2024年夏アニメのうち、9月16日深夜に録画して9月17日に視聴した作品は以下の1タイトルでした。
SHY 東京奪還編
第23話を観ました。
今回を含めて残り2話となり、次回が最終話となります。「SHY」の物語自体はこの東京奪還編が終わってもまだまだ続き、現在も原作漫画は連載中ですので、次回の最終話は物語の途中で終わります。ただ、この東京都心が黒球に包まれた事件に伴う一連の戦いは今回でほぼ収束し、次回でそれに関連した曖や昧に関するストーリーも完全に終わると思いますので、キリの良い最終話になるとは思います。一方でシャイのヒーローとしての物語はここから更に佳境に入っていきます。今回はその伏線もチラリと描かれましたが、次回は更に明確な形で前フリのようなものが描かれるのかもしれません。もしそうなるのであれば3期以降もあるのかもしれませんね。ヒーローアニメとしてはかなり変則的な作りですので1期はあまり人気が出たとは言い難い。それでも2期が作られたのは、1期と2期の間隔が短いことからも、おそらく最初から分割2クール作品だったのでしょう。そして2期も大して人気が出たとはいえないですので、まぁ普通は3期までは作られないとは思います。ただ個人的にはこの大人向けな作りが好きな作品なので3期があると嬉しいですけどね。
ビジュアル的にも、バトルシーンなんかも子供っぽい作りになってるんですけどね。そのチープな感じを幼稚だと感じてこの作品を「ヒロアカ」なんかに比べてワンランク下の作品と見なしてるアニメファンも多いのでしょうけど、そんなふうに感じる人こそが子供っぽい感性の持ち主なんでしょうね。私から見れば、この作品の子供っぽい作りは、ダークな世界観を出来るだけ中和させようという試みがやや空回りしてるところなのかなと思います。空回りしてる時点であんまり良くはないんですが、私は本質以外の部分でケチをつけるのはオタク臭くてあんまり好きじゃないので気にはしません。
この作品は一貫してダークな世界観で、今回は黒球内の何万人分もの恐怖が浄化されて黒球が無事に消滅していくまでの流れが描かれたのですが、そこで「ヒーローであるシャイの放つ光によって恐怖が浄化された」みたいな分かりやすいヒーロー作品の文脈とはちょっと違っていたというのがミソです。いや、もっと分かりやすくダークに描いてもいいとも思うんですが、そこでちょっと「ヒーロー作品らしい分かりやすさ」も加えようとして、ちょっと迷走するところがこの作品の良くないところでもあるんですが、そういうちょっと「変」で「深い」ところも含めて私は個人的に好きですよ。「深い」からこその迷走なのだと理解しているからです。
分かりやすくダークに描くのなら、恐怖の闇を全て昧が受け止めて命と引き換えに事態を収拾するという感じになるんでしょうけど、そこまで「闇」に偏った描き方をするのではなく、かといって普通のヒーロー作品のように「光」によって救われるという描き方もせず、「光」と「闇」の共同作業だからこそ事態を収拾できたという描き方がこの作品らしいのだと思います。そして、それはおそらくスティグマが一番想定していなかった解決法だったのでしょう。おそらく普通のヒーローアニメの文脈で「ヒーローの光によって恐怖を浄化する」なんという方法を選んでいたら、スティグマの狙い通りの結果となっていたのでしょう。また、ヒーローが「光」の存在であり「闇」を理解しようとしない存在であるというスティグマの先入観においては、そういう展開になるしかなくなるはずだったのでしょう。それがスティグマが「ヒーローによって殻が破られて世界に恐怖がばら撒かれる」と確信していた根拠なのでしょう。だが、そのスティグマの想定を超えたのが「シャイ」というヒーローの存在であった。「闇」の心にも寄り添い「闇」や「虚無」をも救おうとする心優しきヒーローがスティグマの「ヒーローとはこういう胡散臭いものだ」という先入観を超えたのです。東京奪還編とはそういう物語だったのであり、「SHY」という作品もまた、そういう物語、世界の在り方に関する異なった解釈同士の相克の物語といえます。
「ヒーローとは胡散臭いものだ」というのは私が常々思っていることです。それは私がヒーローによって救われることのない虚無の人生を送っているからです。ただ別に私は自分が特別な人間だと思っているわけではない。私ぐらいの「虚無」を抱えて生きている人間は世の中にゴロゴロ存在する。大部分の人間は私ぐらいの「虚無」は抱えているのでしょう。そうした大部分の人間を救うことが出来ない存在だからこそ、所詮はヒーローなどというものは架空の存在に過ぎないのだと思います。
虚無を抱えて闇の中で人生を送っている人間にとっての救いというのは、光の当たる場所に引っ張り出されることではない。そんなのは居心地が悪いだけです。むしろ闇の中で寄り添ってもらいたい。人殺しの闇稼業を生きる忍びであった昧は、だから闇を消してしまう「太陽」よりも、闇の中で自分を優しく照らしてくれる「月」に憧れたのです。そして、忍び稼業で人を殺し、世の中の闇を嫌と言うほど見ていきながら、昧は「月」のようなヒーローを理想とするようになっていった。
やはり、この作品における「忍び」というものは単純な「正義のヒーロー」ではなく「闇の世界の住人」なのだと思います。だからこそ「忍びの心」を象徴する2本の神刀のは正義の刃である「無垢」と悪の刃である「虚無」の二振りが対になっていたのでしょう。そして昧が憧れた「月」にも「光」と「影」、「陽」と「陰」、「実」と「虚」の二面性がある。「無垢」と「虚無」はそうした忍びの心の二面性を象徴していたのでしょう。
月は満月の時は光で満ちているが、次第に闇の部分が増えていき欠けていき、遂には闇だけの新月となる。しかし再び満ちていき光の部分が増えていき満月に戻る。このような「光」が徐々に「闇」となっていき再び「光」に戻るという「月」を見て、昧はそこに闇の世界で虚無を抱えて生きる人々を救うヒーローの理想の姿を見出していったのでしょう。
つまり、満月は闇の世界に生きる人々を優しく照らすと共に、それら闇の世界の住人の抱えた虚無を吸収して闇の世界の住人たちの虚無の苦しみを癒してくれる。そして、それによって満月は吸収した闇によって闇の領域が増えていき、遂には闇だけの新月になってしまうが、月の光による浄化で闇は解消されていき、徐々に光の領域が増えていき再び満月となるのです。それを繰り返すことで月は永続的に闇の世界の住人たちを守っていくことが出来る。昧は明るい世界で生きる人しか救えない「太陽」よりも、そのようにして自分のような闇の世界で生きる者を救ってくれる「月」のようになりたいと思うようになったのです。
だが昧自身は人殺しであり「光」を持っていない。闇の領域しか持たない月に過ぎなかった。だから昧は姉の曖を「光」を持つ半分の月であると見立てて、「闇」しか持たない半分の月である自分と対となり一体となることで闇の世界の人々を救えるヒーローになりたいと思ったのです。昧の「月」に対する奇妙な憧れと、曖と一体になりたがる奇妙な傾向は、こうした心理が背景にあったのでしょう。そしてアマラリルクに堕ちて曖と決別した後はそうした理想のヒーローとなることを諦め、闇だけとなった自分は虚無の世界に閉じこもるしかないと思うようになったのです。だが、それでも曖と一体となることを諦めきれず、戦いの中でも曖を求めていたのです。
そうして前回、遂に曖と理解し合うことが出来て、昧は曖と心が繋がり一体となることが出来た。そうして2人で1つの「月」となって、この黒球の中という「闇の世界」で生きる「虚無を抱える人々」を守る「月」のような理想のヒーローとして戦うことが出来るようになった。そして黒球を破壊して虚無に堕ちた数万人の人々の恐怖を世界中に撒き散らそうとするドキ達の繰り出した巨大な熊を撃破することに成功したのです。
だが、そうした昧の振る舞いにアマラリルクの仲間だったドキは激しい怒りをぶつける。ドキは世界に憎まれて生きてきて、人との繋がりなど信じていなかった。だから自分と同じように「繋がりなど虚しい」と言っていた昧に共感し、仲間だと信じていたのだという。だからドキは昧の行為を酷い裏切りだと思い、そして昧は間違っているのだと言う。「繋がりなどすぐに消える」のであり、「世界に心を壊された自分は世界を壊してもいいのだ」とドキは主張し、それは昧も同じであったはずだと言う。そんなドキに対して昧は「それでも人には繋がりは必要であり、恨みは恨みを生むだけだ」と説いたりするが、そこにクフフが巨大熊を操って乱入してくる。
そしてクフフは巨大熊を爆発させて黒球の天井部分を破壊して大穴を開けてしまう。それによって黒球内の数万人分の虚無の感情が大穴から溢れ出して世界に向かって飛び散ろうとするが、それを外部からセンチュリーがフルパワーを投じて間一髪抑え込む。だが、それも長くはもちそうもなく絶体絶命の状況となってしまいます。この絶望的状況に黒球内部のヒーローチームのシャイ達もなす術もなく呆然と推移を見るだけとなります。
そして昧はこの世界の危機をもたらしたのは自分であったことを思い知らされ、やはりドキの指摘した通り、自分は世界に心を壊されたという理由で世界を壊す者なのであり、人々を救うヒーローなどではなかったのだと絶望した。そして、やはりこんな自分には曖と繋がる資格など無かったのだと思い、曖から離れて立ち去ろうとする。しかし曖はその昧の手を握り、自分たちはもう何があっても一緒のままだと言って励ます。それを聞いて昧は何があってもどんなに離れても曖と自分は心で繋がっていて一体なのだと確信することが出来て、ヒーローとして為すべきことをやり遂げようと決意出来たのでした。
但し、この事態を招いたのは自分1人の責任なのだから、曖を一緒に危険に晒すことは出来ない。だからもう曖と一緒に戦えない自分はヒーローの務めは果たせないと諦めていた昧だったのですが、こうして曖と心は繋がっていると分かった以上、昧は自分1人でもヒーローになれるのだと確信出来たのです。そうして上空に飛び上がると、昧はこれまで心の奥座敷に閉じこもることで目を逸らそうとしていた過去の罪と正面から向き合い受け入れて、その償いをするために前に進むことこそが最期に自分のすべきことだったのだと悟る。
そうして黒球の大穴の下に到達した昧は忍法で自分の身体を満月の化身とした。闇の世界で生きてきた昧が初めて1人で光に満ちた満月となることが出来たのです。そしてその満月となった昧は黒球内の数万人分の虚無を全て吸収し浄化しようとする。これはシャイたちヒーローには出来ないことであり、闇の世界の「月のヒーロー」である忍びの昧だからこそ出来る危機回避のための唯一の突破口でした。そうして満月はどんどん黒球内の虚無を吸い込んでいき、満月はどんどん欠けていき半月から三日月となっていく。このまま全ての虚無を浄化出来れば世界は危機を脱する。だが、黒球内の虚無は膨大で、昧の忍術による浄化は追いつきそうも無く、すぐにも月は新月となり、昧は闇に呑まれて消えてしまいそうになる。
その様子を唖然として見ていたシャイの心に曖が手にしていた無垢が話しかけてきて、自分を昧のもとに連れていってほしいと頼んでくる。無垢も昧の決死の覚悟を理解し、せめて自分が力を貸すことで何とか昧と自分と虚無の命と引き換えに世界の危機を救いたいのだと言うのです。それでシャイは曖と朱鷺丸の居る場所に急行して、そこにあった無垢を拾い上げるのだが、そこでシャイは「私はこんなこと手伝えない」と予想外なことを言いだして無垢を驚かせる。
シャイはあくまで昧を犠牲にすることなく事態を解決したいのだと言い、そのために曖と朱鷺丸にも手を貸してほしいと頼む。すると朱鷺丸が「拾ってもらった恩を返す」と言い、いきなり翼を生やしてシャイと曖を連れて上空に飛んでいく。どうやら朱鷺丸は昧が子供の頃に命を救った朱鷺がその正体だったのかもしれません。そうやって昧のもとに辿り着いたシャイは昧に無垢を渡すフリをして、昧が無垢を握った瞬間、前に昧の心に潜った時と同じ要領で昧の心と自分の心を繋ぐ。
そうすると、昧が引き受けて浄化しようとしている数万人分の虚無がシャイの心にも流れ込んでいき、そのぶん昧の負担が減った。更にシャイは苦痛に耐えながら片方の手を朱鷺丸の手に繋ぎ、更に朱鷺丸も曖と手を繋ぐ。そうすると4人で虚無の苦痛を分かち合うこととなり、昧の負担は更に減ります。そして曖が残った手で昧と手を繋ぐことで、4人が円環状に繋がり、昧と同じ忍術を使える曖も一緒になって再び完全な満月を作り上げることが出来て、昧が子供の頃に夢見ていたように、曖と昧の2人が1つの月となり、闇の世界を照らしてその苦しみを浄化する形となったのでした。
この事態を見て邪魔しようとするドキ達だったが、そこにミェンロンやレディブラックやスピリッツたちが立ち塞がり乱戦となります。そうしている間にシャイ達の方は仕上げにかかります。いくら曖と昧で完全なる月を作り上げたといっても数万人分もの虚無は簡単に浄化できるものではない。そこでシャイの力で月の輝きを爆発的に高めて一気に浄化をしてしまおうというのがシャイと曖が考えた作戦でした。
確かにヒーローには闇の世界の住人を救うことは出来ない。だが月の光はもともと太陽光線の反射であり、曖と昧の作り出した月の光をシャイの生み出した太陽の光で増幅させることは出来るのです。「太陽」であるヒーローは確かに闇を照らすことは出来ないが、闇を照らす「月」を照らすことなら出来るのです。そうやって「闇」の力を借りることで「光」は闇の隅々まで救済することは出来る。「光」と「闇」の共同作業だけがこれだけの膨大な虚無を浄化することが出来るのです。そうしてシャイが転心輪をフルパワーで回して燃焼させた、まるで太陽コロナのような燃え盛る炎は、眩しい光に変わり、曖と昧の月の光を爆発的に増していき、それによって数万人分の虚無を一気に浄化して、黒球を崩壊させて、世界に恐怖を撒き散らすこともなく無事に黒球内の人々を救い出すことが出来たのでした。そういうところで今回は終わり次回の最終話に続きます。おそらく次回は大団円とエピローグ的な内容だと思いますが、もしかしたら3期の前フリみたいな内容もあるかもしれませんね。