心に「納得」はあるか | 昔、卵巣がんだったことがあったような~(^^ゞ

昔、卵巣がんだったことがあったような~(^^ゞ

旧ブログ名は「卵巣がんでした~(T^T)→勝手に治った宣言v(^O^)/」
大学病院で卵巣腫瘍を切除
 →卵巣癌Ⅱc期ですと~ぉ(T^T)
 →もう一回手術~(T^T)
 →抗がん剤も~(T^T)
 →勝手に治った宣言v(^O^)/
 →めでたく終診\(^O^)/

10月に入ってから読んでいる
読売新聞医療ルネサンスの連載【高齢者の「選択」】がとてもいい。
https://www.yomiuri.co.jp/medical/renaissance/

10年前に感じていたことや考えていたことが、
やっと新聞記事になるようになったんだなぁ、と思った。
卵巣がんの治療が始まった頃の最大の違和感は、
(自分が通院した)大学病院という場所では、
自分がどういう治療をするかが、
なぜ、自分抜きで勝手に決まっていってしまうのか、
ということだったから。

マスコミが医療トピックスを取り上げるとき、
医師や看護師など治療を提供する側に光が当たるものが
圧倒的に多い印象がある。
治療を受ける側(=主役)である患者を取り上げたものも
ひと昔前とは比べ物にならないくらい増えてはいるが、
この連載のように、丁寧に、繊細に、
それぞれの日常を生きる一人一人の主役の思いを掬いとる
プロの仕事に出会うことは今までなかったように思う。


2006年に制定されたがん対策基本法の下、
厚生労働省は、がん治療の均てん化を進めているが、
現実には、地域や病院、医師個人の力量には大きな差があるから、
どこで誰の治療を受けるかで患者の人生が変わってしまうのはまぎれもない事実だろう。

その一方で、患者側の条件に目を向ければ、
一人として同じ状態のがんを患っていることはなく、
加えて全員が唯一無二の日常生活を生きているのだから、
最大公約数のような治療ガイドラインに縛られる必要もない。
自分が大切にしていきたいもののために、
主治医に勧められた治療をしても、違う治療を選んでもいいし、
治療をしなくても、していた治療をやめてもいいのだ。

高齢者に限らず、小さな子どもも含めて、誰にでも、
それぞれの価値観や事情、思いに応じて、
治療を選びとる自由がある。

心に「納得」はあるか。
うまくいくことも、そうでないこともあるだろうけれど、
そうやって選んだ道ならば、
その先も自分のペースで歩んでいける気がする。