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ISBN4-8202-1264-4を読破するぞ

引用する聖書は、日本聖書協会 発行

「聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき」からです

(c)日本聖書協会

Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

トビアは天使ラファエルと旅を続け、無事に父の預けたお金と妻となる女性をもらい受けてきたが、ラファエルが言っているように、食べ物を「食べているように見えていただけ」(12章19節)という場面がちょっと気にかかりました。本当に、食べている振りをし続けることって、できるのだろうか。食べていない振りはできるかも。

最後の最後の箇所を取り上げて申し訳ないことだけれども、「トビアは、サラが父の家系に属する身内の娘であることをラファエルから聞くと、彼女を深く愛するようになり、心は彼女に固く結び付けられたのである」(6章18節)を読む限り、サラを見たこともないトビアが、愛するようになった、固く結び付けられたとあることからすると、当時は容姿や財産の多寡で結婚相手に魅惑されたわけではないのかも知れない。この時代の結婚は、現代からするとはるかに単純素朴な方法だったのかなと思いました。トビトの正しさを受け継いだ息子トビアが、これからどんなドラマに巻き込まれていくのか、楽しみ。

カトリック教会もプロテスタント教会も一致して認めている39の旧約聖書の書物。ここまでは一致できて、ここからは一致できないというのは、やはり人間が関わっていることだからなのでしょうね。マラキ書では、のちに「すべての民族を裁く」(マタイ25章)の記事に通じる行為が目に付きました。「どのようにあなたを偽っていますか」とか、「どんなことをあなたに言いましたか」としらを切る様子は、マタイに描かれた様子に似ていると思いました。

帳尻あわせのようにブログが再開しました。12月10日頃に聖書をすべて読み終える予定にしています。今回書き込みをするのはゼカリヤ書。エルサレムという場所(土地)について、今の様子を思い浮かべながら読んでいました。預言者も、今の世界を知ったなら、また別の託宣を受けたかも知れません。本当に、エルサレムっていったい何なのだろう。

神殿再建の呼びかけが主みずからハガイを通して促すというのが印象に残りました。そういうこともあるんだね。それから、「6月1日」とか「6月24日」とか、具体的な数字が書物の中に書き込まれているのが目に留まりました。こんな具体的な日付って、他の書物にあったかなあ。

今回は、「賛美の詩編」というグループの、「王であるヤーウェ」をテーマにした第45編を分かち合います。「心に湧き出る美しい言葉/わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。/あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方」(第45編2節-3節)。カトリックの讃美歌で、「うるわしい言葉に」というものがある。「うるわしい言葉に高鳴る心で、わたしは王にこの歌をささげる」。この詩編がもとになっていると思うが、美しい歌だなあって思います。私も好きな歌です。歌ってみる?

今回は「感謝の詩編」というグループの、「個人的感謝」がテーマになった第40編を分かち合います。「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。/滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ/わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった」(第40編1節-3節)。「感謝する」というストレートな言葉はないけれども、感謝の思いが満ちあふれている。私たちも、「感謝感謝」と言葉で言うだけではなく、言葉以外の存在のすべてに感謝の思いをにじませて与えられたこの生を全うしたいものです。

今回は「嘆願の詩編」というグループの、「個人的嘆願」がテーマになった第28編を分かち合います。「主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。/嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます」(第28編1節-2節)。「嘆き祈るわたしの声を聞いてください」が分かりやすい嘆きの言葉。嘆くといっても、落胆して失望しているのではなく、基本的にはすべてが賛美につながるということをここでは触れておきましょう。

今回は「信頼の詩編」というグループの、「個人的信頼」がテーマになった第16編を分かち合います。第16編8節「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」。「わたし」で個人、「わたしは揺らぐことがありません」で固い信頼が伝わってくる。ときどき思うことだが、食事の後先に、詩編を読み味わって食事をするとよいのではないかなあと思います。自分の一つの信念として、たとえば聖書の1頁を食事のたびに読めば、生きている内に何度か聖書を通読し終えると思うのだけれども、どうでしょうか。

詩編は「短編の詩が収集されて詩編としてまとめられた」というのが一般的な考え方だと思うけれど、最新の研究によると、「詩編は第1編から第150編までが一つの流れを持っている」という問題が真剣に研究されているらしい。これまでの説に従えば、詩編はいくつかのグループに分けることができて、それがあちこちに散らばっているということだったが、もしも最新の研究の通りであれば、「散らばっている」のではなく、きちんとした意図を持って配置されているということになるかも知れない。そういう研究も大切だよね。いちおう、自分としてはいくつかのグループから拾って、詩編の分かち合いを紹介したいと思う。第1編は「教訓的詩編」というグループの「知恵」がテーマになったもの。第1編1節から2節。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」。このような生き方をしなさい、このような生き方が知恵ある者の生き方だよということ。