思いがけなく少し文章を書く機会を頂戴した。
ただ、私が今までにあまり深く考えたこともないような題材だったので、
どういうふうに自分らしい文章を書くかを決めるまでは、相当に悩んだ。
正直言うと、お話を頂いた時には 何とかなるわ と思ってお受けしたのだけど、
書き出した途端に筆が進まなくなったというのが本当のところ。
「泗水」というのは江戸時代における四日市の呼称ということだが、
流れる水紋を見つめていて、
背伸びしても仕方ない、流れに任せてありのままに感じていることを書けばいいのだと、
等身大の自分を書く事にした。
神は大きな存在でありながら、常に身近にあるものと私は考えています。
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四季のある国に生まれ、その移り変わりを愛で、
季節とともに過ごす日本人としての私の中に根ざす習慣、
つまり「和」の精神や周りのものに手を合わせるということは、
小さな頃から見慣れた盆提灯にある「敬神」の文字の表すものに繋がっていると、
やっと今になって気が付いた次第です。
「神」。
「申」は稲妻(電光)が屈折して走る形で、神の威光の現れと考えられたので、神の初文。
その後「申」が 神以外の もうす などの意に用いられるようになり、
神の意を表すには祭卓を表す「示」が加えられて「神」となり「神」となりました。
『説文解字』に「天神なり」とし、「萬物を引きて出だす者なり」とあるように、
「神」とは、もと自然の事物や力を崇拝する自然神でしたが、
金文によると祖先の霊をも神として祀るようになっています。
「神」は かみ の意の他に、こころ・こころのはたらき・心の働きのすぐれたもの の意にも用います。


