日常で役立つ哲学の教えは?

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日常で役立つとはなんだ?
 
哲学の授業を一年受けた程度の知識しかないが、
直感的に哲学は文系における数学の立ち位置かなと思った。
もっと言えば、数式の出てこない文字だけの根源への追求というか探究心というかかな。
 
まぁ、私の哲学感なので、なんとも言えないけれども。
 
 
日常で役立つ数学とか言われても、困ってしまうんだよね。
 
今役立っている数学ってのは、数百年、数千年前の数学者が築き上げたものが、
日の目を見ているという感じなんだよね。
 
四則演算とか、0の存在とか、負の存在とか、小学校卒業するころにはみんな理解しているのではなかろうか。
 
とくに日常生活で、それ以上の数学とか目に見えた形で役に立ったっていう感覚は、
おそらく感じることは出来ないと思うんだよね。
 
だから、数学はやっても無駄とかいう人が出てくる。
 
それを言っちゃうと、古文とかって日常生活で役に立つ?ってことになって、
例えば、リアルな筆書きの草書体で書かれた文章を読む、
蕎麦屋の暖簾がスラスラ読めるくらいにならないと、
本来の意味で古文を理解したことにはならないけれども、
現代の明朝体フォントで印刷された古文を読んで、
その先は専門性が高いのでってなってしまう。
 
なんか中途半端じゃないかなって思ってしまうんだよね。
 
ずいぶんと昔の話しなんだけれども、自分にはアメリカ人の従弟が居るんだけれども、
父の妹がアメリカ人と結婚したからなんだけれども、
彼らはある程度大人になっても、アルファベットの筆記体は書かなかったんだよね。
彼らいわく、習ってないって言うんだ。
ただし、街中には筆記体で書かれた文章はあるから、読むことは出来るらしい。
 
不思議なことに、日本における英語の授業では、筆記体も習うんんだよね。
だから、5個下の従弟たちに、筆記体をスラスラと書いて見せたら、
なんで日本人はアルファベットの筆記体が書けるの?って驚いていたんだよね。
 
でもさ、草書体って書けないし、読めないよね。
ましてや、変体仮名が混ざると難易度が高くなってくる。
 
たった百年二百年前の文字が読めないってのは、
なんか納得行かないというか、もったいないというか、
それでいいの?って思ってしまうんだ。
 
哲学とは関係ない話しになってきたな。
 
哲学ってのは、物事の本質を論理的に見極める学問だと思うわけで、題材はもっと根源的なものなんだけれども、宇宙ってなんだ?とか、人ってなんだ?とか、生きる意味ってなんだ?とかそういうことなんだろうけれども、自分は本質ってなんだ?ってなってしまう。
 
物事の本質とはなんだ?
本質から外れたものは異質なんだろうけれども、
異質って絶対的にダメなの?
 
役に立つってなんだ?
役に立たないってなんだ?
 
先の古文の話しじゃないけれども、草書体を知らずして古文の本質を理解出来るのだろうか?
って思うわけです。
 
たった数百年前の文字が読めない学習ってのは、本質から外れているのではなかろうか。
 
じゃあ、数学を学ぶ本質ってなんだろう。
ギリシャ時代の文字をそのまま理解しろとは言わないけれども、
数学という形で現代に残っているのはありがたいことだと思うわけです。
 
その数千年かけて蓄積してきたものを、学んでいるわけで、
それが現代の科学技術の源になっているんだけれども、
それは数式として目に見えるものでもなければ、
図形として目に見えるものでもないし、
文字として説明されているわけでもないんだ。
 
だけれども、その知識の蓄積があるから、この世界があるわけで、
それをうまく活用する人もいれば、活用できていない人もいる。
 
哲学を学ぶってのは、ある意味、自分の生き方の指針を決めてくれたり、
悩み事を解決してくれたり、そういうところがあるんだろうけれども、
哲学者が残したフレーズで、納得出来るか、納得した気になるか、
それが実生活に役に立つか、もっと言えば役に立ったか、
役に立たなかったか、それは未来にならないと解らなかったり、
死ぬまで結論が出ないのかもしれないなと
思うのであった。
 
なんか支離滅裂だなw
 
 
ではでは