう話。

別に、商業主義を批判してるわけじゃないよ。

うち、金大好き拝金主義者だもの。

でも、人並みには「一流の推理小説家」と呼ばれてる著者が、いつまでもこうした処世術で飯を食っていくというのは、「否定」はしないけど、人間の「屑」のやることだと私は思う。

だから、私、道尾秀介氏大嫌い。