「主を畏れる一人の子は、千人の子にまさり、不信仰な子を持つよりは、子を持たずに死ぬ方がましだ」(第16章3節)。気持ちは分かります。ただ、結婚して子供に恵まれないということは、かなりプレッシャーを与えるもので、そのまま鵜呑みにはできないかも知れません。
翻訳というものは難しいものだ。何度も読み返し、読み込んで原語が言わんとしていることを翻訳の中でくみ取って欲しいと、そういう前書きが新鮮に感じました。
手元の聖書で30頁もある書物を一気に読まないといけないのは、正直つらいものがあります。ちょっとペースが遅れているために、無理して読み進めているのです。この時代の書物に共通と感じられる傾向があります。それは、悪人は直ちに罰が降り、善人は直ちに報われるという傾向です。あえてそのように書いていると感じます。イエスが、ユダヤ人から「いつまで気を揉ませるのか」と尋ねられたことを思い出しました。神が使いを直ちに遣わしてというのは、やはりイエス以前の思想だと思います。イエスはそれらを改めるためにももうそろそろおいでになることになっていたのかも知れません。
異教の習慣を決して受け入れなかったエレアザル、七人兄弟の殉教の話は、個人的には読み直して殉教していく中で何を学び取るべきか、しっかり見直したいと思います。残酷な拷問を恐れなかったのがすばらしいと思われそうだけれども、その奥には、残酷な刑を恐れなかったのはどのような信仰があったからか、その信仰はどのような言葉で表明されたかをしっかり読み取らなければならないと思っています。実はこれ、現代に殉教者の意義を問うためにも同じ作業が必要なのです。
マカバイ記二はますます戦い。とは言っても第4章では異教の習慣を強要されたことに対する抵抗運動としてユダヤ人が立ち上がったとあるので、まあ、そうなのでしょう。
ユダ・マカバイの後継者ヨナタンを中心に書物の後半は続く。同盟、戦い、同盟、戦い。同盟、戦い。うーん、イエスの到来が近くなった頃のユダヤ人たちは、戦に明け暮れていたのかなあ。
ユダ・マカバイの勇敢な姿ばかりが目に付くが、勇敢さの根拠は神への信頼にある。その基本を読み取るのがこのマカバイ記の読み方かなと思った。このあたりになると、実際の世界史の知識も必要になってくる。世界史を高校の時に取らなかった人は、こんな場合どうするのかなぁ。
この物語はハマンの悪巧み(ユダヤ人抹殺計画)からモルデカイとエステルの努力によって民族が救われるという物語だ。いちばん感じたのは、神はその民を決して見捨てることはないという強い確信です。人間のどのようなたくらみも、神の前では明らかであり、神は決して人間の横暴を放っては置かないと思いました。物語にはギョッとするシーンも描写されていますが、大切なのは、神がこの物語の中で大胆に介入してくださるということでしょう。
イスラエルの民は不忠実な歴史を延々と続けてはいるけれども、その中にも忠実な人がいたことを教えてくれるのがたとえばこのユディト書だね。「忠実な人」と言ったのは、男性のケースもあるし、女性のケースもある。そう思うと、神は昔から、男性であろうが女性であろうが、必要なときに必要な「人」を使って働かれるということなんだろうね。ユディトはその中でも際立っています。