【書評】村上春樹『スプートニクの恋人』 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

うんちくコラムニストシリウスのブログ

ブログの説明を入力します。

今日の朝、急に書評を書きたくなった一作♪

ちなみに、私は「村上チルドレン」でもなければ、「ハルキスト」でもない(笑)

まず、本書ならびに村上春樹氏の全体的な魅力を挙げるとするなら、ベタな意見なのだが、「表現の美しさ」なのであろう。

逆に言えば、この表現を「あえて難しくして文章を長くしているだけ」と感じるなら、たぶんその人は村上春樹氏の文章があまり好きではないのではないか、と思う。

そして、その美しさに魅かれる人こそが「村上チルドレン」であったり、「ハルキスト」になったりするのではないか、と思う。

ところで、素晴らしい小説を書く小説家は、概して「タイトル」をつけるのが恐ろしく上手いと私は思う。だが、本書の魅力は、そうした単なる「タイトルの素晴らしさ」に留まらない「美しさ」の下、『スプートニクの恋人』という題名がつけられているのではないかと思う。

この『スプートニクの恋人』というタイトルについて、ある書評者はこう述べる。
「スプートニクとは、恋人たちのことを象徴的に表しており、軌道上を永遠の孤独の中で周り続け、たとえ交わることはあっても、お互いに何も与えず、何も奪わず、一瞬の後には分かれて再び永遠の孤独の中に戻っていくスプートニクの末裔(登場人物たち)の姿を本書は描いている」

私には、残念ながら、上記の評釈者のような流暢な美文を用いる能力はない。
それでもあえて私の解釈を述べるとすれば、「スプートニクとは、誰にも知覚されず、理解されない独りぼっちの世界」だと感じた。だからこそ、最初のページで、スプートニクは「回収されない衛星」として紹介されていると考えた。

さて、このスプートニクの世界にいる者を挙げるとすれば、「ミュウ」であろう。
本書でのミュウの世界を読んでいると、何度「こんな人生哀しすぎる!」と叫びたくなることか(と言うか、叫んだ笑)。本書219頁以下の「ミュウの観覧車の話」に至っては、ミュウの世界の闇っぷりが深さをまざまざと感じさせられ、実に読むのが辛い(逆に言えば、本書の価値を知るには、この部分は必ず読まねばならない)><

最終章で、ぼくはそんなミュウを見かける訳だが、その時の表現は実に的を射ている。

そこに残されているいちばん重要な意味は存在ではなく、「不在」だった。生命の温もりではなく、記憶の静けさだった。その髪の純粋な白さ(ミュウの髪は上の観覧車の出来事の後白髪になっていた)はぼくに、避けがたく、”歳月に漂白された人骨の色”(シリウスさんの注)を想像させた。ぼくはしばらくのあいだ、吸い込んだ息をうまく吐き出すことができなかった。
(312頁)

さて、少々長くなってしまったので、そろそろ本書の最大の魅力に入る。

本書の最大の魅力、それは何と言っても「構想力の深さ」であろう。

「構想力の深さ」、これはどの一流小説家でも持っているものであろう。
そうなのだろう。だが、本書の構想力の深さたるや伊達ではないと思う。

それを感じるのが次の表現なのだが、いくぶん多いので(笑)、あえて最終章のすみれのセリフから説明する。

わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。ねえ、わたしはどこかで――どこかわけのわからないところで――何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門をつくるときのように、象徴的に。
(317頁)

この表現と、上のミュウの”歳月に漂白された人骨の色”は、第1章のぼくの「中国の門のつくり方」の説明が基になっている。

人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこに散らばったり埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。そして町の入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ。
(26頁)

要するに、「喉を切る」という行為は、本書では実に重要な行為であり(250頁等)、最終的にすみれは喉を切ってぼくの下に戻ってくることになる。

さて、ここで注意して頂きたいのは、序盤の表現を最終章および本文全体に散りばめて、本文全体の言いたいことを何度も浮かび上がらせるというのは、一流小説家なら誰でも持っているであろう「構想力の深さ」であると思う。

では、一流小説家である村上春樹氏の本書における「構想力の深さ」は「どうして伊達ではない」のか。

一言でいえば、「上記のような表現技法が序中下いずれもで何度も用いられている」、これに尽きるであろう。
たくさん挙げればきりがないのだが、まず「迎える」という表現

「じゃあわたし自身を失ったわたしはいったいどこに入っていればいいのよ」
「二、三日ならぼくのアパートに泊まれる。君自身を失った君ならいつでも歓迎するよ」
(95頁)

「ここに迎えにきて」
そして唐突に電話が切れた。(中略)ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくは急がない。もうとくに急ぐ必要はないのだ。ぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。
(317頁)

そして、「そう(だ)ね?そのとおり。[!]」
このすみれとぼく共通の確認方法など、序中下盤全体で繰り広げられるすみれとぼくの関わりが表層的に積み重なることで、二人は互いに結ばれたのだと思う。

さて、ここまで筆を進めてきたのだが、いかんせん「村上文学を評論する」等という行為が、まさに私がいかに傲慢で、無謀で、無知(恥)な人間であることを示しているということを自覚させられ、むしろ後悔ばかりが募ってくる(笑)

そして、そんな私を村上氏は続けてこう諭される。

「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」
(82頁)

さて、恒例の活字中毒症から回復されたことだし、同窓会でも行くかな♪(笑)