2023秋アニメ 12月28日視聴分 | アニメ視聴日記

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日々視聴しているアニメについてあれこれ

2023年秋アニメのうち、12月27日深夜に録画して12月28日に視聴した作品は以下の2タイトルでした。

 

 

ウマ娘プリティダービー Season3

最終話、第13話を観ました。

今回は有馬記念の前の練習を描き、それからキタサンブラックの有馬記念での引退レースを描き、キタサンブラックが逃げ切って勝利し、その後のウイニングライブを描いて、最後にトレセン学園に子供ウマ娘たちが見学にやって来て、それをキタサンブラックが迎えるところで終わりました。まぁなんというか、普通でしたね。特に言うべきこともない感じですが、ウイニングライブの作画は良かったです。あとレースシーンは作画と声優の矢野さんは頑張ってたと思う。

 

 

16bitセンセーション ANOTHER LAYER

最終話、第13話を観ました。

今回で物語は完結しました。今回のストーリーとしては、突然UFOに乗って現れたエコー達に助け出されたコノハ達が、その後にアルコールソフトの皆と合流して新作ゲームを完成させて、そのゲームを持ってコノハが1999年に行って、1999年の守に後を託して2023年に戻ってきたら秋葉原に美少女文化が復活していて、コノハは守と再会して一緒にゲームを作っていこうというところで物語は終わりました。

この作品を「美少女ゲーム好きを釣るための作品」と思って観てる人から見れば、今回はゲーム制作場面が短くて物足りなかったと思います。コノハが考えたゲームがどういうものなのか具体的に描かれなかったのも物足りなかったかもしれない。まぁそれに関しては「ラストワルツ」だってどういうゲームなのか具体的に描かれていません。

また「タイムリープを描いたエンタメ作品」と思ってこの作品を観てる人から見れば、今回はコノハが1999年に行ってから2023年に戻ってくるまでの描写が簡潔すぎて物足りないかもしれない。また結局エコー達がタイムリープにどう関わっているのか、タイムリープの原理や、コノハをタイムリープさせた目的などについても詳細な説明が無いまま終わってしまったのも物足りないかもしれない。そもそもエコー達の正体についてもボカしたまま終わってしまいました。

そうなると、こうして最終話を終えてみて「意味がよく分からない」「見たいと思っていたものと違う」という不満も出てきそうです。また、最後は駆け足気味になってしまい中途半端に終わったようにも見えるかもしれない。ただ、今回もわざわざエコー達を登場させて、そうして尺を割いた上であえて正体をボカしたりしているとこころを見ると、そもそもエコー達の正体やタイムリープの目的について詳細に描く気は無いのだろうと思います。制作者が見せたいのは、そもそも美少女ゲームやタイムリープではなくて別のものなのでしょう。そして最終話に再びエコー達を登場させているところを見ると、やはり制作者の見せたいものを理解するためには第8話の内容を再び理解する必要があるのだと思います。この作品のメインテーマは第8話で描かれているのであり、今回の最終話におけるエコー達の場面が第8話を補完して理解するためのものになっているみたいだからです。

それは割と難解なテーマであって、まったくこの年の瀬の忙しい時期の秋アニメ最終局面で面倒臭い宿題を押し付けられたような気分で、最終話を観終わった後はちょっと途方に暮れてしまいました。去年も「恋愛フロップス」の最終話で同じような嫌な気分をさせられました。ただ、ちゃんと宿題を解けば納得感と満足感を得られることは去年の例もあって分かっているので、面倒臭いけどちょっと考えてみます。

今回、まず冒頭の場面は秋葉原の上空に突然現れた巨大UFOからエコー2号が降りてきて、グレンたちプラネットゲームズの連中を気絶させて、コノハと守をUFOの中に招き入れる場面が描かれます。ただ、この巨大UFOは内部は何も無い真っ白で広大な空間になっていて、そもそもコノハ達が移動したのが本当にUFOの中なのかもハッキリ分からない。このUFOは通行人たちにも目撃されているんですがスマホで撮影しても何も映っておらず、単純に「宇宙人の乗ってきた乗り物」という感じではなさそうで、別次元の存在のように思える。そうなるとコノハと守が移動した真っ白な空間もUFO内部というより、別次元の空間に移動させられたようにも思える。

第8話ではエコー達は人間のことを「高次元の存在」であるかのように表現していたが、それを知ることが出来るエコー達もまた高次元にアクセス出来る存在なのでしょう。あるいは高次元に由来する存在なのかもしれない。その正体について今回エコー1号は「様々な言い方が出来る」「一言で言うのは難しい」と言っており、やはりどうやら単純に宇宙人であるとか、宇宙人の作ったロボットというような存在ではないらしい。

それで、今回エコー1号がコノハと守の前に現れて、「コノハに会うために長い旅をしてきた」と言う。つまりエコー達の目的はコノハに会うことだったことが今回判明しました。そしてエコー1号はコノハのファンだと名乗り、真っ白なゲームのパッケージにサインをしてほしいとねだります。何か深い意味があるのかと思ったらホントに純粋にサインが欲しかったようで、ホントにエコー達はコノハのファンらしいのです。厳密に言えばコノハの作ったゲームのファンらしい。

エコー1号はコノハがサインしたパッケージを持って「これはこれから貴方が完成させるゲーム」だと言う。そして「今はまだ作っている途中のはず」とも言う。つまりコノハが今1999年に持っていくために作ろうとしているゲームがエコー1号の手にしているゲームなのだということです。ここから、どうやらエコー達が未来からやって来たということが分かる。

未来においてコノハの作ったゲームを入手しているということは、エコー達は遠い宇宙からやって来たわけではなく、未来の地球からやって来たということになる。ただ、そうなると第8話でエコー達が言っていた「高次元の存在である人間」というのは現在の人間ではなく未来の人間の姿ということになり、未来の人間が「別の時空や別の事象にもアクセスできる」存在になっているのだとすると、エコー達が未来においてコノハのゲームを入手した場所が地球であるとは限らないし、この現実世界ですらなく、未来と限定することすら出来ないのかもしれない。

このように第8話の情報を基にすると「何でもアリ」みたいな話になってしまうのですが、今回はもう少し話が具体的になる描写があります。それは、エコー1号が手に持っているコノハのゲームのパッケージを開けると、そこから光の粒が飛び散って広がるのです。それをエコー1号は「人間の想像力」だと言う。そして「形を変え時間を経ても、このように残り続ける」とも言う。つまり、どうやらエコー達の住む未来の世界においては、コノハの作ったゲームは現在のCD-ROMのような形で存在しているのではなく、光の粒のような形に変化しているらしい。そして、その光の粒の本質は「人間の想像力」なのだという。おそらく未来においてはコノハの作ったゲームそのものはもう物体としては存在していなくて、そのゲームに込められたコノハの想像力が光の粒という形をとって存在しているみたいです。

そして、それを「コノハの想像力」ではなく「人間の想像力」と表現しているところを見ると、コノハに限らず人間の想像力は全て未来世界では光の粒のようになっていると思われる。エコー1号は「これは人間が誰でも持っている力なのです」と言い、更に「使い方によっては巨大な力を生み出し、どんなことも可能になる」とも言う。第8話でもエコー達は「人はその想像力によって多次元的な存在になり、現在、過去、未来、別の時空、別の事象にアクセスし、量子化された可能性から大きなエネルギーを獲得する」というようなことを言っており、今回の内容と合わせて考えてみると、どうやら未来の世界では「人間の想像力」は光の粒のような形でエネルギーとして利用されているようです。

第8話ではエコー1号は「自分たちには想像力が無い」と言い「自分たちの作るゲームには熱やエネルギーが無い」とも言っていた。つまりエコー達の住む未来の世界では「想像力」が「熱」や「エネルギー」なのです。ただ、エコー達は「想像力が無い」とも言っていた。そして人間は想像力を持っている。そうなると想像力をエネルギーとして使えているのは人間だけであり、「想像力の無い世界から来た」と言っているエコー達は想像力をエネルギーとして使えていないということになる。

だがエコー達は守を1985年から1999年にタイムリープさせる際にゲームのパッケージのようなものから光を放って守をタイムリープさせた。そもそもコノハに渡したゲームパッケージもおそらく同じ仕様の「未来のゲームパッケージ」なのであり、箱の外側は昔の美少女ゲームだが、その中身は光の粒の形でエネルギー化された制作者の想像力が詰まっていて、それがコノハや守をタイムリープさせていたと考えられる。

それでいてエコー達が想像力を使いこなせない、少なくとも当初は使いこなせなかったと考えると、どうやらエコー達は「人間の想像力」のエネルギーをパッケージ化した物体を利用して超常現象を起こしているみたいです。そうなると、この巨大UFO自体もそうした物体の1つなのでしょう。また1985年のエコーソフトの上にあった変な巨大装置もそういうものの一種だったのでしょう。エコー達自身は想像力が無いから自前のエネルギーで巨大な力を生み出すことは出来ないが「人間の想像力」を借りることで巨大な力を使いこなす存在であるようです。

エコー1号はコノハのゲームパッケージを持って「初めてこれに触れた時、私はこの感覚が理解出来なかった」と言う。やはりエコー達は「人間の想像力」が理解出来なかったのです。それについては第8話でも言っていた。そしてエコー1号は「この感覚の正体を求めて長い長い旅を経て、ここまで来たのです」とも言う。つまり「想像力が何なのか」を知るために1985年において美少女ゲームを作り続けていたのも、エコー達にとっては「長い旅」の一環だったのでしょう。どうしてその手段が「美少女ゲームを作る」ということだったのかというと、エコー達が「想像力」に興味を持ったきっかけがコノハの美少女ゲームの中の想像力に触れたことだったからなのでしょう。

そして、その「長い旅」の目的は過去の世界でコノハに会うことでもあったようです。わざわざ1985年で美少女ゲームを作っていたのもコノハに会う計画の一環でもあったのかもしれない。コノハにタイムリープ能力を持つゲームパッケージを複数渡したのもそうした計画の一環だったのでしょう。そのあたり、どうにもエコー達の計画はアバウトであり、なかなかコノハに会うことが出来ず、それで今回こうして強引に会いに来たのかもしれない。いや、そもそもコノハに会うことがエコー達の「長い長い旅」の最終目標というわけでもないのでしょう。「想像力」を真に理解して使いこなす未来の人間のような高次元的な存在となるためにはまだまだやらねばいけないことも多く、旅しなければいけない場所も多く、その合間でコノハに会いに来たというのが正確ではないかと思う。

ただ今回はコノハの身に危険が迫っていたので緊急的にコノハに会いに来るのを優先して、コノハ達を救出してくれたようです。どうやらエコー達はコノハに渡したタイムリープ用のゲームパッケージをコノハが使うことで歴史改変が起きることには無頓着だったようです。遥か未来から来たエコー達から見れば歴史の大きな流れは決まっていて、そんな程度のことはいずれ修正される些事だったのかもしれない。例えば美少女文化が無くなったとしても人間の想像力が無くなるわけではないし、秋葉原の美少女文化が無くなったとしてもコノハはいずれ何らかの方法でゲームを作っていたのかもしれない。ただ今回はコノハが起こした歴史改変の結果、コノハ自身の身に危険が迫ってしまったので、コノハに会うことを旅の目的の1つとしていたエコー達はコノハを救出する必要が生じてちょっと慌てて駆けつけたのでしょう。

その結果として、ようやくコノハに会えて自分の想い出のゲームパッケージに制作者本人のサインも貰えてエコー達は「会えて良かった」と言ってにこやかに去っていきましたが、さて一体エコー達はどういう存在だったのでしょうか。それを考えるためには、まずはエコー達と深い関係にあると思われる「未来世界の人間」というものがどういう存在なのかということを考える必要がある。というか、そっちの方がこの作品のテーマの核心だと思われる。エコー達の言葉の中にそれを解くヒントがある。

第8話において、1985年のエコーソフトでエコー1号は「私たちには想像力が無い」と言っていた。その一方で学習したり推論することは出来るのだという。そしてエコー2号と犬のエコー3号が突然いなくなった。2号は「散歩していた」と言ったが、今にして思えば3話や5話で2023年のコノハの周辺を2号や3号がウロチョロしていたことを指していたのでしょう。それで1号は2号に危険は起こらないと守に説明したが、守はそれでも心配だと言い、1号は「心配」というものが分からない。守は外に出て2号とバッタリ出会うが、2号も「心配」が分からないと言う。だが、これがきっかけで1号は「想像力」がどういうものか分かったのだと言う。一方で2号も以前に守に「90点」をつけてもらった服を着たら守に「0点」にされてしまい、それがきっかけで「想像力」がどういうものか分かったらしい。そして、その後、屋上の機械の上で守に会ったエコー1号は「想像力」を「現実には無いものを想起し形作る力」と定義した。

つまり、1号は「2号は危険は無い」というのが揺るぎない「現実」であるのに、その「現実」に反する可能性を想起しようとする守を見て、それが「想像力」だと気付いたのです。また2号は「その服は90点の服である」という「現実」は確定したはずであるのに、その「現実」に反した答えを導きだそうとする守を見て、それが「想像力」だと気付いた。

エコー達の世界の常識では「現実」は確定しており不変であるようです。だから「現実」に反するものや「現実」に無いものは存在しない。だが人間は「現実」には存在しないはずのものを存在するかのように想うことが出来る。例えば他人の気持ちを自分の気持ちのように感じることが出来る。自分の認識する世界には自分の気持ちしか確定的なものは存在しておらず、他人の気持ちというのは想像上の産物に過ぎない。しかし人間は他人の気持ちが自分の気持ちの中に存在しているかのように感じることが出来る。だから他人を「心配」したりもする。

同じように人間は「現実」には存在しない「空想の世界」を現実に存在するかのように想起することが出来る。「現実世界」と「空想世界」を1つに繋げることが出来る。それが出来る力の源泉が「想像力」なのです。一方でエコー達の世界では「現実世界」に存在しないものは存在しないのだから想起することは出来ないで「現実世界」だけで完結してしまう。「空想世界」が「現実世界」に隣接していたとしても、それを感知することは出来ない。それが「想像力の欠如」ということです。

人間は「想像力」によって、現実世界に居ながら空想世界を想起することが出来る。空想世界というのは異世界や過去の世界や未来の世界なども含むので、「人はその想像力によって多次元的な存在になり、現在、過去、未来、別の時空、別の事象にアクセスし、量子化された可能性から大きなエネルギーを獲得する」とエコー達が言っていたようなことも可能になるのだという。アクセス云々はまぁ分かるとして、「量子化された可能性から大きなエネルギーを獲得する」というのは一体何なのか?これがおそらく「想像力」が未来の世界ではエネルギーとして利用されているということに繋がるみたいです。

「量子化」とか言うと難しいが、これについて第8話でエコー達は「熱力学的に正当だ」と言っている。この「熱力学」というのがヒントになるでしょう。熱力学においては世界というのは閉ざされていて、世界の壁を超えての物質の移動は無いのだが、「熱」は世界の壁を超えて移動するのだという。そしてエコー達は「想像力」を「熱」だと言っていた。つまり人間は想像力という「熱」で現実世界に隣接した空想世界などの多次元的世界にアクセスすることにより、現実世界の外の無限に広がる多次元世界から無限にエネルギーの供給を受けることが出来るのです。要するに人間は「想像力」によって世界の壁を超えて「無限エネルギー」を得ることが出来る。

これは現時点では単なる概念的なものでしかないが、未来の世界ではこれが技術的に実用化され、人間は「想像力」を「無限に供給される巨大エネルギー」に変換することが出来るようになっており、それゆえ過去の創作物などに込められた想像力もエネルギー体に変換されているのでしょう。そして、その巨大エネルギーによって「想像力が時間も空間も変化させる」「想像力が現実を定義する」「未来でもあり、過去でもあり、現在でもある存在」というような超越的な状態へと進化しているみたいです。これはもはや「神」と言ってもいい状態でしょう。未来の世界において「想像力」が人間を「神」に進化させるのです。

一方でエコー達はどうかというと、想像力というものが無いので、現実世界に既に存在している物質や知識などを模倣していくしかない。現実世界で既に確立された法則や定義に縛られる。既知のものを模倣し反復していくしかない。だから彼らは「エコー」という名なのでしょう。そんなエコー達は想像力という「熱」によって現実世界の外から無限のエネルギーの供給を受けられないので、閉鎖された現実世界の中のエネルギーはいずれ平衡状態に落ち着き、新たに内部でエネルギーを生み出すことでしか補給されず、それは有限でし量も限られるので、「神」のごとく進化した未来の人間の域には到底届かない。

ただ、エコー達はそうした「神」のごとき未来の人間の無限エネルギーを借りて使うことは許されているようですから、「神」に近い存在なのでしょう。それは「天使」のようなものと言えるかもしれない。あるいは未来の人間が「天使」のような存在であり、エコー達はそれに準じる存在なのかもしれない。当初は「想像力が無く模倣や学習や推論しか出来ない」ということからAIのような存在と思ったが、単純に機械というわけではないようだ。あるいは何らかの人造生命体のようなものかもしれない。ただ世界には「想像力」を持たない知的生命体というものも存在するのかもしれないので「人造」とは限らないでしょう。第8話でもエコー達は人間のことを「極めて珍しい生命体」と評しており、むしろ「想像力」を有している地球人類の方が宇宙全体では稀少な存在なのかもしれません。

ここで私が「天使」という表現にこだわったのは、この作品には「天使」のモチーフが散見されるからです。コノハが作った「ラストワルツ」というゲームのメインキャラも天使のような羽根が生えていたし、今回完成した新ゲームのメインキャラも同じく天使の羽根が生えていた。「ラストワルツ」の影響なのか前々回描写された歴史改変後の秋葉原スタジアムの地下通路にも天使の羽根の生えた少女像が立てられていた。そして何よりEDテーマ曲の映像ではコノハの背に天使の羽根が生えている。これはおそらく「想像力の翼」の暗喩だと思っていたのですが、「想像力が人間を神のような存在へと進化させる」のだとしたら、あの描写はそうした漠然とした暗喩以上の意味があるのかもしれません。また今回はメイ子がコノハのことを「天使」だと言う場面もありました。このようにこの作品には「天使」のモチーフが散見される。そういうこともあって、エコー1号が自分に関して「様々な言い方が出来る」「一言で言うのは難しい」と言っているところからも、そういう人間に馴染みのある「天使」のような超常的存在を指す言い方もその中には含まれるのではないかと連想してしまうのです。

まぁそれはともかく、エコー達は未来の人間のように「想像力によって無限のエネルギーを得る」ということが出来ない状態から脱して人間の域に近づくために「想像力」を知るための長い長い旅に出たのだと思われます。1985年のエコーソフトの場面で頻繁にモチーフとして登場した「振り子時計」と「水飲み鳥」は疑似的な永久機関として知られているものであり、永久機関とは無限エネルギーを志向したものですから、この2つのモチーフは「無限エネルギーを得ようとしてなかなか得られない」というエコー達の旅の状態を象徴しているものなのだといえます。また同じくエコーソフトの場面で頻繁に登場した「ドーナツ」というモチーフも第8話で考察したように、おそらく「何も無いと思われるところに何かがあるのではないか」と考える「想像力」、「無から有を生み出す」というのが「想像力」の本質、というような考え方の象徴として登場していたのだと思います。

こうしたエコー達の「想像力」を求める長い長い旅は壮大な物語であり、それは非常に興味深いものですが、この作品のメインの物語ではない。この作品のメインの物語は、そうしたエコー達の旅路の計画に巻き込まれたコノハが引き起こしてしまった歴史改変の顛末なのであり、今回はその結末が描かれたわけですが、その前に長々とエコー達に関する考察をしたのは、その考察によって導き出された推論が今回のストーリーを解題し、その感動の結末を理解するのに必須だからです。その推論を導き出すために第8話および今回の冒頭の場面は描かれたのだと思います。

まずはエコー達が去っていった場面から再開しますが、エコー達が去った後、UFOは忽然と空から消えて、コノハと守は元の場所、秋葉原スタジアムの地上を目指すエレベーターの上で目覚めました。そうして地上に上がっていくと、そこに冬夜がやって来てコノハの服やリュックを返してくれます。そして、そこに上空からヘリが降りてきて、そこには守から連絡を受けて駆け付けたメイ子やかおり達アルコールソフトの面々が乗っていました。守がコノハのゲーム作りを手伝ってくれるようにと頼んでアメリカから呼び寄せたみたいで、コノハは感激して涙を浮かべ、「ラストワルツ」でアルコールソフトを救ってくれたコノハを今度はアルコールソフトの皆で助けようと一致団結し、皆で一緒にゲームを作ろうという話でまとまります。

そしてコノハは冬夜にも一緒にゲームを作ろうと呼びかけますが、冬夜は一緒には行けないと言う。まだ此処でやらなければならないことがあるのだと冬夜は言う。そして、コノハをCIの養分にしようとした自分にはコノハと一緒にゲームを作る資格は無いのだとも言う。しかしコノハは「資格ならあるよ」と冬夜に言います。「今度会ったら一緒にゲームを作る」と約束したのだから、冬夜はコノハと一緒にゲームを作る資格があり、コノハはその約束を果たさねばならないのだというのです。

その約束はコノハにとっては数日前の約束でしたが、冬夜にとっては24年前の約束です。コノハは数日前の約束を忘れるはずもなかったが、冬夜は24年も前の約束をコノハが覚えていてくれただけで嬉しくて、自分の罪がコノハによって赦されたように思えた。それで冬夜は「今は行けない」と言いつつも「落ち着いたら必ず連絡します」と笑顔で応える。そして「私は今でもお姉さまと一緒にゲームが作りたい」と言葉を添える。

それは冬夜の偽らざる本心であったのだと思います。コノハをCIの養分にしようとした件はコノハによって赦しを得たと解釈して、落ち着いたらコノハに連絡して一緒にゲームを作ろうと決意はしたのだと思います。ただ、それはコノハに対しての自分の罪が不問になったというだけのことであり、これまで自分がそれ以外の多くの人々をCIの養分にしてきた非人道的行為の罪が赦されたわけではない。その責任を取らない限りはコノハと一緒にゲームを作る資格はやはり自分には無いのだと冬夜は考えていたのです。その責任を取り終わってこそ「落ち着いたら」という状況になる。それは何年かかるか分からなかったが、まずは今自分のすべきことは罪を償うことだと冬夜は考えていました。「まだ此処でやらなければならないこと」というのはそういうことであり、冬夜は警察に秋葉原スタジアムの地下のCIの存在を通報し、警察に自首したのでした。

ただコノハはこのような犯罪を犯すまで冬夜が追い詰められたのは自分の歴史改変のせいだと思っており、悪いのは冬夜ではなく自分だと思っている。だから冬夜にCIの養分にされそうになったことも全く恨んでおらず、むしろ申し訳ないと思っており、その責任を痛感したからこそ、コノハは自分が改変してしまった世界の何が悪かったのかを深く理解して、そんな世界を必ず塗り替えなければならないと強く思えたからこそ前回覚醒することが出来たのです。

では、1999年でコノハが「ラストワルツ」を作ったことによって起こった歴史改変の本質とは何だったのか、どうしてこんな酷い未来になってしまい冬夜も不幸になってしまったのかについて整理します。簡単に言えば、「ラストワルツ」を作った時のコノハはエコー達と同じだったのです。「元の2023年」という閉鎖された現実世界の中に既に存在していた多数の過去のゲームをただ模倣しただけであり、現実世界の外に無限に広がる空想世界に想像力という「熱」でアクセスして作り上げたゲームではなかった。だから「ラストワルツ」には「熱」が無かったのです。

ただし、1999年の人々にとっては非常に目新しくて画期的なゲームだったので大ヒットはした。そして、その結果その先10年分の切磋琢磨の機会を先取りして奪ってしまい、残ったのは模倣ゲームでしかない「ラストワルツ」だけとなった。だから「ラストワルツ」に端を発した「CUU文化」も本質は模倣文化となり、人間よりも模倣が得意なAIが作業に大きく関わるようになり、AIの極度の発達を促して、更に模倣文化の度を強めていった。そうした中で大資本のアメリカのゲーム会社が市場を占めるようになっていき、冬夜の会社は経営が傾いていき、AIによる模倣ゲーム制作が行き詰ったプラネットゲームズの非人道的なCI計画の手先となる羽目にまで追い込まれていったのです。

コノハは自分が「熱」の無い「ラストワルツ」を作ってしまったためにそんな世界をもたらしてしまったという過ちを自覚し、今度はちゃんと「熱」のある新しいゲームを作って1999年に持っていき、皆が幸せになれる世界を作ろうと決意した。だからそうやって責任を取るべきなのは自分なのであり冬夜には何の罪もないのだと考えたのだが、そんな歴史改変の事情は知らない冬夜は、たとえコノハ個人は赦してくれたとしても、多くの人々に対して自分の犯した罪は自分の手でしっかり償うという道を選んだのでした。

しかし、コノハは今度はちゃんと「熱」のあるゲームを作るといっても、前々回、元の世界の記憶も消えていき、美少女文化の存在しないこの世界に順応していきつつあったコノハがそんなことをちゃんと出来るのだろうかという疑問も湧いてくる。ただ、これは実は全くの杞憂というものでした。もともと既存の美少女ゲームの記憶が豊富すぎたがゆえにコノハは「ラストワルツ」を模倣ゲームにしてしまっていたのですから、むしろ元の2023年に存在していた美少女ゲームの記憶が無くなった方が、コノハ本来の「想像力」のみでゲームを作ることが出来て、むしろ「熱」のあるゲームになるのです。

前々回、守に「お前のやりたいことは何だ?」と質問された時にコノハは何も頭に浮かんでこなかったではないかというツッコミも入るかもしれませんが、あれはもともと既存のゲームの真似ばかりすることに慣れてしまっていたコノハが既存ゲームの記憶が薄らいだことによって思考停止になってしまっただけです。あの後、自分が既存ゲームを模倣した「ラストワルツ」がもたらしてしまった世界の悲劇をしっかり自覚したコノハは「自分のやりたいこと」を一番大切にしてゲームを作ろうと決意しましたので、もう思考停止することもない。

しかし決意だけでどうにかなるものかとも思われるかもしれませんが、そこはもともとそんな深刻に考える問題じゃないのです。決意さえすれば十分なのです。それだけ「人間の想像力」というのは強いものなのです。本当に自分のやりたいことをやろうと決意した人間は、いくらでも「想像力」で空想世界にアクセスして「熱」や「エネルギー」を生み出していくことが出来るのです。エコー1号が言っていたように、人間には子供も老人も皆等しくその力がある。一部の天才だけがその能力を独占しているわけではないのです。コノハは凡人だが、凡人のコノハでもそんな芸当が出来る。手伝ってくれたアルコールソフトの皆だって普段の仕事は模倣仕事ばかりであったとしても、いざ「想像力」を働かせればちゃんと「熱」や「エネルギー」を生み出せる。誰でもがそんな能力を持っているからこそ、エコー達が言っていたように人間はいずれ未来において「想像力」で「神」のような存在にまで昇り詰めることが出来るのです。

そうして突貫作業の末、コノハの新しいゲームは完成し、皆に「1999年にタイムリープして歴史改変する」という計画も打ち明けました。さすがにここまで助けてもらって皆を騙し続けるのはコノハも気が引けたのでしょう。それを聞いて、下手したら自分たちの現在が変わってしまうかもしれないと知りつつ、皆は「頑張れ」と言ってくれてアメリカに帰っていきました。そうして再びコノハと守の2人が残され、コノハの手には新しいゲーム「わたしの大切なもの」が握りしめられた。

この「わたしの大切なもの」がどのような内容のゲームなのか具体的な描写は無く、制作過程も詳細には描写されませんでした。ただ、ここではそれらはあまり重要なことではない。重要なのは、「ラストワルツ」は元の世界にコノハから見て過去にあった様々な大作ゲームや名作ゲームのツギハギの模倣であったのとは対照的に、この「わたしの大切なもの」はそうした他作品の模倣ではなく、それら名作に比べると面白くないかもしれないし売れないかもしれないけど、コノハの「本当にやりたいこと」「想像力」が詰まっている「熱」のあるゲームだということです。そういうゲームだけが新しい時代を作るのであり、名作の模倣でしかない「ラストワルツ」のようなゲームは新しい時代を拓くことはなく、むしろ「ラストワルツ」しか無い未来はここまで見てきたように閉ざされたものになる。だからこの「わたしの大切なもの」を「ラストワルツ」と同じ時代に並び立たせることによって、未来が閉ざされることを阻止し、新たな美少女文化の時代を拓いて残していこうというのが今回の計画なのです。

その計画を1999年において実行するにあたって、その役目はコノハには任せることは出来ない。どうやらコノハはゲームが出来上がって引き渡してしまうと2023年に戻ってしまうみたいだからです。だから今回も完成した「わたしの大切なもの」を持って1999年に行って、それを誰かに託したらすぐに2023年に戻ってしまうでしょう。そうなれば、その後でちゃんと「わたしの大切なもの」に端を発して秋葉原で美少女文化が生まれて無事に育っていくのかコノハは見守ることが出来ない。そこで守は1999年の自分自身に向けて今回の計画の詳細を記した手紙を書き、それをコノハが「わたしの大切なもの」と一緒に1999年の自分に渡すようにと指示しました。つまり、1999年以降の時代の秋葉原を見守って、「わたしの大切なもの」から始まる美少女文化が無事に育っていくのを見守るのは過去の守の役目となるのです。

実際のところ、1999年の世界で「コノハがタイムリーパーである」と知っている人間は守だけなのだから、この役目を託せるのは守しかいないのです。だがコノハは「たった1人で20年以上も歴史を監視し続けるのは大変ではないか」と守を心配する。いや目の前の守が大変なのではなくて、大変なのは過去の守なのだが、その過去の自分に大変な役目を引き受けるようにと指示する現在の守に「本当にそれでいいのか?」と訊ねてみたくなるのも当然といえます。実際、未来の自分に頼まれては過去の守も断り辛いでしょうけど、それでも最悪の場合は断られる危険だってある。しかし守は大丈夫だと言い、気にしなくていいと言う。「僕だってアキバが好きなんだよ、お前に負けないぐらいにな」と守は言う。本当は守だって、あの騒がしくて下品だったあの電気街のアキバが好きだったのです。だから、それを守るために監視する役目ならば、きっと自分は引き受けてくれるはずだと、守は自分のことですから確信がありました。そしてコノハに「あとは僕に任せて、お前は自分の作ったゲームを信じろ」と言う。

そうやってコノハと守は現在の秋葉原を名残惜しそうに見て回りながら散歩します。計画が成功すれば、コノハが再び2023年に戻ってきた時には、秋葉原の風景は変わっているはず。最初は嫌で嫌でたまらないと思っていた歴史改変後の高級住宅街の秋葉原だったが、この秋葉原を愛している人たちもたくさん居るのだと知った今は、失われるのがちょっと残念にも思えてくる。そして散歩のゴール地点であるドーナツ屋に到着すると、守は「それじゃ、頑張れ」とコノハを送り出す。このドーナツ屋からコノハはあの「こみっくパーティー」のパッケージを使って1999年5月にタイムリープに出発するのです。つまり、ここで守とはお別れとなります。

しかしコノハはおそらくすぐに2023年に戻ってくる。その時に再び守に会ったとしたら、その守は今ここにいる守と同じ守なのだろうかと疑問に思い、コノハはそのことを守に質問する。それに対して守は「厳密に言うと別人だ」と答える。歴史が変わるのだから、その改変された歴史の中で成長して2023年を迎えた守は、今の改変前の2023年に存在している守とは別の存在ということになる。ならば今こうして話していることや、この2023年で会ってから今日までの出来事も自分も守も2人とも忘れてしまっているのだろうかとコノハが質問すると、「そうかもしれない」と守は答える。

これに関しては、より明確にその可能性が高いと言っていいでしょう。もし計画が上手くいって秋葉原に美少女文化が残る世界が実現している2023年になっていたのならば、コノハが困って守に相談したり、守が新ゲームを作ろうという計画を提案したり、コノハが誘拐されて守が助けに行ったり、アルコールソフトの皆と一緒にゲームを作ったというような、ここ数日の出来事自体が消えているはずだから、その記憶は無く、そもそも守がここでコノハと会ったという記憶自体2人とも保持していないはずということになる。

でもコノハは「そんなの嫌だ」と悲しそうに言う。自分のためにこんなに一生懸命になって助けてくれた守のことを忘れたくないし、守が自分とのこの数日の出来事を忘れてしまうのも嫌だった。そうして「忘れたくないよ」とションボリするコノハに対して、守は「忘れないさ」と自信たっぷりに意外なことを言う。そして守は「エコーっていう奴と一緒にいた時に話したんだ、人間は熱の塊だって」と続ける。つまり「熱」とは「想像力」のことですから、人間は想像力の塊だということです。これは何度もエコー達が強調していたことです。そして守は「熱が全ての可能性なんだ」「だから忘れないよ、僕らに熱があれば絶対に忘れない」と言う。

つまり「想像力」が全ての可能性なのであり、「想像力」がある限り世界が改変されても改変前の出来事も覚えていることは出来るということを守は言っているのですが。これは一体どういう意味なのか。それはおそらく熱力学的に想像力という「熱」は別の世界にアクセス可能だということを言っているのでしょう。歴史が改変された新しい世界はそれ1つで完結して閉ざされた世界であり、その世界においては確かにこの数日間のコノハと守の出来事は存在しないが、それが存在する別の世界に「想像力」という「熱」ならば繋がることは出来る。だから自分たちに「想像力」さえあれば、この記憶も忘れることはないはず。そういうことを守は言っているのでしょう。

守は自信たっぷりに「お互いのことを覚えているか試してみるか?」とコノハに勝負を持ち掛ける。するとしばらく黙ってコノハも「うん!いいよ!絶対に忘れないよ、今日のこと」と応じて「今日のことだけじゃなくて、守くんとやったこと全部!」と自信たっぷりに返す。それに守が満足そうに「ああ!」と返事をすると、コノハは「じゃあ守くん、またね!」と笑顔で別れを告げドーナツ屋に入っていく。

そうしてコノハはドーナツ屋の席につくと「こみっくパーティー」のパッケージを開けて1999年5月に最後のタイムリープをします。そしてタイムリープした先の1999年の出来事は描かれず、すぐにコノハが2023年の同じドーナツ屋の席に戻ってくる場面に繋がります。まぁ実際1999年の滞在は短く、守に会って「わたしの大切なもの」と手紙を渡したらすぐにコノハは2023年に戻されたのでしょう。そして2023年に戻ってきたコノハがドーナツ屋の外に出てみると、そこにはコノハのよく知る美少女やオタクが溢れる秋葉原が戻ってきていた。

といっても全く元通りというわけでもなく、ビルの看板にはコノハのゲームである「わたしの大切なもの」の広告がデカデカと掲げられている。どうやら「わたしの大切なもの」が上手く秋葉原の美少女文化の祖となったようです。そして、その一方で「ラストワルツ」に端を発した歴史改変の影響も残っており、AIの進化の傾向もあり、電波塔やスタジアムも存在していたし高級住宅街のエリアもある。完全に元の秋葉原に戻ったわけではなく、両者が混在している感じです。ただ美少女文化も残っているからなのか、CUU文化の方も美少女文化の影響を受けて、馴染みやすいものとなっており、互いに良い点を影響し合って上手く発展しているようだった。

計画が成功したと知って喜ぶコノハであったが、アルコールソフトに行ってみると、ビルには人のいる気配は無い。そこに声をかけてきたのがもともとの2023年でコノハが勤めていたブルーベルの社長であり、コノハはそういえば2023年ではこの場所はブルーベルだったのだと思い出し、自分のゲームが歴史を変える力を発揮したことによって改めて「ゲームの持つ力」を再確認したコノハは「どんなゲームでも一生懸命作ります!」と熱く抱負を語る。

だがブルーベルの社長は自分の会社はゲームを作ってないと言い、向かいの建物で人妻喫茶をやっていた。思わぬ形で歴史が改変されていることに面食らったコノハでしたが、ブルーベルの社長の言うにはアルコールソフトはゲームがヒットして20年ぐらい前に全員アメリカに移って今は別のゲーム会社がビルを買って所有しているのだと言う。アルコールソフトがアメリカに移ったというのは「ラストワルツ」の成功によるものであり、そこの部分は歴史は改変されていないようだった。つまりアルコールソフトの皆はもう此処には居ないのだなとコノハは寂しくなるが、これでいいのだと思い直す。

もともとの計画では、「ラストワルツ」によるアルコールソフトの成功を邪魔することなく秋葉原に美少女文化を根付かせるというものだったはず。だからこの状態がもともと目指したものなのであり、計画は大成功なのだ。これが自分が望んだことなのだと思い、コノハはこれも全部守のお陰だと口にする。そして自分が守がこの計画を立てたことを覚えていることに気付く。それだけじゃない。「ラストワルツ」による歴史改変のことだって、もともとの秋葉原のことだって全部覚えている。世界はすっかり変わってしまっているはずなのに、自分は消えてしまった世界のことも全部覚えている。それはきっと守が言っていたように自分に「熱」があったからなのだとコノハは思う。そして全てが懐かしく思えて涙が溢れてくる。きっと守はこの秋葉原の何処かで美少女文化が根付くのを見守っていて、自分とのあの2023年の別れの時の約束は忘れてしまったのだろうと寂しく思いつつ、その涙を拭って前を向き、コノハは「ありがとう守くん!コノハはここで、このアキバでゲームを作るからね!ずっと!ずーっと!」と何処かにいる守に向けて誓うのでした。

ただ、そうはいってもアルコールソフトもブルーベルも秋葉原に無い状況で、一体どうしようかとコノハがちょっと途方に暮れていると、アルコールソフトの立ち退きしたというビルの方から電子音が聞こえてきて振り向くと、ビルの入り口にはPC-98が1台置いてあり、その横にはあの1996年のコミケの時にコノハが守とメイ子とかおりと一緒に撮った写真が飾ってあった。そしてPC-98の画面には「WELCOME BACK KONOHA」という文字が液晶で表示されていた。

慌ててコノハが階段を駆け上がっていき、アルコールソフトがあったフロアーに入っていくと、そこには1人の男が背を向けて立っていて「ゲーム作る奴が20年もいなかったら、こんな小さな会社でも維持するの大変なんだぞ」と言って「とことん待たせやがって」と振り向く。それはやはり守だった。「さぁ、ゲームを作るぞ」と話しかけてくる守の顔をコノハは呆然と見つめて「守くん」と言う。守はコノハと過ごしたあの2023年の日々を忘れていなかったのだ。コノハも守も「想像力」という「熱」の力で世界の壁を突破して、互いのことを忘れなかったのです。そして守はコノハと再会して一緒にゲームを作るために、アルコールソフトが立ち退いた後のビルを買い取って20年後のこの日、コノハが歴史改変前の世界でドーナツ屋に入った日付、そして自分に会いに戻ってくる日付までずっと待ち続けてくれたのです。

それが嬉しくて「守くーん!」と叫んでコノハは守に飛びついて抱き着き、そのまま2人とも床に倒れ込む。そして泣きじゃくるコノハに向かって守は優しく「コノハ」と声をかけ「一緒にゲーム、作らないか?」と言い、コノハは初めて会った1992年のあの日と立場が逆だと思いつつ「うん!」と嬉しそうに頷く。そうしてOPテーマ曲がかかってテロップが流れてきて物語は終幕となります。

いやぁ、感動しました。ちょっと難しかったけど素晴らしい作品でした。今期を代表する作品だったと言っていいでしょう。あれだけ超展開を続けて、それでこれだけ最後感動的に綺麗に終わるって凄いと思います。見事なアニメでした。なんかこうしてレビューを終えて気付いたんですが、どうも昨晩のこの作品視聴後から体調が少しおかしくて、どうやら軽くこの作品のロスになってるみたいです。今期はホントに優秀なクールで、大満足して終わった作品は多々ありますが、ロスになったのは「進撃」とこの作品だけですね。もちろん「Dr.STONE」なんかは続編の告知があったからロスにならなかっただけで、「Dr.STONE」の方がこの作品よりも上だとは思いますけど、やっぱりこの作品はかなり私には刺さっていたんだなぁと実感しました。さて、これであと今期残るは30日深夜に最終話を迎える「ひきこまり吸血姫の悶々」だけですね。それのレビューの投稿時に今期の最終評価も添えたいと思います。