2024夏アニメ 8月8日視聴分 | アニメ視聴日記

アニメ視聴日記

日々視聴しているアニメについてあれこれ

2024年夏アニメのうち、8月7日深夜に録画して8月8日に視聴した作品は以下の4タイトルでした。

 

 

【推しの子】(第2期)

第17話を観ました。

今回は遂に「東京ブレイド」の舞台が開演します。この2期の初回であった第12話の冒頭の舞台開演シーンが再び描かれて、そのまま舞台の第一幕が始まります。第一幕は主役のブレイドが「名刀」という、手に入れれば国をも手にすることが出来るという特別な刀と出会い、ツルギという相棒を得て新宿の地下ダンジョンに潜む鬼たちを制圧して「新宿クラスタ」を旗揚げするまでの物語が描かれる。

このあたり一連のシーンはかなり「舞台演劇」っぽさをしっかり描いていて、見応えがありました。原作漫画で読んだ時はそんなに良い印象じゃなかったので実は割と心配してたんですけどね、アニメでは予想以上にしっかり作りこんできましたね。顔のドアップにドヤ顔でなんか謎のオーラでも出しとけば、この作品の信者ならそんなんでも絶賛してくれたはず。そこで妥協したって「神」だの「覇権」だのバカの1つ覚えみたいに言って甘やかしてくれただろうに、そこで妥協せずちゃんと作ってきたのは制作陣の本気を感じられましたね。特に舞台の立体感を客席込みで魅せる宙吊りの演出は良かったですね。

この第一幕のストーリー上の見せ場は、最初のブレイドとツルギの出会いの場面と、新宿ダンジョンでの敵ボスであるキザミとの決戦シーンのようですが、このキザミ役がメルトであり、今回の「東京ブレイド」舞台編におけるキザミの最大の見せ場が、この後の第二幕でやってきます。第二幕ではブレイド率いる新宿クラスタと、鞘姫のもとにまとまった渋谷クラスタの鬼たちとの対立が描かれるのですが、その対立の始まりが新宿クラスタでブレイドの仲間となったキザミと、渋谷クラスタの配下の鬼である匁との戦いです。

匁はもともとキザミの子分であり、キザミは匁のことを小物だと思って見下していたが、実は匁は渋谷クラスタが送り込んでいたスパイであり、剣の腕もキザミよりも上であった。匁が裏切っていることを知ったキザミは匁と戦うが、匁に敗れてしまう。だが、そこにブレイドとツルギが駆けつけて匁と対決することになり、新宿クラスタと渋谷クラスタの抗争が始まるという展開です。この匁との戦いの場面がこの舞台におけるキザミの最大の見せ場であり、キザミ役のメルトにとっての最重要シーンといえますが、相手役の匁を演じるのは鴨志田朔夜であり、メルトとは因縁の相手となります。

朔夜は前回のエピソードで稽古中にメルトを下手くそだと侮辱した奴ですが、ただメルトが芝居が下手なのは事実です。といっても全く才能が無いというわけでもない。むしろ努力の量が圧倒的に足りていないのが問題といえます。メルトは生まれついてのイケメンで、世の中の人間の大半は相手の中身など見ることなく見栄えの良さだけでとりあえず好印象を持ちますから、メルトは周囲からチヤホヤされて、本人もそれに上手く便乗して生きてきて、その結果、大して自分を磨いたりすることなく大抵のことは上手くいく人生を送ってきた。だから地道な努力をしたことがなく、それでも顔が良ければそれなりに仕事は回ってくるのが芸能界ですから、「今日はあまくちで」の配信ドラマでヒロインの相手役で初めて演技の仕事もした。

それが酷い棒読み演技であったことは1期で描かれたが、主演の有馬かなはメルトの演技のレベルに合わせてくれたので、低レベルながら一応は芝居は成立していた。それでメルトは自分は上手く演じられているのだと思い込んでいたのだが、最終話だけは1期で描かれたようにアクアの介入によってマトモなレベルとなり、かなやアクアは水準以上の演技を披露した。その結果、メルトの演技のレベルの低さが露呈してしまい、出来上がった映像を見たメルトは自分が皆の脚を引っ張っていたことに気付いて恥ずかしくなった。

ただメルトが恥じたのは自分の下手くそさだけではなく、自分が努力をしてこなかったために周囲に迷惑をかけてしまったことでした。才能が足りなくて失敗したというのなら仕方がない。周囲も自分自身もそんな自分を認めてやることは出来た。しかし努力なら誰でも出来ることです。「今日はあまくちで」の現場でかなやアクアの演技を見た時、メルトは真に才能がある人間とはどういうものかを知った。そして、自分が実は凡人であったことを思い知らされた。そんな凡人の自分がかなやアクアのような天才と同じ場に立つためには本来は人一倍の努力が必要だったはず。しかし自分はその努力を全くしてこなかった。努力なら才能の有無に関係なく誰でも出来ることなのに。そんな当たり前の努力を怠って失敗したのは本当に恥ずかしいことであり、そんな自分を赦すことが出来ないという感情を、「今日はあまくちで」の失敗の経験を経て、メルトは初めて知ったのです。

それ以降、メルトは地道に努力を重ねるようになり、演技もそれなりにサマになってきたと自分でも思っていた。そこに「今日はあまくちで」以来の演技の仕事として「今日はあまくちで」の鏑木プロデューサーの紹介で「東京ブレイド」の舞台でキザミ役をやることになり、再びかなやアクアとも共演することになった。今回こそは努力の成果を見せて、せめて周囲の足手まといにならない程度の演技をしてみせようと心に期するものはあった。だが突然の脚本変更の騒動で稽古期間が大幅に縮小された挙句に、やたら高度な演技を要求する新たな脚本が仕上がってきて、メルトは周囲の役者のレベルを引き上げた全力の演技についていけなくなってしまった。

やはり凡人がいくら努力を重ねても、才能があってその上に努力もしている人間には敵わない。明らかに自分だけが演技のレベルが低いことはメルトにも分かっていた。朔夜を筆頭に共演役者も全員メルトの演技を下手だと思っており、それはプロデューサーも演出家も脚本家も同様であり、「今日はあまくちで」の棒読み演技で迷惑をかけた原作者の吉祥寺先生と、その弟子で「東京ブレイド」原作者の鮫島先生などもきっと自分の演技を冷ややかな目で見ているだろうとメルトは思った。そして何より、いざ舞台が開演すれば、観客も1人だけ見劣りする演技をする自分に失望して、せっかく楽しみにしていた舞台を台無しにされたと思って非難の目を向けることだろう。「今日はあまくちで」の時は配信ドラマだったからそういうダイレクトな観客の失望の視線を受けるということはなかったのだが、今回は舞台の仕事なので、そうした観客の反応がメルトは恐ろしかった。

それで思わずアクアに演技の相談をしてみたところ、アクアは「別に下手くそだと思われてても良いんじゃないか」と事も無げに言う。メルトはアクアなどに相談するのではなかったと悔やんだ。メルトから見て、アクアは才能に満ちていて常にポーカーフェイスで自信満々な人間に見えた。才能があって自信があるから「言いたい奴には言わせておけ」と平然としていられるのだろう。そんな人間には自分みたいな才能が無くて藻掻いているような人間が他人の目が気になって仕方がないという情けない心理など理解できないのだろうとメルトは思った。

だがアクアは「下手さを上手く活用すればいい」と意外なことを言う。つまり、観客がメルトの芝居が下手だと思った瞬間というのは「どうせ下手な芝居をするんだろう?」と一番油断している瞬間なのだから、そこでメルトが全く予想外に凄いことをすれば観客たちは驚いてメルトに注目するはずだとアクアは言うのです。これは姫川のような上手い役者には使えない方法です。普段から上手いので常に高いハードルの芝居を期待されている姫川が多少すごいことをやっても観客は大して驚きはしないからです。メルトのような下手な役者にしか使えない反則技のようなものといえます。

但し、それだけならば「単に注目されるだけ」であり、別に高い評価をされるわけではない。それだけなら「一瞬何か普段と違う印象だった」というだけの評価に終わる。メルトが求めていることが「自分の演技で舞台に貢献したい」ということであるのなら、それだけでは足りない。ちゃんと「良い演技」をしなければいけない。そして、その「良い演技」を観客に強く印象づけなければいけない。観客が油断している状況で凄いことをやって注目を集めるのは、その「良い演技」を観客に強く印象づけるための下準備のようなものなのです。下手くそだと思われている状況で凄いことをやって注目を集めて、その次の瞬間に「良い演技」をしなければいけないのです。

だが、その「良い演技」が出来ないからメルトは困っている。だから結局どうしようもないじゃないかとメルトは思うが、アクアは不可能ではないと言う。確かにメルトの実力では姫川のようにこの舞台全てのレベルを上げるような芝居は出来ない。しかし、この舞台で脇役のメルトの真の見せ場といえるのは、匁とのバトルの場面の正味1分間の芝居だけだ。他にもキザミの出番はあるけど、大した役割じゃないのでそこらへんは演技はそこそこでいい。この匁とのバトルの1分間の演技の質を徹底的に上げることに本番までの稽古期間の全てを賭ければいい。それがどれぐらい「良い演技」になるかは結局はメルトの努力次第だが、凡人のメルトでも努力だけは可能であり、たった1分間の芝居のためだけに努力を集中すれば、たとえ凡人のメルトでもその1分間だけは天才役者と張り合うことが出来るかもしれない。

それがアクアのメルトへのアドバイスでした。「全く予想外に凄いこと」や「1分間の良い演技」の内容については何の具体的なアドバイスも無かった。演技論といえるような内容ではない。限定された状況の中で裏技で事態を打開する発想を教授したようなものであり、抽象的なエンタメ論という感じだった。例えば姫川のような天才役者だったらこんなアドバイスはしなかったであろう。メルトには到底理解も実践も不可能な難解な演技理論を延々と喋るか、あるいは「才能が無いならひたすら努力しろ」と体育会系なことを言うだけだろう。つまりアクアは「天才役者」などではない。才能の無い凡人というものを熟知している人間なのであり、それはアクア自身が実は「感情演技が出来ない」というコンプレックスを抱えた才能の無い凡人だからなのです。

とにかくメルトはそのアクアのアドバイスを承けて、まず匁とのバトルのシーンの中で「予想外に凄いこと」をやって観客の注目を自分に集めた後で「良い演技」をするという方針を決めて、そのために本番までの稽古期間の1ヶ月間に出来得る限りの努力を重ねることにした。「予想外に凄いこと」は原作漫画のその場面でキザミがやっていた曲芸的な動きを舞台上で再現してみせるということにして、毎日居残り稽古で自主練をしてそれを出来るようになった。だが問題はその後に観客に見せつける「良い演技」の方でした。曲芸的な動きは観客を驚かせるためだけであり、本命はこちら。こっちはちゃんと観客を感動させなければいけない。しかしメルトには観客を感動させるほどの演技力は無い。普通のお芝居ならここで話は終わりだが、この「東京ブレイド」は漫画原作の2.5次元舞台なので突破口はある。要するにメルトの足りない演技力にキザミというキャラの持つ物語の魅力をプラスすればいいのです。そうすれば2.5次元舞台でしか出せない感動が生じる。そのためにはメルトがキザミといかにシンクロ出来るかが大事となる。メルトという役者では勝負は出来ないが、メルトがキザミになり切って芝居が出来れば、原作ファンの観客はメルトを通して見たキザミに感動してくれる。

そのためにはメルトがキザミを理解しなければならないが、メルトには黒川あかねのようにキャラを分析する能力は無く、他の役者たちと演技やキャラの解釈で議論を交わせるほどの演劇経験も無かった。それで1人でひたすら脚本や原作漫画を何度も何度も読み込み、書き込みを重ねていったりする地道な作業の繰り返しとなる。それでもどうしてもキザミが勝ち目が無い匁にみっともなく足掻いて挑んでいく気持ちが分からなくて、何度ももうダメだと諦めそうにもなったが、どうしても努力を放棄したくなくて食い下がった。

それでメルトは、どうして自分は努力を諦めないのだろうと不思議に思う。昔はあんなに努力を知らないお気楽な人間だったはずなのに一体いつから自分は変わったのだろうかと考え、それは「今日はあまくちで」の最終話の撮影の時だったのだと思い出した。あの時、大したことがない奴らだと舐めていたかなやアクアに実力差を見せつけられて悔しかったのだ。他の人間や世間を見下して舐めていて努力を怠って大恥をかいた自分が悔しかった。だからもう努力から逃げたくないと思ったのだ。

そのことを思い出した瞬間、メルトはキザミも同じだったのだと気付いた。キザミも匁を舐めて、新宿で自分が最強だと驕っていて努力を疎かにしていた。そんな自分が格下扱いしていた匁にいいようにされて悔しくて、油断しきって負けてしまった自分が悔しくて、でもそれは自分が責任を負わねばいけないことだから、だからどうしても逃げたくなくて、勝ち目が無いと分かっていても匁に挑みかかっていくしかなかったのだと。そのことに気付いてメルトはキザミの悔しさが深く理解出来た。

それでメルトはそうして掴んだキザミの悔しさに自分の中の悔しさを重ね合わせて乗せる演技を磨きぬき、本番では原作再現の曲芸技で観客の視線を引き付けてから、その悔しさを爆発させる「感情演技」で観客を感動させることに成功したのでした。ただ、その「感動」は観客がメルトの悔しさに共鳴して生まれたものではない。メルトもキザミも、以前は傲慢のせいで世の中を真っすぐ見ることが出来ていなかったのだが、こうした「悔しさ」を乗り越えてようやく相手の真の力を受け止めて世界に真っすぐ向き合うことが出来るようになった、その清々しい気持を観客が共有したからこそ感動が生じたのです。そして、そこにはこれまではずっとメルトの努力を過小評価して見下していた観客や共演者やスタッフ達、そして吉祥寺先生や鮫島先生たちがようやくメルトの力を認めて真っすぐ向き合えるようになった清々しい感動も含まれていた。吉祥寺先生は涙を流し、朔夜も第二幕の後、メルトの肩を抱いて健闘を称えてくれた。

そしてメルトは舞台袖で第三幕の出番を待つアクアにもアドバイスの礼を言い「あの時、お前が言ってた意味がやっと分かったよ」と言う。そのメルトが思い出したアクアの言葉というのは「今日はあまくちで」の最終話の撮影の時、アクアのワザと挑発する演技に反応してメルトが感情剥き出しの演技を初めて自然に出来た時にアクアが言った「やっぱ演技は感情乗ってナンボだよな」という言葉でした。それをメルトはアクアが自分に演技とはどういうものか教えてくれた言葉だったのだと今こうして「感情演技」を成功させたことによって実感したのですが、実際はそれはメルトの勘違いでした。アクアは自分が「感情演技」が出来ないことをずっとコンプレックスに感じていて、あの時にメルトが感情剥き出しの演技が出来たのを見て、つい羨ましくて「やっぱ演技は感情乗ってナンボだよな」とこぼしてしまったのです。それをメルトが勘違いしているのだということに気付いたアクアですが「そうかよ」と軽く流す。次の第三幕ではアクア自身の「感情演技」が試されることになるのですが、このアクアの一見余裕の態度は自信の表れなのかどうか、次回を楽しみに待ちたいと思います。

 

 

グレンダイザーU

第5話を観ました。

今回はデュークの妹のマリアが登場するエピソードでしたが、ギャグシーン多めで、前回の超シリアスなエピソードとの温度差が凄かったですね。デュークとか情緒が不安定すぎて、一周回って笑えます。突然に地球にやってきたマリアが唐突に甲児とゲーム対決をしたり、さやかやヒカルと料理対決をしたりすることとか、ツンツンしていたマリアが急速に地球大好きになったり、そもそもヒカルは何のために光子力研究所に居るのかとか、カサドは結局脱走した後どうなったんだとか、もうツッコミ所が多すぎて追いつかない。ベガ星連合軍のスパイみたいなのがマリアについてきてデュークを暗殺しようとして、円盤獣が襲ってきて、スパイが標的をマリアに変えて、マリアに撃退された挙句に円盤獣に踏みつぶされ、円盤獣はグレンダイザーでデュークが瞬殺したり、展開がコロコロ変わって、なんか最後はマリアが地球人の素晴らしさを認めてイイ話にまとめていたが、まぁ昭和のロボットアニメってこれぐらいユルい話は確かに多かったが、そのまんまのノリをこの令和の時代にやるというのが凄い。さすが石油王と言うしかない。現代の日本人ならこれは出来ない。ある意味「しかのこのこのここしたんたん」よりもシュールで笑えるのだが、笑いの種類がマニアックすぎて理解出来ない人も多そうですね。

 

 

時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん

第6話を観ました。

今回はアーリャと政近が生徒会長選挙について話し合ったりする回でしたが、ぶっちゃけ生徒会長選挙とかどうでもよくないですか?1ミリも興味が湧かないんですけど。そもそもアーリャと有希が生徒会長になって何をしたいのか不明だし、生徒会長になりたい理由も不明なので、何の感情移入も出来ないし、勝手にやっとけとしか思えない。もしかしてこういうのは一種の「お約束展開」なのかな?温泉行ったら女湯を覗く的な?学園モノならとりあえず生徒会長を目指すだろうというような?

ただアーリャが政近のクソつまらない話は上の空で、ひたすら政近と距離を縮めようという下心で頭がいっぱいなところだけは面白かった。この作品の全く生身の人間という感じのしない他のキャラ達とは違って、アーリャだけはしっかり生身の人間の魅力がある。政近が「お前は応援したくなる人間だ」とアーリャを認めているのはそういうところが分かってるからなんでしょう。政近はラノベの登場人物をひたすら演じさせられているだけの自分達とは違って、アーリャだけは特別な存在だということがちゃんと分かっているのです。そういうとこころはさすがに主人公であり、政近というキャラの唯一評価できる点ですね。

いやホント、何を見せたい作品なのかよく分からなくなってきました。まさかこのまま生徒会長選挙を延々と描いていくつもりなんでしょうか?もっと笑える話をやった方が良いと思うんですけどね。なんで急に真面目なお話になってしまったんでしょうか。まさか感動させるつもりなんでしょうか。いや、この作品の超テンプレ的なキャラ造形じゃ感動とか絶対にムリだからそれはやめたほうがいい。スベりまくるだけでしょう。

まぁアーリャが可愛いので、それだけが唯一の救いです。見た目の可愛さじゃなくて、内面が泥臭くて可愛い。黄前久美子や井芹仁菜の10分の1ぐらいは魅力がある。他の有希とかマーシャとかはもう論外、ただの人形です。あるいはただの記号的キャラ。もう6話ですからね、そろそろ色気とかネタとかでキャラを評価してる場合じゃない。6話まで来ればキャラも作品も見る視点もだいぶ変わってきます。インパクトとかヒキの強さとかバズりとか、そういうので作品を評価するのはクール前半までですよ。ネタキャラやギャグキャラがダメというわけではないが、1クール通して評価するには芯となる魅力は必要です。ウケ狙いだけで表面的に造形したキャラのメッキはそろそろ剥がれる時期です。そこをクリア出来てるのがこの作品の場合はアーリャ1人だけなのが問題なのですが、アーリャのお蔭で持ちこたえているとも言えます。

 

 

戦国妖狐 千魔混沌編

第4話を観ました。

今回は真介や千夜たちが京の都に到着してからの日々が描かれますが、次の大事件までの繋ぎ的なエピソードでありました。まず前回のラストシーンで登場した侍は、なんと室町幕府の13代将軍の足利義輝でした。護衛も連れずに1人でブラブラと街中を歩いており、どうも変わった人みたいですが、雷堂斬蔵に宛てた真介からの手紙を見て、真介に会いに来たらしい。

そういえば斬蔵は世直し姉弟編で真介たちと別れた際に京都に行く理由として「妹の氷乃が松永久秀の命令で将軍である足利義輝の腹心の三好長慶を殺してしまったので埋め合わせに足利義輝の護衛をする」と言っていたから、だから今は二条御所で足利義輝に仕えているんですね。その斬蔵は今は御所には不在のようで、義輝は真介が斬蔵に宛てて月湖に持っていかせた手紙の中身を見て、その中に真介が雷堂家の宝刀である「荒吹」を持っていることが書かれていたので、それを見てみたくなって真介の待っているという場所に行ってみたところ、真介は千夜のもとに行っていたので不在で、代わりに月湖となうが居たので、月湖に真介を見つけさせるために月湖を肩車して街中を歩いていたようです。

それで真介たち一行は御所に連れていかれて、そこで義輝は真介に荒吹を触らせてほしいと言うが、荒吹は普通の人が抜くと吹っ飛ばされてしまう厄介な刀ですから、真介は義輝に触らせるわけにはいかないと言う。それで義輝は明日になれば斬蔵が戻ってくるので、その時に改めて話をするということにして、真介たちは御所に泊まることになります。

翌朝、真介たちが起きると義輝は剣の稽古をしており、真介もかかってくるようにと言われて手合わせするが簡単に義輝に負けてしまう。足利義輝は実際に剣豪として有名な将軍であったので確かにかなり強かったのでしょうけど、真介も闇に簡単に勝ったりしているので相当強いはず。それなのに簡単に負けてしまうので月湖は戸惑い、そういえば真介が剣の稽古をしているのを見たことがないと言う。真介は自分は実際に剣の稽古はしていないと言い、だから弱いのだと見せかけますが、千夜や月湖には言っていませんが真介は山の神のもとで修業をしていたのだから強くないはずはない。弱いフリをして月湖が弟子入りすると言っているのをやめさせようとしているのでしょう。実は剣の稽古も現実世界ではなく山の神に教えてもらって出入り出来るようになった自分の中の幽界で隠れて毎日やっているみたいです。

ただ義輝の方も将軍なのに剣豪であったり、なんだか鳥の羽のような変な羽織を着て「鳥になりたい」と言っていたりしていて、かなり変わった人です。しかも、どうやら真介たちとは初対面であるのに「闇の世界の住人」だと見破っている模様。「闇の世界の住人」とは、つまり闇(かたわら)に関わる立場にある者であり、千夜なんかは体内に闇を千匹も飼っている霊力改造人間であるし、真介も闇であるたまの元仲間であり山の神のもとで修業していたり魔剣である荒吹を使っていたりしていて、確かにかなり「闇」寄りの人間です。まぁそもそも義輝に仕えている斬蔵が闇に関わる家系の出身なのですから、その斬蔵の知り合いで斬蔵から魔剣を預かっている真介を義輝が「闇の世界の住人」と見なすのは当たり前のことかもしれません。

ただ、どうやら義輝はそれ以上に深く「闇」に関わっているようで、真介たちに特殊な護符を喰わせると、一緒に不思議な空間に案内します。そこには義輝が「我が友」と呼ぶ京の大土地神の「華寅」という闇が居た。この華寅は前回のお話で千夜を襲ってきた狂神と同じ姿をしており、どうやら華寅の分身が謎の五人組によって狂神にされて操られてしまったらしい。それゆえなのか、華寅は既に狂神と戦った千夜の抱える事情についても知っているようで、華寅から義輝も既に千夜の事情や真介たちとの関りも分かっていたようです。そゆゆえ真介たちを「闇の世界の住人」と見破っていたのですね。

ただ、そもそもどうして表の世界の将軍である義輝が「闇」である華寅と親しい関係であるのかが謎なのですが、もともと関りがあったのか。それとも斬蔵を経由して関わるようになったのか詳細は定かではない。ただ華寅も義輝もこんなことは当然のことだという態度であり、昔は権力者はみな闇に関わっていたものだという。だから別に室町将軍家が闇と裏で繋がっていても不自然なことではないのだと言う。ただ断怪衆の掟では世俗の権力に関わってはいけないとなっていたはず。斬蔵の妹の氷乃はその禁を破ったので粛清されたはず。だが、その一件で断怪衆と関係を断った斬蔵ならば、その禁を義輝が破ることを別に制止はしなかった可能性は高く、むしろ斬蔵が華寅との関係に関わっていたとしてもおかしくはない。

結局、闇の力は争いと関わる宿命なのかもしれない。だが千夜はそうした考え方には反発する。「闇の力は人が扱うには大きすぎる」「力は争いの種、力は悪だ」と千夜は言う。千夜は昨日、華寅の分身が変えられてしまった狂神と結局は戦ってしまい殺してしまった。その際に自分の身体が的確に土地神を殺す方法を覚えていたことを恐ろしく思っていた。自分は人間として戦う意思が無くても、自分の身体の中の闇は自動的に動いて敵を殺してしまう。このままでは自分は人間ではなくなり、闇に身体を乗っ取られてしまうのではないかと思えて恐ろしくなったのです。だから出来るだけ戦いたくないのだが、闇の力が自分の体内にある限り、またあのように狂神が襲ってくる。そんな闇が千夜は疎ましく、関わり合いになりたくなかった。

だから人間でありながらわざわざ闇の世界に関わろうとする義輝の気持ちが千夜には理解出来なかった。しかし義輝は「闇の世界の力が無くとも人は争う」と指摘する。つまり、人の世界と闇の世界を分け隔てたところで人の世界から争いは無くならない。だから「闇の力が争いの種」だという千夜の考えは間違っているのだと義輝は言う。それを聞いて千夜は混乱する。千夜は闇の世界にさえ関わらなければ争いの巻き込まれることはなくなり、自分は戦う必要が無くなり人間になれると思っていたのです。だが人間の世界が争いに満ちているのなら、争いを避けて人間になることが出来ない。いや、そもそも人間になるということが無意味だということになってしまう。どうせ争うというのなら自分は何のために人間になるというのか。

この闇の力さえ使わなければ人間になれると思っていたのに、人間になるということは争いからは逃げられないということであるならば、結局は闇の力を使う羽目になってしまう。どうしたらいいのだと千夜は頭を抱えるが、義輝は千夜は「人にしか見えない」と言う。千夜は自分は化け物なのだと言い返す。千体の闇を埋め込まれて自在に化け物に変われるこの身は化け物なのだという千夜に対して、義輝は「お前はただの力持ちの人」「千体の闇を埋め込まれ自在に化け物に変われる人」なのだと諭す。結局は「人」だとか「闇」だとかはこだわる必要は無く、たとえ闇の力を体内に宿しており、時に使用することがあったとしても、人間の心でその力を制御出来ていれば、姿形がどうであろうとも千夜は「人」なのです。ただ、その「制御」が難しいというのであれば、制御が難しくなる「争い」の場面を無くすしかない。つまり当面は「争い」を無くせば千夜は「人」になれる。だが、どうすれば争いが無くなるのか、それは分からない。

その後、義輝と共に現実世界に戻ってきた真介たちであったが、義輝から南蛮渡来の服を着せてもらった月湖と一緒に京の町を散策することになった。そうして心安らぐ時間を過ごした千夜であったが、神社にお参りした際に父親に連れられた娘の姿を見て、月湖の父親を殺してしまった罪悪感に襲われる。だが月湖はそんな千夜の気持ちを察して「私の村を救ってくれてありがとう」と千夜の手をとって感謝する。そして「千夜は悪くない」「千夜は良い子だって私は知ってる」と言ってくれる。それで千夜は月湖のことを好きだと思うが、その直後に突然襲ってきたムドに月湖を攫われてしまい反撃しようとした真介の振るった荒吹もムドに叩き折られてしまう。更にタゴが千夜たちの追跡を邪魔するために闇をけしかけてきて、そこに義輝と斬蔵が駆けつけて闇を退治してくれるが、その間に千夜たちはムドと月湖を見失ってしまう。

ムドは月湖を連れて松永久秀の居城に逃げ込み、タゴも果心居士という名で人間に化けて松永の食客として潜入しているようで、どうもムドたちは松永久秀と手を組んでいるようです。松永久秀といえば義輝と対立している武将です。両者が一体どういう関係なのか詳細は不明です。ただムドたちは上手く隠れたようで、華寅の能力でも月湖の行方は掴めなかった。

一方、真介は久しぶりに斬蔵と再会したことになったが、そもそも今回斬蔵に会いに来た理由は断怪衆との戦いの顛末の報告と、迅火探しのために荒吹をもう少し貸しておいてほしいと頼むためだったのですが、その荒吹が真っ二つに折られてしまい恐縮していた。だが斬蔵は荒吹の折れた刀身を見て、荒吹の意思を感じ取ったのか、もう荒吹は真介のものだと言い、真介に荒吹を渡して、短刀にでもして使うようにと言ってくれる。そして、どうして千夜と一緒に旅をしているのかと斬蔵に問われて、真介は事情を説明するのでした。

その千夜は月湖をムドに奪われて腸が煮えくり返っていた。義輝は「黒龍の目的はお前との力比べなのだから人質に酷いことはしないだろう」と言って千夜の気持ちを静めようとしますが、千夜は自分の中の千の闇が争いを招き寄せていながら、こうしてムドに月湖を攫われてしまうと途端に龍を怖がって何の役にも立とうとしないことに怒りが収まらない。そんな理不尽な状況をどうすることも出来ない自分の無力を憎悪していた。しかし義輝は「それがお前だ」と指摘し「その身を極めよ」と諭す。それが望む世界を創造する道なのだという義輝の言葉に千夜の心は動かされる。

そして華寅が真介がその方法を知っているはずだと教えてくれて、千夜は月湖を見つけるために自分を極めたいのだと真介に頭を下げる。すると真介は「まずお前の中の闇をまとめ上げることだ」と言い、自分の中の幽界に潜る方法を教えてくれた。そうして、そこで自分の中の千の闇と出会い会話した千夜であったが、交渉は失敗となる。続きは時間を置いて、何度でも繰り返し交渉することになる。

それを繰り返すようにと言いながら、真介は千夜に「闇たちも一匹一匹、心ある存在だ」と言い、そして「お前には闇たちと信頼で結ばれていてほしい」と伝える。そして「ちゃんと強いのは信頼で結ばれた奴だ」と念を押す。それは千夜と同じく霊力改造人間でありながら自分の中に埋め込まれた闇である火岩とちゃんと信頼で結ばれていた芍薬、2人合わせての灼岩のことを念頭に置いての言葉であった。

そうして一旦身体を現実世界に馴染ませるために外出した千夜であったが、その前に果心居士の姿となったタゴが現われてムドとの決闘の日時を5月19日と伝える。そして千夜の正体が断怪衆の霊力改造人間であり戦うために作られた兵器であることや、真介が千夜の敵であり親の仇だということを教えたりする。だが、この5月19日という日は松永久秀が義輝を謀殺するために襲ってくる日でもあるのだと、これを何故か義輝本人が真介と斬蔵と華寅の3人に伝える。義輝はまるで未来に起きることが分かっているかのようであり、それなら先手を打とうと言う斬蔵の提案を拒み、その日に自分は生涯を終えるのだと面白そうに言う。何やら意味が分からないが、どうやら義輝がわざわざ闇の世界の住人である3人に内密にそんな話をすることに何らかの意味が込められているようです。しかし松永と手を組んでいるムドが千夜と決闘する日と同じ日であるというのも気になるところですが、今回はここで終わり次回に続きます。