緩やかな報復 | おいでませ

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高城香那のディレッタントの延長上ブログ

報復とか復讐というと
害がありそうで
歪んだように感じますが

今そんなモノが
めらめらと
ふつふつと
沸いています

音楽と向き合うときに
人に聴いてもらうための音楽と
自分の喜びのために奏でる音楽は
「依存」と「夢中」の
焦点が他人か自分かのように
視点が違うものだと思う
 
私の音楽人生には
これまで経験した
触れてきた楽器や
演奏した会場、
聴いてくださった方々によって
アイデンティティが形成され残っています。

前回のピアノリサイタルの写真です。

懐かしい〜

 

演奏している時は

基本無心ですが

たまに「ミスしやすい場所に来たなぁ」とか

「いつもよりここはゆっくり弾こう」など煩悩が入るもの。

それに対して

作品について話している時は

その作品のことだけに夢中になって話してしまう。

演奏中は作品や内の自分との対話が多くを占めているけど

人に言葉で作品を伝える時は

まずは「解りやすく噛み砕く」という

他人があってのコミュニケーションツールで、

一つの作品を演奏から、

言葉から楽しんでもらうために

どちらも必要なものだと思う。

たまに演奏だけで

全てを察知するような能力を持った方もいますが、

そこからまた謎が生まれる時

紐解くのに必要なのは、言葉だと。

 

演奏だったり言葉だったり技術はそれぞれ違うけれど

一人で演奏している時と

人前で演奏している時の違いは

ここなんじゃいかと思います

 

私なりに報復だと思っているのは

はじめに音楽として受け取った何かを

誰かによって遮られたり、強張ったりしてしまった時

本来の状態に戻すことをいいます

 

大人になれば

反抗するのもめんどくさくなるような

時期もありますが

結局蔑ろにしてたら色々遠回りなんですよne

 

丁寧な暮らしをしている人って

驚くほど少ないと思う。

というか、出来ないような生活様式になってきてるけど

これを自ら打ち壊すような精神で日々精進しないと

いくら今仕事があっても

今後は他人に奪われてしまうだろうなと。

 

奪われると、次は「仕事としての音楽」に

執着してしまい

自分はもっとどうしたいなどの欲が出てくると思いますが

それは、本来の自分の欲ではなくて

世間に惑わされた幻想によって作られた

理想、空論で

本人にも他人にも

欲しいものは一つもないはずなんですよ

 

 

自分が譲れないもの、手放したくないものは、

依存によるものか?

夢中によるものか?

 

あらためて

問いた出すお年頃になってきたようだ(・▽・)