【超感動した】プロジェクトX「さぬきうどん 至高のうまさとは」 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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日本一のうどん王国香川県が最高の国産小麦を作り出すまでの物語♪

【あらすじ】
全国にその名が轟く「さぬきうどん」

力強い「コシ」に、光る「つや」、そして何より、うどん王国香川の誇りは、馥郁(ふくいく)たる「香り」だった。

瀬戸内の日差しと、水はけのよい土地が育む小麦の香りだった。

しかし、40年前、気象異変が起きた。

小麦畑は壊滅した。

そこに、オーストラリア自信の小麦「ASW」が輸入された。

農家は故郷の小麦を、捨てた。

だが、香川のうどん職人たちは、納得できなかった。

「あの香りがない」

一人の男に、命が下った。

「故郷の小麦を開発せよ」

1万回にのぼる受粉作業

花粉で涙まみれになった。

それでも、小麦はまったく実らなかった。

その時、小麦を捨てた農家と三代続くうどん職人が、やってきた。

これは、故郷の味を蘇らせるため闘った人々の、知られざるドラマである。


【もうちょっと詳しく】
 昭和30年代まで、6月の香川の農村では、見渡す限り黄金色に輝く光景が見られた。前年の秋にまいた小麦が実り、収穫期を迎えるからである。

 しかしそんな状況が一変したのは、昭和38年。いつ降りやむとも分からない記録的な長雨が収穫時期の6月に続き、小麦は壊滅する。間もなく、海を越えて日本に運ばれてきた小麦があった。オーストラリア産の最高の小麦「ASW」だった。

 この小麦は、うどん用に極めて適していた。日本の小麦にはない純白の色目、コシ、つや。しかも大規模に栽培されるため、品質にばらつきが無く安 定しているのも大きな魅力だった。瞬く間に香川にもオーストラリア産小麦が浸透していく一方、農家は小麦作りをやめた。オーストラリアの小麦で作ったうど んは消費も伸び、昭和45年の大阪万博の開催とともに、香川のさぬきうどんは全国的に有名になった。

 しかし、うどん職人は何かもの足りなかった。それは、風味だった。かつて子供の時代に食べた地元の小麦だけがもつあの香りが、オーストラリア産 にはどうしてもなかったのである。「香り高く、しかもオーストラリア産に負けない品質の、県独自の小麦を開発して欲しい」うどん職人は組合を通じ県に要望 書を出す。その熱意はやがて県を動かした。

 平成3年、香川県農業試験場で、今まで国任せだった小麦の開発が始まった。リーダーは農業研究員の多田伸司。メンバーは2名。小麦の交配作業が 始まるとふたりとも花粉で重度のアレルギーとなった。涙を流しながら、多田たちは、長野での受粉作業にアイデアを得て、4000種類以上の品種候補を育て る。

 それから数年間をかけ、味を見るなど候補を絞るための選抜作業を繰り返していった。平成10年、多田は最終候補となった小麦「香育7号」と「香 育8号」を、地元の製粉業者やうどん職人に披露する。そして、皆、ASWに負けない白色と、かつて作っていたあの香りを持つ「香育7号」に圧倒される。

 そして、「香育7号」は「さぬきの夢2000」と名付けられた。ところが、さぬきの夢2000は、その粘性ゆえ製粉機にかけられないという問題点や、含有量グルテンの少なさから途中でうどんが切れてしまうという問題点があった。

「故郷の小麦を完成させろ」

農家、試験場職員、製粉業者、うどん職人。理想のさぬきうどんを目指した人々たちは力を合わせ、最後の難関に挑む。


【感想】
久しぶりにテレビで泣いた。
「さぬきうどん」ほど、上手いうどんはない。
だが、その上手さの裏には、知られざるドラマがあった。

数々の困難を乗り越えてなお「国産最高小麦」を作り上げたのは、香川県人のプライドと誇りのなせる技だったのだと改めて知らされた。


「オーストラリアの小麦では本当のさぬきうどんは作れない」
十分良質で、さぬきうどんの良さを日本全国に知らしめたオーストラリア産小麦「ASW」、それでもそのASWに満足できず、至高の味を追い求めた香川県人は本当の「職人」だと思った。


【最後に】
2004年、さぬきの夢2000は、品質検査で、あのASWを抜いて日本一の小麦となった。

農家を回るたびに言われる。

「この小麦はさぬきの誇り、大事に育てます」

故郷をあげて取り戻した誇り、うどん王国を俺たちも支えている